記事

「押印」論争をめぐる痛烈な意趣返し。

2/2

もちろん、これまでにも、「交渉の過程で、相手から”言質”をとったメールのやり取りはきちんと保存しておけ。いざとなれば、それだけでも合意の事実は証明できる」とか、「メモ書きのPDFをメールに添付して、それに対する承諾の返信をもらっておけ。それさえしておけば契約締結は後回しでもいい」といった類の話は、これまでにも散々してきたし、現に全てが終わるまでそれで乗り切ったこともある。

だが、そういった対応はあくまで”非常手段”というのが、自分の認識ではあった。

それが、「押印」に代わる「真正証明手段」として役所のお墨付きを与えられる日が来るとは・・・。 しかも、代替手段の”本命”とみなされていた電子署名、電子認証サービスと並列で・・・。

これまで、規制改革要望を挙げていた事業者たちの主張のキモは、「電子署名等の電子的な認証手段」に「押印」と対等な地位を与えるべき、というところにあったはずだし、それにより自らが展開するサービスを「押印」に代わるものとして普及促進させていくことも容易になる、というある意味非常に分かりやすい構図だった。

しかし、お上を散々突いた結果出てきたのは、

そもそも、(文書の成立の真正を証明する、という点で言えば)ハンコにだってそこまでの重みはないよ。メールのやり取りを残しておけば十分だよ。

という、大方の想定を二、三歩飛び越えてしまうような見解で、ここに、当局の「規制改革要望者」に対する、ある種の意趣返しのようなものを感じたのは自分だけではないはずだ。

そして、最近の政策要望にありがちな”オウンゴール事例”が、また一つ日本の歴史に刻まれることになってしまったともいえる*6

ちなみに、今回の三省庁連名の文書が出たからと言って、直ちに「押印文化」がなくなり、メールでのやり取りだけで全てが進むような世の中になるか、といえば、そんなことはなく、「認印」ですらなくなるのはまだまだ先の話だと思っている。

自分は、これまで事業部門や法務初心者への研修等の中で、「こういう場面では合意内容を『契約書』の形で残しておかないといけません」という話はしても、「こういう場面では契約書にきちんと押印をしないといけません」という話はこれまで一度たりともした記憶がない。

それは、今回の文書の中でも語られているとおり、「押印するかどうか」が契約の効力に決定的な影響を与えるものではなく、ましてや契約の合意内容に影響する話では全くない、ということを重々承知していたということもあるのだが、それ以上に、「押印の要否」や「どの印を押すか」という話が、全て総務とか会計といった別の部門が決めた社内ルールで決められていたことで、わざわざそんな「他人事」の解説に貴重な時間を割くのはもったいない、という思いがあったから、ということも大きい。

裏返せば、今回の文書が、いかに法務関係者にインパクトを与え、これまでの頑なな「押印主義」を改める方向に思考を向かわせたとしても、よく言えば「内部統制」、悪く言えば「惰性と昔からのしきたり」で続いている全社的な文化をひっくり返すのはそう容易なことではないだろうな・・・と思うところである。

急がせればそんなに時間はかからなかったとはいえ、自分自身でも交渉相手との契約なり合意文書なりをまく経験を度々してきた者としては、「せっかく内容に合意したのに、稟議で決裁をもらうまでに数日、さらに印鑑を押してもらうのに1日かかって、その上、相手への郵送手配やら何やらで、戻ってくるのを待っていたらいつになるやら・・・」という状態はできる限り避けたいと思っていたし、そういう仕事をしていた時に今回の文書を見たら、きっと”わが意を得たり!”と喜び勇んだことだろう。

だが、だからと言って、その時にこの文書を振りかざして長年根付いてきた「押印」ルールに抗するような動きをしたか? と問われればその可能性は100%なかった。

「慣習」の壁、というのはそれだけ厚くて、それを動かすには極めて大きなエネルギーを使う必要があるし、平時なら、「文書成立の真正証明」という要素を差し引いても、「押印」のプロセスを経ることによる社内的、自分的なメリットがまだまだ存在したからである*7

元々総務も法務もごっちゃになっているようなコンパクトな会社であれば、「ハンコ文化」を変えるためにそこまでエネルギーを使う必要はないはずだし*8、何よりも今は「緊急事態」を経て、ある程度の規模と歴史のある会社でも、「とりあえず変えよう」という発想が比較的受け入れられやすくなっているのは確かだから、先日のエントリー*9でもプッシュさせていただいたように、多くの会社で、印鑑に代わるものとして「バランスの取れた電子契約(署名)システム」が定着してくれればそれに越したことはないと自分は思っている。

でも、上で述べたような、論理的・合理的思考だけでは乗り越えられない「壁」はあるし、逆に、ひとたびそれを乗り越えた時に新しい仕組みがバランスの良いところで収まる保証もない

今回公表された文書は、仮に社内で首尾よく「ハンコをやめよう」という話になったとしても、「メールのやり取りで済むならそれでいいじゃん。なんで、わざわざコストをかけて電子契約システムなんて導入しないといけないの?」と揚げ足を取られる材料にもなり得るわけで、特に役員クラスの感度が高い会社であればあるほど、必要以上にドラスチックな、「行き過ぎた変化」がもたらされる可能性は否定できないのである。

ゆえに、先々を見据えて、特に「物事がうまくいかなかったときのこと」を見据えて動かないといけない法務部門としてはなかなか悩ましいところではあるのだが、どんな形で出てきた「見解」でも、うまく使いこなせばそれは新しい武器になる。

