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- 2012年09月27日 09:00
東日本大震災から今日までをいかに生き延びてきたか ―― 陸前高田の仮設住宅で暮らす女性たちによる座談会
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荻上 本日は、陸前高田の仮設住宅に住んでおられる、子どもを持つ女性のお三方にお集まりいただきました。みなさんは、震災から今日に至るまでの約一年半、様々な環境の変化を体験されていらっしゃるかと思います。今日は、被災直後から現在までの生活の変化や、支援で助かったこと、困ったことなどを座談会形式でお話いただければと思っております。
色々と話は尽きないかと思いますが、今回特に伺いたいのは、被災者女性特有のご苦労についてです。たとえば避難所や仮設住宅では、男性がリーダーに選ばれることが多いため、場所によっては、生理用品であったり、更衣室であったりと、女性への配慮が行き届かなかった場面もあると耳にします。
今回の避難・仮設生活から、どんな教訓を残せるだろうか。それを考えるために必要な視点、ヒントを、みなさんからいただけたらと思っております。それでは、最初に簡単な自己紹介をお願いできますでしょうか。
石川 竹駒町の滝の里工業団地仮設住宅に娘と2人で住んでいます。石川です。仮設住宅には6月7日に入りました。
船砥 船砥です。私と子ども4人、孫1人の6人家族で仮設住宅にいます。私も娘も、いわゆるシングルマザーです。
吉田 吉田といいます。石川さんと同じ滝の里工業団地仮設住宅に住んでいます。家族は6人で、2人の娘は大学で他の場所にいるので、4人で暮らしています。
荻上 早速ですが、まずは船砥さんから、震災当日から仮設住宅に入るまでの様子を詳しくお話しいただけないでしょうか。
でも、夕方に兄夫婦が迎えにきてくれたので、兄夫婦の家に向かいました。しかし兄夫婦の家も目の前まで津波が来ていたので、物資などが不足していましたから、その後は大船渡の避難所に行きました。
荻上 最初期の3か所の避難所で、どんな違いを感じられましたか。
船砥 食事がまったく違いました。高田高校では、最初に乾パンと水砂糖を2個ずつ、高寿園では、試飲用の小さな紙コップに、少しだけのお味噌汁を貰いました。それが大船渡の避難所だと、おにぎり2つにおかずが3種類くらい盛られたお皿が渡されて。「ここには食べ物があるんだ!」と驚きました。
あとから聞いた話では、どうやら津波で家を流されなかった人たちが、食料を持ち寄って炊き出しをしてくれていたようです。孫のミルクも保育園から貰えて助かりました。
ただ私たちは高田から避難しているので、大船渡の避難所にいるのが悪い気がして、結局、兄夫婦の家にお世話になることにしました。
荻上 お兄さんは何人家族ですか。
船砥 2人暮らしです。大船渡では、一般家庭に物資が配られなかったので、貯蓄されている食べ物で生活しなくてはいけませんでした。日に日に食料が底をついてくるのを見て、「私たち6人がいなければ、2人はもっと長く食べていけるんだ」と思い、兄夫婦の家も居心地の悪さを感じるようになりました。
2人は「焦らないでここにいればいい」と言ってくれたのですが、子どもたちに相談したところ、「高田の学校で卒業したい」と話していて、結局いつかは高田に戻ることになるのだからと思い、高田の避難所に戻ることにしました。
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船砥さん
船砥 仮設住宅の抽選が当たるまでの、だいたい1か月くらいです。
一度、市役所に「避難所はもう一杯で入れません」と断られています。「車があるのなら、大船渡から学校に通ってください」と言われて。全財産が2000円しかなく、ガソリン代もないことを話したら、「福祉関係でお金が借りられます」と。
仕事がなく、このさきどうなるかわからないのにお金を借りられるわけがないじゃないですか。それなのに、「見通しがついたら借りてください」「1年据え置きだから大丈夫です」と言われて、さすがにカチンときて。いったい誰が、1年後の私に仕事があるかどうかわかるんだと。仕事がなかったら代わりに払ってくれるのかと、ほとんど泣き落としで1時間くらい頑張ったら、部屋はバラバラになりましたが、なんとか避難所に入れてくれました。
