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世界騒然「史上初公開」ロシア「核兵器ドクトリン」を読み解く - 小泉悠

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「エスカレーション抑止」の疑惑

 さらに興味深いのは、このパラグラフの後半に盛り込まれた「軍事紛争が発生した場合の軍事活動のエスカレーション阻止並びにロシア連邦及び(又は)その同盟国に受入可能な条件での停止を保障する」という部分である。

 エスカレーションを阻止するための核使用、いわゆる「エスカレーション抑止」や「エスカレーション抑止のためのエスカレーション」という考え方は、過去10年ほど、西側軍事専門家の注目を集めてきた。

 たとえば2014年のウクライナ危機のように、ロシアが周辺国に対して軍事力を行使し、NATOがそれを実力で阻止しようとした場合(つまりエスカレーションが拡大しそうな場合)、ロシアはごく限定された核使用(威力を抑えて、無人地域もしくは極少数の人員しかいない施設を狙うような核攻撃)を行ってNATOを威嚇し、手出しを思いとどまらせるのではないかという議論だ。

 言い換えるならば、ロシアはNATOとの戦争が始まってしまった「後」の核使用(先行核使用)だけではなく、その「前」に核使用を行うこと(予防核使用)をも検討しているのではないか――という疑惑である。

「予防的な核攻撃も排除されない」

 このような疑惑を西側が深めたきっかけが、前述した非公開の2010年版「核抑止政策の基礎」であった。

 2010年版軍事ドクトリンの核使用基準はすでに述べたとおりであり、「エスカレーション抑止」を想起させるような記述は見られない。

 しかし、この前年、露紙『イズヴェスチヤ』のインタビューに答えたニコライ・パトルシェフ安保会議書記は、

「地域紛争や局地戦争であっても核使用を想定する」

「国家安全保障にとって危機的な状況下では、侵略者に対する予防的な核攻撃も排除されない」

 と述べていた。

 こうした「裏ドクトリン」が非公表の2010年版「核抑止政策の基礎」に盛り込まれたのではないかと考えられたのである。

 ちなみにロシアの国防サークルでは、1990年代から「エスカレーション抑止」型核戦略についての議論が行われてきたことが知られており、この種の核使用をロシア軍が検討してきたこと自体は間違いない。

 トランプ政権が2018年に採択した核戦略文書「2018年版核態勢見直し(NPR2018)」でもこの問題は中心的なテーマとなり、ロシアが限定核使用を行った場合に釣り合いの取れた反撃を行う手段として、トライデント潜水艦発射弾道ミサイルに威力を抑えた低出力核弾頭を搭載する方針が打ち出された。

 いわゆる「低出力型トライデント(LYT)」と呼ばれるもので、最初の低出力核弾頭は2019年中に完成し、今年2月に実戦配備された。

「抑止戦略」と「核使用戦略」

 そこで改めて今回の2020年版「核抑止政策の基礎」に立ち戻ってみると、その第1章に「エスカレーション阻止」の文言が含まれていることはすでに見たとおりである。

 となると、西側が疑ってきた「エスカレーション抑止」型核戦略をやはりロシアは持っていた、ということになるのだろうか。

 ところが奇妙なことに、具体的な核使用基準が示された第3章「ロシア連邦が核兵器の使用に踏み切る条件」には、そのような条件は規定されていない。ここで謳われているところによると、ロシアが核兵器を使用するのは次の場合であるという。

(1)ロシア連邦及び(又は)その同盟国の領域を攻撃する弾道ミサイルの発射に関して信頼の置ける情報を得たとき

(2)ロシア連邦及び(又は)その同盟国の領域に対して敵が核兵器又はその他の大量破壊兵器を使用したとき

(3)機能不全に陥ると核戦力の報復活動に障害をもたらす死活的に重要なロシア連邦の政府施設又は軍事施設に対して敵が干渉を行ったとき

(4)通常兵器を用いたロシア連邦への侵略によって国家が存立の危機に瀕したとき

 このうち、(2)と(4)は、これまでの軍事ドクトリンに記載されてきた核使用基準と一言一句同じである。

(1)はロシアに対して核兵器が発射されたという警報が発せられた時点で報復を行うという「警報下発射(LoW:Launch on Warning)」ドクトリン、(3)はサイバー攻撃などがロシアの核報復能力を低下させる場合にも報復の対象となるというドクトリンを示している点で目新しいが、「エスカレーション抑止」への言及はない。

