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疾患特異的iPS細胞がもたらす「認識の変革」 - 八代嘉美


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9月9日、ロンドン・パラリンピックが閉幕した。史上最多のメダル数ということで、日本でもたいそう盛り上がったオリンピックの余韻か障害者スポーツへの関心の高まりか、これまでよりスポーツニュースなどでも報道される機会が多かったように思う。8月29日の開会式には車椅子の物理学者として名高い、英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が登場し、スピーチを行った。

博士は「パラリンピックは、われわれの世界に対する認識を変革させることにつながる」と語り、さらに「人は皆違い、基準や普通の人間などというものはないが、人としての魂は同じように持っている」と選手たちにエールを送った。博士のスピーチの約1月前、疾患研究の世界においても、ひとつの「変革」があった。それは、ホーキング博士自身の疾患、筋萎縮性席索硬化症(ALS)にまつわるものである。ALSはl868年に病理解剖学者で神経科医だったシャルコーらによって初めて報告され、1874年に定義付けられている。筋肉が萎縮し運動障害がおこり、最終的には呼吸をつかさどる神経が麻痺して亡くなってしまう病気だ。進行も速く、半数ほどが発症後3年から5年で呼吸筋麻痺に至る場合もあり、日本では1974年に特定疾患として難病に指定され、2009年の時点で約8500人の患者がいるとされている。筋肉で大きな症状が出るが、その原因は運動系のニューロンが障害されることで異常を来たす神経変性疾患であることがわかっている。

こうした神経変性疾患が発症するメカニズムの探求は、分子生物学の発達と共に大きく発展してきた。だが、治療法の進歩はどうかといえば、もちろん対症療法などの面で着実な進歩があったことは間違いないのだが、世界を見渡しても、まだ決定的な治療薬は発見されていない。ALSは、シャルコーが1874年の報告で、自分が記憶した症例に基づき、ALSと診断した患者には回復した症例は皆無であり、現状はまったく希望が持てないものであるとしており、現在でも社会にはそのような認識が根強い。だがその認識が、大きく変わるかもしれないのである。その「変革」をもたらしたのが、iPS細胞であった。

京都大学iPS細胞研究所の井上治久准教授(神経内科)らは、ALS患者から皮膚の提供を受け、iPS細胞を樹立し、運動ニューロンをつくった。この性質を調べたところ、信号を伝える神経突起の長さが、非ALS患者のiPS細胞から作られた運動ニューロンと比べ約半分しかなく、ALS患者の大半の細胞質で見つかる「TDP-43」というタンパク質が凝集しており、死滅しやすくなっていることが見出された。

これは実際のALS患者の病理組織が持つ特徴と同じであり、iPS細胞から作られた細胞が実際の病気の状態を再現することが示されたということがいえる。さらに、井上准教授らは各種の化合物をニューロン細胞の培養液に加える実験を繰り返した結果、タンパク質の合成で重要な役割を持つ、RNAの代謝を調節するアナカルジン酸が「TDP-43」の合成を抑えることが判明し、投与後16時間後には神経突起の長さが倍となり、非ALS患者と同程度の長さになることも見出した。

もちろん、実際の患者に対して効果があるのか、どのようにして投与するのかといった応用面への道のりは長い。細胞レベルで効果のあった化合物が、実際の市販薬として世の中に出てくるのは数万分の1の確率でしかないと言われている。だが、この研究によってiPS細胞が病気の発生するメカニズムを明らかにし、さらに創薬のための道筋を与えることができることを実際にしめしたことは非常に大きな意味をもつ。

ある特定の患者から作られたiPS細胞は「疾患特異的iPS細胞」と呼ばれる。たとえばアルツハイマー症のような疾患の場合でも、実際に生きている患者の頭を外科的に開き、細胞を取ってくるということは現実的ではない。また、不妊の患者の生殖細胞を採取してそのメカニズムを調べることもまた難しい。さらに、百寿者からのiPS細胞の樹立など、きわだった特徴をもつiPS細胞の樹立の報告は相次いでいる。つまり、今回の成果はALSだけにとどまらない、大きなモデルケースであるといえるのだ。