荻上 いま話題にもなっている生活保護はやはり申請しづらいものでしたか。
船砥 もともと貧しかったので、震災前にも生活保護の話は出ていたのですが、そのときは車を持っていたために申請が通りませんでした。でも、子どもがたくさんいると病気になったときに病院に連れていけませんし、生活するうえで車は必要なんですよね。
荻上 車が必要な地域で、車を持つことを禁じられたら、外に出るなと言っているようなものになってしまいますね。船砥さんは、仮設住宅にはいつ頃入られたのですか。
船砥 5月8日です。仮設は物資がもらえるから、ある程度の生活ができると聞いていたのですが、1週間たっても届きませんでした。だからよそで物資がもらえるという話を聞いたら長女と一緒にもらいに行っていました。十数日後に、ようやく布団とテレビが届きました。
石川 物資が届いてないと、部屋はがらんどうだよね。
船砥 そう。電気はついたし、エアコンもついたけど、冷蔵庫も洗濯機も、机もなくて。ご飯は段ボールの上で食べていました。
荻上 物資が届くまでは、手持ちの2000円を切り崩して生活していたんですか。
船砥 いえ。2000円にはいっさい手を付けずに、貰ったものだけで生き繋いでいました。7月末に、浜のミサンガ(http://www.sanriku-shigoto-project.com/)のお給料が入るまで、お金は使いませんでした。
荻上 ミサンガの話はどこで知ったのですか。
船砥 友達に聞いてまわって、仕事を探していたんです。
本当は落ち着いた頃に東京に出稼ぎに行くつもりでした。昼は工場で働き、夜はコンビニでバイトして、家族にお金を送るつもりでした。でも小学生の娘が津波のストレスでダウン気味だったので、置いていくわけにもいかず。そのときにミサンガの仕事を知って。本当にラッキーでした。
今だから言える話ですが、給料がもらえるまで、3回ほど子どもたちに手をかけてしまおうかと思ったことがあります。最初は「私が死ねばこの子達はもっと食べられる」と思ったのですが、「この子たちをおいて死んでも、やっぱり苦労するんだろう」と思って。寝静まったころに、どれから手をかければいいかなどを、まじめに考えていたんですよ。騒ぐかもしれないと思って、仮設に火をかけることも考えて。そこまで追い込まれていたんです。
私は、単純な性格なので、寝て起きたら、津波だって生き延びることができたんだ、国が国民を見殺すわけがない、世の中の誰かがきっと助けてくれるって、生きる気力がわくんです。でも夜になればまた死にたくなる。その繰り返しです。
でも、いろいろな人に助けられました。避難所で一緒だった人が、「パンやるぞ、お菓子あるぞ」って声をかけてくれて。だから私もお返しに、うちで洗濯していきなって言って。
荻上 ミサンガの、初めてのお給料はどのくらいでした?
船砥 2万円です。本当に嬉しかったです。
給料が入った日に、2万2000円を持ってみんなでローソンに行きました。「好きなものを買ってやる!」と言ったら、子どもたちはからあげくんを1個ずつ食べて、「うめえ!」と言いながら食べていました。1人1パック、ではありません。1パックだけ買って、それをみんなで1つずつ分けて食べたんです。
それを見て、「かわいそうな思いをさせているんだ」と、悲しくなりました。私はそのとき、せっかくだからビールを買おうと思っていて、「いいのかなあ」と思っていて。申し訳ないから棚に戻そうかと思っていると、子どもたちは私が呑むのを知っているので「もっと買っていいよ」「せっかくだから呑んでよ」って。
結局、その日は2000円しか使わなかったので、残った2万円で、お米と日持ちしそうなレトルト食品を2万円分買いました。これで次の給料まで食いつなぐつもりでした。あとで避難所のみんなに、「カレーももらってなかったの?」と言われたのですが、私たちは1ヵ月しか避難所生活をしていないので、物資をほとんどもらっていないんですよね。
吉田 3ヶ月いたら結構もらえたよ。
船砥 そう。だからみんながお米を持って仮設住宅にきたときは、「え!米!?」ってびっくりした。
荻上 時期や時間で違いが出てきてしまうんですね。仮設住宅に早く入ることや、親戚が迎えにきてくれることは、一見するとハッピーなことに思えるけれど、避難所に物資が集中して届く場合など、一概にそうとは言えない状況があるわけですね。