 1つの解釈は、「エスカレーション抑止」はあくまでも「抑止」のための、言い換えれば仮想敵に対する脅しの戦略(宣言政策)なのであって、実際の核兵器使用ドクトリン(運用政策)ではない、というものであろう。

 ロシアの軍事力行使を邪魔しようとすれば核攻撃を受けるかもしれない、とNATOが疑心暗鬼になってくれれば十分なのであって、本当に予防的な核攻撃を行うことまでは考えていない、ということだ。

 ただ、そこまで公言してしまえば抑止の信頼性が確保できないので、一般的な核抑止の原則を定めた第1章には引き続き「エスカレーション阻止」の文言を入れた、といったところではないか。

 米CSIS(戦略国際問題研究所)のロシア専門家であるオリガ・オライカーは、この曖昧性は核兵器による抑止戦略と核使用戦略を意図的に混同させた、戦略的なものであるとしている(Olga Oliker, “New Document Consolidates Russia’s Nuclear Policy in One Place,” Russia Matters, 2020.6.4.)。

宣言政策は「真実の半分」

 ただ、以上を以てロシアには「エスカレーション抑止」戦略など存在しないのだと断じるのも早計である。米国のNPRと同様、「核抑止政策の基礎」は運用政策そのものではないからだ。

 運用政策とは、こうした概念文書の指し示すところにしたがって策定される具体的なターゲットやその攻撃手段のリストなのであって、基本的には公表されない最高機密文書である。

 米国の場合、かつての「単一統合作戦計画」(SIOP)や現在の「作戦計画」(OPLAN)のように、計画の存在や名称、改訂の時期程度は公表しているが、ロシアがそうした情報を公表したことは一度もなく、おそらくは今後も同様であろう。

「核抑止政策の基礎」第2章の第15項に、

「核抑止に関する戦力及び手段の使用の可能性について、その規模、時期及び場所を仮想敵に察知されないこと」

 という文言があることからしても、ロシアが核戦略の全てを公表するつもりがないことは明らかである。

 米海軍のシンクタンクである「CNA コーポレーション」のロシア専門家マイケル・コフマンが彼一流の皮肉な調子で述べているように、本当の運用政策は「窓のない部屋での会話」によって決まっているのであり、宣言政策(ここには「核抑止政策の基礎」やNPRも含まれる)はそれを規範的な言葉で装った「真実の半分」でしかないのである(Michael Kofman, “Russian policy on nuclear deterrence (quick take),” Russian Military Analysis, 2020.6.4.)。

「公表」の戦略的意図

 今回の「核抑止政策の基礎」については、ロシアが攻撃的な核戦略を採用しつつある兆候だとする見方もないではない。

 ただ、それ以前の文書の中身が明らかでない以上、2020年版「核抑止政策の基礎」が過去と比べてどれだけ目新しいものなのかは判断しがたいというのが実際のところであろう。

 しかも、その内容は概ねこれまでロシア軍事専門家の間で議論されてきた点と大きく相違するものではなく、懸念されてきた「エスカレーション抑止」も脅しの域を出る形では記載されなかった。

 となると、ロシアが今回「核抑止政策の基礎」を公表した思惑は、次の2点ではないかと思われる。

 第1に、ロシアは安全保障政策の最上位文書である「国家安全保障戦略」を年内に改訂予定であるとされており、これに伴って軍事分野の指針である「軍事ドクトリン」も近く改訂される見込みである。

 新たな「軍事ドクトリン」の核使用基準はおそらく2014年版から大きく変化しないと見られているが、そこに「裏ドクトリン」が存在するのではないかという無用の疑いを持たれないようにするという狙いが考えられよう。

 ただし、究極的にはその種の「裏ドクトリン」の存在が否定できないことはすでに述べた。

 この点が第2点に関係してくる。すなわち、2019年のINF(中距離核戦力)全廃条約破棄や来年に迫った新START(新戦略兵器削減条約)失効を前に、ロシアは核抑止のあり方を一から考え直さなければならない状況に立たされている。

 そこで、LoWドクトリンやサイバー攻撃に対する核報復といった、これまでの軍事ドクトリンになかった核使用基準を示唆し、「エスカレーション抑止」も排除されない核戦略を公表して、西側を牽制することが企図されたのではないか。

 要は透明性と曖昧性の双方を突きつけるのがロシアの戦略的意図であったと考えられよう。

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