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「ヒマラヤの乱闘」なぜ中印国境で死者が出たのか - 栗田真広 (防衛研究所地域研究部研究員)

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ガルワン渓谷の衝突

6月15日、ヒマラヤ南西部に位置するカシミール地方の東部、インドが実効支配するラダックと中国の支配下にあるアクサイチンの境界付近のガルワン渓谷で、中印の部隊が衝突、インド側死者20人(当初3人)、未発表だが中国側にも死傷者が出たと報じられた。中印の国境問題で死者が出るのは1975年以降で初、深刻な衝突は1967年以来になる。

これに先立つ5月初旬、ガルワン渓谷よりも南、中印間の境界である実効支配線(LAC)に分断されたパンゴン湖で両軍の殴り合いが発生、さらにインド北東部のシッキムとチベットの境界でも同種の事案が起きていた。そこから5月後半にかけ、ガルワン渓谷を含むラダック・アクサイチン間のLAC付近の複数地点で、中印の部隊が睨み合い、その近隣に軍を結集していることが明らかになる。

中国外交部は、インドがLACを越え、中国の警戒活動を妨げたと批判、対抗措置を取ったとし、対するインド外務省は全ての活動がLACの自国側で為されており、同国の通常の警戒活動を中国が妨げたと主張したが、両政府ともこれを深刻化させる姿勢は見せなかった。その後、現地部隊間の協議が不調に終わったため、6月6日、異例の軍団長級協議が持たれ、緊張緩和への道筋がついた。現地紙が報じたところでは、双方がラダックのLAC付近から、部隊を数km引き下げることになった。

15日の衝突は、その緊張緩和プロセスの最中に起きた。900人ほどが関与したとされ、中印はともに責任が相手側にあると非難するが、直接の原因は定かではない。ただいずれの側も発砲はせず、殴り合いや投石での乱闘となり、中国側は鉄の棒を用いたという。

管理された国境問題

15日の衝突の重大さに疑いはない。中印国境地域では両国部隊が対峙することは珍しくないが、死者が出るのは勿論、乱闘に陥ることさえ少ない。ただ、衝突自体は偶発的に生じた可能性もあり、それ単体よりも、5月からの一連の事態の意味が重要である。

1962年の中印戦争の引き金ともなり、60年以上にわたり未解決の中印国境問題は、12万キロ平方メートル超の係争地域を抱える。国境地域では、両国間の事実上の境界としてLACが走っているが、これは実地でマークされていないのはもちろん、大部分で、地図上での線の位置に関して合意もないし、双方が認識するLACの位置を示す地図の交換さえできていない。ゆえに両国は長らく、国境地域に部隊を送って警戒活動を行い、自身の考えるLACの位置を主張する慣行を繰り返しており、その過程で、それぞれの部隊が相手側の考えるLACを越えること自体は、同ラインの性質ゆえ当然起こるものとして、あまり問題視してこなかった。

そうした国境地域での両国軍の行動については、1993年から2005年に結ばれた一連の合意がルールを定めている。両国部隊が遭遇し対峙した場合の収拾に関しても規定があり、今回の衝突で両軍が発砲しなかった理由はここにある。そのルールを概ね守ることで、国境地域では双方の部隊が警戒を行い、ときに対峙することが日常的に生じながらも、軍事衝突が回避され、中印は1975年以来一発の発砲もないこの状況を誇ってさえきた。

だが、米カーネギー財団のアシュリー・テリスは、5月からの展開について、二つの点で従来とは異なる深刻な事態だと指摘する。すなわち、両軍の対峙が複数地点で同時に起きているため、双方の部隊が遭遇した結果というより、中国側で政治的な決定があったものと見られること、そして中国が、従来のような部隊が通り過ぎていく警戒活動を越えた、物理的占領に踏み出したことである。5月、中国軍はラダック東部の複数地点で、インドの主張するLACを越えており、侵入自体は浅く、中国が警戒活動を行ってきた範囲から最大10キロ程度、恐らくは中国の領有権主張エリア内ながら、40~60キロ平方メートルを占領した。これに従事した部隊は順次増強され、重火器を伴う大隊規模に達したという。

中国を後押ししたもの

仮に中国が、従来とはフェーズの異なる行動に踏み出したのだとすれば、背景はいくつか考えられる。一つには、このラダック・アクサイチンの国境地域では、中国がインフラ整備で先行し、軍事的アクセス面での優位を保ってきたところ、モディ政権下のインドがLAC付近のインフラ整備を加速させ、ラダック東部でLACに沿って走る道路の年内完成を見込むなどしていることに、中国が神経を尖らせているとの指摘がある。中国は、6日の軍団長級協議でも、LAC付近のインフラ開発停止を求めた。

加えて、インドに対するより幅広い面での不満が、中国の行動を後押しした可能性もあろう。恐らく中国側には、ここ数年、インドに譲ってきたとの認識がある。2010年代半ば以来、中国が「一帯一路」の下、インドの近隣諸国への関与を深めたことは、同国の警戒心を呼び、2017年夏、ブータンと中国の国境問題を発端に中印両軍が睨み合ったドクラム事案で、中国は予想外のインドの断固とした態度に驚いた。

そこから中国は、随所でインドへの配慮を見せ、2018年4月の非公式首脳会談で、悪化してきた中印関係の「リセット」にこぎ着けた。2019年2月には、反インドで連携するパキスタンとインドの軍事危機に際し、パキスタンを積極的には支持せず、5月には、パキスタンの支援が疑われる反インド武装組織指導者への国連制裁について、中国は長らく維持してきた反対を取り下げた。

しかし、インドは中国の思うように動かなかった。中国は秋波を送ってきたが、インドは「一帯一路」を拒否し続け、新型コロナウイルスのパンデミックの最中、事実上中国企業を狙った形で、「インドと国境を接する国」からの直接投資を、政府の事前承認制とした。何より、インドは昨年10月、中印パ3カ国間で帰属が未確定のカシミール地方のインド実効支配地域を、特別の自治権を持つ州から二つの連邦直轄領に再編した。

うち一つが今回一連の事案が生じたラダックで、インド政府が公表した地図上は、その範囲は中国が実効支配するアクサイチンまでを含む。実際、中国が実効支配している状況に変化はなく、インド政府も中国に、中国とのLACに影響を及ぼす措置ではないと説明したが、そう受け止められたかは定かでない。

これらに起因した不満に加え、パンデミックの最中に多方面で強硬姿勢を強める中国外交の全般的傾向や、COVID-19の感染拡大に苦しむインドが強い対応に出づらいとの計算などが複合的に作用し、今回、中国が行動に出た可能性が考えられよう。 

「次」のリスク

15日の衝突の後、両国はともに、これ以上の事態の悪化は望まない姿勢を見せてきた。インドでは、メディアが強硬論を煽る中、首相を含め政府は火消しに努めている。

ただ、この衝突がさらなるエスカレーションを招かないとしても、LAC付近の国境地域に今回配置された部隊がどこまで実際に引き揚げるのかは定かでない。そして、中国がフェーズを変えたのだとすれば、同様の事態の再発はあり得るし、インド側は今回の事案を受けて、国境地域での道路整備のさらなる加速と、同地域で、「非常事態」の発砲を可能にする交戦規則改定を決めた。中印関係の先行きは、不透明さを増している。

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