船砥 そうなんです。いまはいろいろな物資がくるようになって、ある程度の生活はできるようになりましたし、ミサンガで収入も得ています。ですから、みんなに助けられてきた分、今度は、たとえば家があって、義捐金や物資がもらえない人たちのために事務所を構えて、物資の配布などの活動をしています。
石川 当日は、お姑さんとお舅さんの3人で、津波から逃れるために、県立病院の屋上で一晩過ごしていました。病院は水浸しで、何もなかったので、紙おむつをかぶって寒さをしのぎました。
次の日、ヘリコプターで救助に来てもらえたので、中学校の避難所に移動して、仮設住宅の抽選が当たるまでその避難所にいました。
荻上 娘さんとはいつ会えましたか。
石川 中学校に移動した3日後ですね。学校は大丈夫と聞かされていたので、あまり心配していませんでした。ただ、消防団の夫と連絡がとれなくなっていたこと、実家の両親が逃げられなかったことを聞いていて、そちらの方は不安でいっぱいでしたね。
でも、結局、3人とも駄目で……。それを知ったときは、頭が真っ白になりました。とりあえず、あとはもう、娘のことしか頭にありませんでした。
荻上 大変でしたね……。避難所の雰囲気や物資の整い具合はいかがでしたか。
石川 私の場合は、親戚や友達がいろいろと持ってきてくれたので、避難所の物資はあまりもらいませんでした。ただ、持っていない人は、体育館や事務所から布団などを貰っていたようです。
荻上 食事はいかがでしたか。
石川 病院の屋上に避難していたときは食事がなくて、次の日のお昼ごろにようやく、自衛隊の方にいただいた水と乾パンを食べました。中学校に移動した次の日の夜は、おにぎりとお味噌汁と、から揚げを一個、貰いました。
荻上 それから2ヶ月近く避難所生活をされてきたわけですが、雰囲気はどのように変わっていったのでしょうか。
石川 避難所は、体育館とその2階にわかれていました。私たちは2階にいたのですが、やはり体育館に比べたらよい環境でしたし、気の合う人たちだったので、嫌な思いはしませんでした。
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石川さん
石川 結構、元気でしたね。やっぱりどこでも住めば都で(笑)。娘も安心したのか、初日からすぐに眠れました。それまではやっぱり眠りにくくて。
荻上 体育館ですと、消灯してから足音やいびきが問題になるかと思いますが。
石川 そうみたいですが、私たちは2階にいたので、体育館の様子は知らなくて。
吉田 ある避難所ではいびきが問題になって、いびきの酷い人を隔離したところみたいです。
一同 (苦笑)
船砥 私がいた避難所だと、夜、トイレに行く人の足音が途切れませんでした。ペタペタと足音が聞こえてきたかと思うと、何秒もしないうちにまたペタペタと。それが朝まで。気にしだすと、眠れないですね。
あとやっぱり、いびきも問題になりました。それと、ときどき奇声をあげる人が結構にいました。最初はみんな我慢していたんだけど、だんだん、「いびきがうるさい」と喧嘩になったり。些細なことでいざこざが起きていました。食べ物が遅いだとか、量が違うだとか、掃除していないとかでも、トラブルになっていましたね。
石川 体育館だとストレスが溜まりやすいからと、日中だけ、2階に来る人もいました。やっぱり、教室のほうが、いくらか環境がよかったんだと思います。体育館は、いくら間仕切りができたとはいえ、大きなワンフロアに変わりないですから。
船砥 体育館は、四方から視線を感じるので、なんだか呼吸もしづらくて。ちらっと横を見たら誰かと目があうので顔を動かせないんです。だから読むでもない新聞をずっと広げて、何かをしているふりをずっとしたりして。
昼間でも、横になろうかと思っても、視線を感じるためになかなか横になれませんし、逆にみんなが寝ているときは、起き上がると視線を感じるので、屈むような格好でいたり。何かを食べようと思っても、みんなが見ていると思うと食べにくくて。ですから子どもたちが外で遊んでいるあいだは、車か2階に行っていました。
石川 船砥さんの家は小さいお子さんもいるのに、なんで2階に入れないのか、不思議だったよね。
船砥 小さい子どもを入れてくれる部屋があって、小学生1年生の子どもはそこにいました。でも、私は入れなかったんです。2階にいる人たちも、「つめれば入れるのに」と言ってくれていたんだけど。
吉田 うちのじいちゃん、ばあちゃんみたいに、知らないふりして入っちゃえばよかったのに