これまで、iPS細胞を治療に使うといえば、一般的なイメージとしては「再生医療」のリソースとして用いることがまず浮かぶ。しかし、このような使い方でiPS細胞が使えるということになれば、より多くの人々に、その研究成果を還元することができるようになる。政府は2020年までの「日本再生戦略」に、医療分野の競争力強化などを盛りこんでいる。今年度一杯で、iPS細胞を用いた再生医療や創薬への研究支援プロジェクトだった「第二期再生医療の実現化プロジェクト」は終了する。

だが、再生医療の臨床応用へと向けた国家プロジェクトとして、昨年度から「再生医療の実現化ハイウェイ」がスタートしており、そして、来年度の開始に向けて、文部科学省が「疾患特異的iPS 細胞を活用した難病研究」の公募を始めている。この事業は文部科学省が大学や研究機関などの基礎研究を行なっている研究者に対して資金を与えるものであるが、厚生労働省が行なっている「難治性疾患克服研究事業」のもとで研究を行う臨床の研究者との連携を募集の要件として明記している。

もちろん、競争が激しい研究の世界では、まだまだ国からの支援は十分とは言いがたい。だが、このことは、基礎研究のみで閉じがちだった文部科学省が、役所にありがちな縦割りの姿勢から歩を進めた「意識の変革」であり、一日も早い臨床への還元を目指したものとして、評価すべきだろう。逆に言えば、iPS細胞がそれほどの長足の進歩を示しており、日本から始まった研究として国際競争力が失われかねないことへの危機感の現れなのかもしれない。

シャルコーは、ALSの治療は現時点で希望が持てないものでありつつも、それを「結論」としていいのか、それは将来まで待つべきであるとしていた。1980年代に入り、ポータブルの呼吸器の補助などで、長期にわたって、在宅も含めた呼吸療養ができるようになり、ALSの呼吸筋麻痺が必ずしも終末点=「死」ではなくなってきていた。さらに、疾患特異的iPS細胞の活用などで、さらにその終末点は変わっていくだろう。まさにシャルコーの言う「結論」は変わっていくのだ。

注意しなければならないのは、原因遺伝子の判明や治療法の確立が、望んだ形質の子供だけを選抜する「デザイナーベイビー」や遺伝子変異を根拠とする差別、あるいは「なぜ治さないのか?」といった社会的圧力を生むような、優生学的なディストピアを招来しないよう、留意していく必要がある。ニュースにもなったように、母体の血液検査で胎児の遺伝情報を読み取ることのできる、そんな時代になっている。技術の進歩、科学の発見、それらはさまざまな不可能を可能にする。そうした知識を単一の価値観の強要へと用いるのではなく、多様な価値観の混在を許容する、そんな時代への道筋にするべきである。

ホーキング博士は、冒頭に記したスピーチの前段でこう述べている。「知識における最大の敵は無知ではなく、知っていると錯覚することだ」と。「健康」と定義されるひとたちでも、100を超える遺伝子の変異を抱えていることが報告されている。こうした現象を知れば、ホーキング博士が言うように、「人は皆違い、基準や普通の人間などというものはない」。所詮、私たちはだれしも「変異体(ミュータント)」なのだ。「治せない」、という単一の絶望から、「治さない」「治す」という選択の容認と、その権利の尊重・保護へ。それこそがiPS細胞後の世界に求められる、「認識の変革」なのではなかろうか。


八代嘉美(やしろ・よしみ)/記事一覧
1976 年生まれ。慶應義塾大学医学部特別研究助教。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、博士(医学)。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。再生医療研究 の経験とSFなどの文学研究を題材に、「文化としての生命科学」の確立をを試みている。著書に『iPS細胞 世紀の技術が医療を変える』、『再生医療のしくみ』(共著)等。

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