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現実を見つめる、自分で考える 『皇国日本とアメリカ大権』著者、橋爪大三郎氏インタビュー

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■宗教を知らずに警戒していても、逃れられない落とし穴

――たとえば、キリスト教の正典である聖書は、解読が簡単ではなく、今も研究者がたくさんいます。それに比べて、1937年に発刊した『國體の本義」が、短期間で日本のすみずみにいきわたった理由はなんでしょうか。そして、人びとに強い説得力をもったのはなぜでしょうか。日本に滞在するイスラム教徒の人が、断食をしなかったり、豚のエキスをつかったカレーやラーメンを食べたりという宗教的ではない行動をしたとき、「冷静で合理的態度だ」と褒める日本人がいます。日本で、宗教によって行動様式を定められている様子を侮る風潮があるのはなぜでしょうか。

『國體の本義』の言っているのは、「共同体のためにメンバーが犠牲になることは価値がある」です。これは、武士の伝統や、ムラ社会の伝統にもさかのぼる思想です。日本人には馴染みがあり、わかりやすい。

この思想を学校で教えると、日本社会の全体が、「メンバーが犠牲になっても当然」という共同体になります。

戦時中、硫黄島に着任した栗林忠道中将は、一日でも長く抵抗を続け飛行場の建設と本土爆撃を遅らせるため、バンザイ突撃などを禁止し、地下壕を張りめぐらして頑強に抵抗することにしました。結局、硫黄島の守備隊は全滅しましたが、アメリカ軍は全島攻略に1ヶ月あまりを要しました。この作戦には合理性があります。

いっぽう、本土決戦が迫ると一億玉砕が呼ばれ、非戦闘員を含めて全員が死を覚悟しました。政略と戦略(軍略)が切り離されると、軍は不合理な存在になります。日本人が全滅してしまえば、政略上の目的を達成するどころではないので、一億玉砕には何の合理性もない。けれども、戦争をやめる(降伏する)という合理的な決定を、誰も言い出せませんでした。

日本人は、一億玉砕という非合理な宗教的熱情に対して、合理的な決定を言い出せなかった。瀬戸際で玉砕はしないで済んだけれど、その経験があるので、宗教的熱情に対しては警戒的で、距離をとりたくなるのです。

しかし、これはただの、裏返しです。皇国主義で懲りたので、カルト宗教などの宗教的熱情に巻き込まれまいとする。でも、いかにもカルト宗教という外見をとっていない、誰でもが考えそうな思考の落とし穴のほうが、実は危険だし害も大きい。宗教のことをよく知らないでただ宗教を警戒するだけでは、宗教(に相当する言論世界のトリック)と距離をとることなど無理なのです

政府と権力をコントロールする覚悟と責任

――「とにかく権力(国家権力)に反対する」という立場をとる人たちがいます。『皇国主義とアメリカ大権」では、国民主権であるならば、自分たちが権力を自覚的に運用しなければならないと述べられています。わたしたち自身に主権があることを自覚し、権力を正しく運用するためにはどんなことが必要でしょうか。

日本では市民は、政府に反対し、権力と距離を置くことになっています。

とても奇妙なことです。

権力と無関係であることをよしとすると、権力に関わることができないので、結局、権力に依存することになります。人間として生きるふつうの人びとは、政府と権力をコントロールする、覚悟と責任がなければならない。

「人間として生きるふつうの人びと」を、「国民」とよぶことも問題です。

国民主権というと、国民がもっている権利、すなわち、選挙権のことで、選挙で示される国民の意思のことである、というイメージになります。それも主権の行使には違いないが、論理的に考えると、これだけではない。選挙権は、憲法が保証する国民の権利ですが、では憲法を憲法たらしめているのは、何なのか。憲法学の教科書では、「憲法制定権力」と書いてあります。「人間として生きるふつうの人びと」(人民)が、憲法があろうとなかろうと、権力の主体だ、ということです。