荻上 震災直後、心のケアが重要だといったこともさかんに言われましたが、そのためにもまずは、十分な部屋、十分なプライバシーの確保が重要ですよね。
船砥 せめて、間仕切りのための段ボールを早く支給して欲しかったと思っていました。
荻上 段ボールは、いつ頃支給されたのでしょうか。
船砥 結局、私が避難所をでる前までは支給されませんでした。途中から避難所にはいった私は、1か月くらいしかいませんでしたが、それでも十分ストレスになりました。ということは、最初から入っていた人は、3カ月以上仕切りのない生活をしていたことになります。これは大変だと思いました。
石川 2階は支給されませんでしたし、たぶんされても立てなかったと思います。
船砥 壁が待ち遠しくて、「間仕切りがきたら、ここにこうやって体を隠そう」という想像をよくしていました(笑)
吉田 誰にも見られないで生活したいっていうのはあるよね。
船砥 大船渡の避難所に友達を探しに行ったとき、体育館に、1家族ずつテントを張っていて。これはいいなあと思いましたね。
石川 でも屋内テント、暑かったってさ。
荻上 そういうデメリットもあるんですね。テントというのはドーム型のものですか。
吉田 そうです。サンビレッジ高田という避難所もテントを張っていたみたいです。ただそこは、雨が降ると雨漏りしていたみたいで。
石川 でもサンビレッジは人気だったよね。誰かが抜けたら、すぐに他の人が入ってたもん。
吉田 サンビレッジが一番いいブースだってみんな言ってたね。毎日シャワーを浴びられたみたい。
荻上 どこの避難所に近かったかで環境がまったく違ってくるんですね。避難所のよしあしも、口コミで話題になるほどに。
荻上 本日は、陸前高田の仮設住宅に住んでおられる、子どもを持つ女性のお三方にお集まりいただきました。みなさんは、震災から今日に至るまでの約一年半、様々な環境の変化を体験されていらっしゃるかと思います。今日は、被災直後から現在までの生活の変化や、支援で助かったこと、困ったことなどを座談会形式でお話いただければと思っております。
色々と話は尽きないかと思いますが、今回特に伺いたいのは、被災者女性特有のご苦労についてです。たとえば避難所や仮設住宅では、男性がリーダーに選ばれることが多いため、場所によっては、生理用品であったり、更衣室であったりと、女性への配慮が行き届かなかった場面もあると耳にします。
今回の避難・仮設生活から、どんな教訓を残せるだろうか。それを考えるために必要な視点、ヒントを、みなさんからいただけたらと思っております。それでは、最初に簡単な自己紹介をお願いできますでしょうか。
石川 竹駒町の滝の里工業団地仮設住宅に娘と2人で住んでいます。石川です。仮設住宅には6月7日に入りました。
船砥 船砥です。私と子ども4人、孫1人の6人家族で仮設住宅にいます。私も娘も、いわゆるシングルマザーです。
吉田 吉田といいます。石川さんと同じ滝の里工業団地仮設住宅に住んでいます。家族は6人で、2人の娘は大学で他の場所にいるので、4人で暮らしています。
荻上 早速ですが、まずは船砥さんから、震災当日から仮設住宅に入るまでの様子を詳しくお話しいただけないでしょうか。
避難先で感じる居心地の悪さ
船砥 私はこの仮設住宅に入るまで、いろいろなところを転々としていました。震災当日は高田高校第2グラウンドで一夜を過ごし、次の日は、高寿園に移動しました。そこから、大船渡まで歩いて行くつもりだったのです。でも、夕方に兄夫婦が迎えにきてくれたので、兄夫婦の家に向かいました。しかし兄夫婦の家も目の前まで津波が来ていたので、物資などが不足していましたから、その後は大船渡の避難所に行きました。
荻上 最初期の3か所の避難所で、どんな違いを感じられましたか。
船砥 食事がまったく違いました。高田高校では、最初に乾パンと水砂糖を2個ずつ、高寿園では、試飲用の小さな紙コップに、少しだけのお味噌汁を貰いました。それが大船渡の避難所だと、おにぎり2つにおかずが3種類くらい盛られたお皿が渡されて。「ここには食べ物があるんだ!」と驚きました。
あとから聞いた話では、どうやら津波で家を流されなかった人たちが、食料を持ち寄って炊き出しをしてくれていたようです。孫のミルクも保育園から貰えて助かりました。
ただ私たちは高田から避難しているので、大船渡の避難所にいるのが悪い気がして、結局、兄夫婦の家にお世話になることにしました。
荻上 お兄さんは何人家族ですか。