国民主権よりも、主権在民のほうが、よい言い方かもしれない。国民ではなくて人民とも解釈できる。国家がなければ国民もありませんが、人民は国家がなくても人民です。

よって、国家をつくる権力の主体は、人民です。だから、アメリカ合衆国憲法にも、フランス共和国憲法にも、「わたしたち人民は…」と書いてあるのです。

皇国主義には、人民が権力の主体だという考えがありません。でもそれを言えば、戦後民主主義も、人民が権力の主体である、とは教えないのです。その呪縛のなかで市民運動をやると、権力にただ反対したくなるのです。

政府は、自分たちの政府であり、自分たちが権力の主体であると思わなければ、民主主義になりません。

思想のマナーを身につけて、一人ひとりが理性で自立する

――『國體の本義』は、当時の知識を結集したものであり、世界の構造をすっきりと説明できる「万能カギ」であったために、とても説得力があったのだと理解しました。現代日本で、再び『國體の本義』のような「万能カギ」が生みだされうるでしょうか。もし現代版『國體の本義』が生まれたとき、洗脳されないためにはどうしたらよいでしょうか。

皇国主義は『國體の本義』を教科書としてうみ出されるものです。『國體の本義』は教科書ですから、正しいことが前提で、疑問や反論は許されない。教科書の通りにひと通りに考える、大勢の人びとをうみ出します。

科学や、哲学や思想は、これと違ったものです。

科学は、一人ひとりが独立して思考する。あらかじめ決まった、こう考えるという教条(ドグマ)はありません。むしろ、そんなものを否定する。理性にもとづいていれば、そして証拠(実験や観察の結果)に裏付けられていれば、どんな主張をしてもいいのです。科学者は大勢いるので、主張もたくさんあります。異なる主張(仮説)のあいだで論争があり、実験や観察によって決着していく。その繰り返しが科学です。

哲学や思想も、あらかじめ決まった教条がなく、理性と根拠にもとづいて、個人の責任で議論を組み立てて、論争する点は、科学と同じです。

科学も、哲学も、考え方がひとつに決まらないのですから、「洗脳」という現象はありません。知らず知らずのうちに、型にはまった考え方(パラダイム)しかできなくなる、という現象があるだけです。

歴史もまた、科学のマナーに従うのであれば、哲学や思想と同じです。

けれども、ネイション(国民国家)は歴史を芯にして形成されるものなので、歴史には個人を越えた、大きな重量がかかります。その重量を、国民が支えるわけです。すると、洗脳のような現象が、生まれないとは言えない。

しかし、科学や、哲学や思想のマナーをしっかり身につけ、一人ひとりが理性によって自立していれば、洗脳を心配しなくてよいと思います。

自分が生きる上での根本的な問題は、自分で考えよう

――現代もかたちを変えて私たちの無意識にいきる皇国主義のロジックは、どのような場面で表面化するでしょうか。

皇国主義のどこが問題かと言うと、「誰かが自分に代わって考える」という構造がある点です。

思考は、同時代を生きる人びとの共同作業なので、「誰かがみんなのために考える」があってもかまいません。専門家はそのためにいて、知力を傾け労力をかけて、その分野の知識に磨きをかけます。人びとが、それに依存するのは当然です。

でも、人民と政府はどういう関係にあるかとか、人間にとって大切なものは、命か自由か豊かさか、とかいった生きるうえでの根本的な問題は、誰もがみな自分で考えているべきです。

皇国主義は、学校でその答えを習って、それで満足し、使い回すひとを大勢うみ出しました。戦後教育も、学校で教わった答えを、使い回して、自分で考えるのをスキップしているひとが、多いのではないか。特に、学校で成績がよかったひとほど、そうなりがちな気がします。

答えを習ってすませた人びとは、問題を考えるのが苦手です。ほんとうに意思決定をしなければならないどんな場面でも、問題が表面化します。どう決めたらいいのかわからない、なぜそう決めたか説明できない、こう決めたのに責任がとれない。ちょっと見渡せばそういうひとだらけなのがわかります。

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