船砥 2人暮らしです。大船渡では、一般家庭に物資が配られなかったので、貯蓄されている食べ物で生活しなくてはいけませんでした。日に日に食料が底をついてくるのを見て、「私たち6人がいなければ、2人はもっと長く食べていけるんだ」と思い、兄夫婦の家も居心地の悪さを感じるようになりました。
2人は「焦らないでここにいればいい」と言ってくれたのですが、子どもたちに相談したところ、「高田の学校で卒業したい」と話していて、結局いつかは高田に戻ることになるのだからと思い、高田の避難所に戻ることにしました。
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船砥さん
4か月間、2000円を死守する
荻上 本当に転々としていますね。それから、どのくらい高田の避難所にいらっしゃったのでしょうか。船砥 仮設住宅の抽選が当たるまでの、だいたい1か月くらいです。
一度、市役所に「避難所はもう一杯で入れません」と断られています。「車があるのなら、大船渡から学校に通ってください」と言われて。全財産が2000円しかなく、ガソリン代もないことを話したら、「福祉関係でお金が借りられます」と。
仕事がなく、このさきどうなるかわからないのにお金を借りられるわけがないじゃないですか。それなのに、「見通しがついたら借りてください」「1年据え置きだから大丈夫です」と言われて、さすがにカチンときて。いったい誰が、1年後の私に仕事があるかどうかわかるんだと。仕事がなかったら代わりに払ってくれるのかと、ほとんど泣き落としで1時間くらい頑張ったら、部屋はバラバラになりましたが、なんとか避難所に入れてくれました。
荻上 いま話題にもなっている生活保護はやはり申請しづらいものでしたか。
船砥 もともと貧しかったので、震災前にも生活保護の話は出ていたのですが、そのときは車を持っていたために申請が通りませんでした。でも、子どもがたくさんいると病気になったときに病院に連れていけませんし、生活するうえで車は必要なんですよね。
荻上 車が必要な地域で、車を持つことを禁じられたら、外に出るなと言っているようなものになってしまいますね。船砥さんは、仮設住宅にはいつ頃入られたのですか。
船砥 5月8日です。仮設は物資がもらえるから、ある程度の生活ができると聞いていたのですが、1週間たっても届きませんでした。だからよそで物資がもらえるという話を聞いたら長女と一緒にもらいに行っていました。十数日後に、ようやく布団とテレビが届きました。
石川 物資が届いてないと、部屋はがらんどうだよね。
船砥 そう。電気はついたし、エアコンもついたけど、冷蔵庫も洗濯機も、机もなくて。ご飯は段ボールの上で食べていました。
荻上 物資が届くまでは、手持ちの2000円を切り崩して生活していたんですか。
船砥 いえ。2000円にはいっさい手を付けずに、貰ったものだけで生き繋いでいました。7月末に、浜のミサンガ(http://www.sanriku-shigoto-project.com/)のお給料が入るまで、お金は使いませんでした。
荻上 ミサンガの話はどこで知ったのですか。
船砥 友達に聞いてまわって、仕事を探していたんです。
本当は落ち着いた頃に東京に出稼ぎに行くつもりでした。昼は工場で働き、夜はコンビニでバイトして、家族にお金を送るつもりでした。でも小学生の娘が津波のストレスでダウン気味だったので、置いていくわけにもいかず。そのときにミサンガの仕事を知って。本当にラッキーでした。
今だから言える話ですが、給料がもらえるまで、3回ほど子どもたちに手をかけてしまおうかと思ったことがあります。最初は「私が死ねばこの子達はもっと食べられる」と思ったのですが、「この子たちをおいて死んでも、やっぱり苦労するんだろう」と思って。寝静まったころに、どれから手をかければいいかなどを、まじめに考えていたんですよ。騒ぐかもしれないと思って、仮設に火をかけることも考えて。そこまで追い込まれていたんです。
私は、単純な性格なので、寝て起きたら、津波だって生き延びることができたんだ、国が国民を見殺すわけがない、世の中の誰かがきっと助けてくれるって、生きる気力がわくんです。でも夜になればまた死にたくなる。その繰り返しです。
でも、いろいろな人に助けられました。避難所で一緒だった人が、「パンやるぞ、お菓子あるぞ」って声をかけてくれて。だから私もお返しに、うちで洗濯していきなって言って。
荻上 ミサンガの、初めてのお給料はどのくらいでした?
船砥 2万円です。本当に嬉しかったです。
給料が入った日に、2万2000円を持ってみんなでローソンに行きました。「好きなものを買ってやる!」と言ったら、子どもたちはからあげくんを1個ずつ食べて、「うめえ!」と言いながら食べていました。1人1パック、ではありません。1パックだけ買って、それをみんなで1つずつ分けて食べたんです。
それを見て、「かわいそうな思いをさせているんだ」と、悲しくなりました。私はそのとき、せっかくだからビールを買おうと思っていて、「いいのかなあ」と思っていて。申し訳ないから棚に戻そうかと思っていると、子どもたちは私が呑むのを知っているので「もっと買っていいよ」「せっかくだから呑んでよ」って。
結局、その日は2000円しか使わなかったので、残った2万円で、お米と日持ちしそうなレトルト食品を2万円分買いました。これで次の給料まで食いつなぐつもりでした。あとで避難所のみんなに、「カレーももらってなかったの?」と言われたのですが、私たちは1ヵ月しか避難所生活をしていないので、物資をほとんどもらっていないんですよね。
吉田 3ヶ月いたら結構もらえたよ。
船砥 そう。だからみんながお米を持って仮設住宅にきたときは、「え!米!?」ってびっくりした。
荻上 時期や時間で違いが出てきてしまうんですね。仮設住宅に早く入ることや、親戚が迎えにきてくれることは、一見するとハッピーなことに思えるけれど、避難所に物資が集中して届く場合など、一概にそうとは言えない状況があるわけですね。
船砥 そうなんです。いまはいろいろな物資がくるようになって、ある程度の生活はできるようになりましたし、ミサンガで収入も得ています。ですから、みんなに助けられてきた分、今度は、たとえば家があって、義捐金や物資がもらえない人たちのために事務所を構えて、物資の配布などの活動をしています。
紙おむつで寒さをしのぐ
荻上 石川さんはどのように過ごしていらっしゃったのでしょうか。石川 当日は、お姑さんとお舅さんの3人で、津波から逃れるために、県立病院の屋上で一晩過ごしていました。病院は水浸しで、何もなかったので、紙おむつをかぶって寒さをしのぎました。
次の日、ヘリコプターで救助に来てもらえたので、中学校の避難所に移動して、仮設住宅の抽選が当たるまでその避難所にいました。
荻上 娘さんとはいつ会えましたか。
石川 中学校に移動した3日後ですね。学校は大丈夫と聞かされていたので、あまり心配していませんでした。ただ、消防団の夫と連絡がとれなくなっていたこと、実家の両親が逃げられなかったことを聞いていて、そちらの方は不安でいっぱいでしたね。
でも、結局、3人とも駄目で……。それを知ったときは、頭が真っ白になりました。とりあえず、あとはもう、娘のことしか頭にありませんでした。
荻上 大変でしたね……。避難所の雰囲気や物資の整い具合はいかがでしたか。
石川 私の場合は、親戚や友達がいろいろと持ってきてくれたので、避難所の物資はあまりもらいませんでした。ただ、持っていない人は、体育館や事務所から布団などを貰っていたようです。
荻上 食事はいかがでしたか。
石川 病院の屋上に避難していたときは食事がなくて、次の日のお昼ごろにようやく、自衛隊の方にいただいた水と乾パンを食べました。中学校に移動した次の日の夜は、おにぎりとお味噌汁と、から揚げを一個、貰いました。
荻上 それから2ヶ月近く避難所生活をされてきたわけですが、雰囲気はどのように変わっていったのでしょうか。
石川 避難所は、体育館とその2階にわかれていました。私たちは2階にいたのですが、やはり体育館に比べたらよい環境でしたし、気の合う人たちだったので、嫌な思いはしませんでした。
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石川さん
プライバシーのない空間
荻上 仮設に移動してからのお子さんの様子はどうでしたか。石川 結構、元気でしたね。やっぱりどこでも住めば都で(笑)。娘も安心したのか、初日からすぐに眠れました。それまではやっぱり眠りにくくて。
荻上 体育館ですと、消灯してから足音やいびきが問題になるかと思いますが。
石川 そうみたいですが、私たちは2階にいたので、体育館の様子は知らなくて。
吉田 ある避難所ではいびきが問題になって、いびきの酷い人を隔離したところみたいです。
一同 (苦笑)
船砥 私がいた避難所だと、夜、トイレに行く人の足音が途切れませんでした。ペタペタと足音が聞こえてきたかと思うと、何秒もしないうちにまたペタペタと。それが朝まで。気にしだすと、眠れないですね。
あとやっぱり、いびきも問題になりました。それと、ときどき奇声をあげる人が結構にいました。最初はみんな我慢していたんだけど、だんだん、「いびきがうるさい」と喧嘩になったり。些細なことでいざこざが起きていました。食べ物が遅いだとか、量が違うだとか、掃除していないとかでも、トラブルになっていましたね。
石川 体育館だとストレスが溜まりやすいからと、日中だけ、2階に来る人もいました。やっぱり、教室のほうが、いくらか環境がよかったんだと思います。体育館は、いくら間仕切りができたとはいえ、大きなワンフロアに変わりないですから。
船砥 体育館は、四方から視線を感じるので、なんだか呼吸もしづらくて。ちらっと横を見たら誰かと目があうので顔を動かせないんです。だから読むでもない新聞をずっと広げて、何かをしているふりをずっとしたりして。
昼間でも、横になろうかと思っても、視線を感じるためになかなか横になれませんし、逆にみんなが寝ているときは、起き上がると視線を感じるので、屈むような格好でいたり。何かを食べようと思っても、みんなが見ていると思うと食べにくくて。ですから子どもたちが外で遊んでいるあいだは、車か2階に行っていました。
石川 船砥さんの家は小さいお子さんもいるのに、なんで2階に入れないのか、不思議だったよね。
船砥 小さい子どもを入れてくれる部屋があって、小学生1年生の子どもはそこにいました。でも、私は入れなかったんです。2階にいる人たちも、「つめれば入れるのに」と言ってくれていたんだけど。
吉田 うちのじいちゃん、ばあちゃんみたいに、知らないふりして入っちゃえばよかったのに
荻上 震災直後、心のケアが重要だといったこともさかんに言われましたが、そのためにもまずは、十分な部屋、十分なプライバシーの確保が重要ですよね。
船砥 せめて、間仕切りのための段ボールを早く支給して欲しかったと思っていました。
荻上 段ボールは、いつ頃支給されたのでしょうか。
船砥 結局、私が避難所をでる前までは支給されませんでした。途中から避難所にはいった私は、1か月くらいしかいませんでしたが、それでも十分ストレスになりました。ということは、最初から入っていた人は、3カ月以上仕切りのない生活をしていたことになります。これは大変だと思いました。
石川 2階は支給されませんでしたし、たぶんされても立てなかったと思います。
船砥 壁が待ち遠しくて、「間仕切りがきたら、ここにこうやって体を隠そう」という想像をよくしていました(笑)
吉田 誰にも見られないで生活したいっていうのはあるよね。
船砥 大船渡の避難所に友達を探しに行ったとき、体育館に、1家族ずつテントを張っていて。これはいいなあと思いましたね。
石川 でも屋内テント、暑かったってさ。
荻上 そういうデメリットもあるんですね。テントというのはドーム型のものですか。
吉田 そうです。サンビレッジ高田という避難所もテントを張っていたみたいです。ただそこは、雨が降ると雨漏りしていたみたいで。
石川 でもサンビレッジは人気だったよね。誰かが抜けたら、すぐに他の人が入ってたもん。
吉田 サンビレッジが一番いいブースだってみんな言ってたね。毎日シャワーを浴びられたみたい。
荻上 どこの避難所に近かったかで環境がまったく違ってくるんですね。避難所のよしあしも、口コミで話題になるほどに。