今回の文書で様々な前提がリセット&クリアされた今は、「どこで社内手続における形式的な担保と、仕事を進める上での合理性とのバランスをとるのが適切か」というグランドデザインを描き直すにはちょうど良いタイミングでもあるわけで、これを奇貨として、どんな会社でも、法務部門が説得力のある理屈と想定事例を打ち出すことで社内のルール作りの主導権を握れるくらいのポジションを取れるようになればいいね・・・と思うところである*10

*1:法務省:押印についてのQ&A

*2:https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kisei/meeting/wg/seicho/20200512/200512seicho05.pdf

*3:この時のワーキンググループに出てきている資料をすべて見れば、よりこの時の回答文書を味わい深く読むことができるはずである。第10回 成長戦略ワーキング・グループ 議事次第 : 規制改革 - 内閣府

*4:最後の「なお、文書に押印があるかないかにかかわらず、民事訴訟において、故意又は重過失により真実に反して文書の成立を争ったときは、過料に処せられる(民訴法第 230 条第1項)」という、一見蛇足のようにも思えるくだりなどは、繰り返される”ピンぼけ”的な要望に一矢報いるためだけに入れたように思えるところもあるのだが(現実に過料制裁が課されたという話はほとんど聞かないが、それ以上にまっとうな企業間の契約紛争で文書の成立が争われること自体が滅多にないし、争うことを憚らせる制度的担保もあるのだぞ、ということをここでは言いたかったのだと思われる)、この後に続く「回答」に比べればまだ穏健な部類のものだと言える。

*5:個人的には、押印の効果が「限定的な」「負担軽減」に過ぎないとしても、それがなくなってしまうと訴訟実務の現場には大きな変化を生じさせる可能性はあると思っていて、特に、これまで訴訟の場に出てくる契約書や合意文書には例外なく「押印」がなされていたことを考えると、それがなくなった時に形成される実務慣行(とりあえず相手方が成立の真正を争ってみる、というアクションを起こすようになる可能性もなくはないし、それがなくても、保守的な裁判官が挙証者側にあらかじめ文書成立の真正の証明を求めるような慣行が形成されてしまうと、そうでなくても面倒な訴訟手続きがますます面倒になることは間違いない。

*6:元々、どこかから借りてきたような民訴法ベースの覚束ない論理を駆使し、法的観点から「成立真正証明手段」としてのメリットを商材のアピールに用いようとしてきた一部の事業者の手法に対しては、かねてからたしなめる声も多かったところで、そのテンションで「規制改革」の方向に突っ込んでいったのをハラハラしながら眺めていた法務界隈の関係者も多かったと思うのだが、やはりこうなったか・・・というのが、自分の素朴な感想である。この件に限った話ではないのだが、本当に何かを変えようと思ったら、お上に向かって「今の規制に問題がある」、「今の法令に問題がある」と叫び始める前に、自分たちのやろうとしていることを阻む他の要因があるのではないか?、ということを冷静に分析、検討することが不可欠だし、「身内」たるユーザー側でもコンセンサスが得られず、十分に説得できるような理屈も持たずに突っ込んでいったところで、それによって得られるものは少ない(むしろダメージを受けることすらある)。日本にも、過去には新興企業のロビイングが成功した例はあるわけだから、そういった事例からもう少し謙虚に学ぶべきではないか、というのが、傍から見ていての率直な思いである(もちろん、よく煮詰まっていない話を軽々に受けてしまう最近の一部の役所の姿勢にも問題があると言えなくはないが、やはり一義的には「要望」する側の問題だと思う)。そうでないと、ありとあらゆる「規制改革の要望」自体が胡散臭いものと受け止められることになりかねないし、そうなってしまえば、社会のニーズを立法につなげていく、という健全なサイクルもまた機能しなくなってしまうので。

*7:法的な効力以前の問題として、「双方の印」が存在することは、「合意が成立した」ということを役員レベルも含めた関係各所に説明する上で圧倒的に楽なのだ。また、何度も何度もドラフトをやり取りしているような案件だと、最後に何らかの「印」を付けて残しておかないと、後になって自分自身どれが「完成した契約書」なのか、分からなくなってしまうことにもなりかねない。

*8:とはいえ、何かと「性悪説」で動きがちな経理部門の壁は、どんな会社でもまだまだ厚い気はするが。

*9:この先ずっと必要なものだからこそ、ちゃんとしたものを選びたい。~電子契約サービス選びに欠かせない視点 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~

*10:あるいは、今、法務のスタッフが煩雑な印章管理に労力を割いている、という会社なら「もう、押印は契約の効力に影響を与えない、裁判での立証にも決定的な影響を与えるものではない、って法務省も経産省も言ってますよ。だから、これからの印章管理はうちじゃなくて経理部さんの方でやっていただけますか?」と押し付けてみるのも一案かもしれない。いずれにしてもここで大事なのは、「自分たちが損をしないこと」である。それに尽きる(笑)。

あわせて読みたい

「印鑑」の記事一覧へ

トピックス

ランキング

  1. 1

    GoToなぜ今か 政府は説明すべき

    青山まさゆき

  2. 2

    中国ダム決壊危機 世界的影響も

    郷原信郎

  3. 3

    れいわ10万円配布案の効果に疑問

    猪野 亨

  4. 4

    松坂大輔が離脱へ 晩節汚すのか

    WEDGE Infinity

  5. 5

    発展に疲弊 シンガポールの若者

    後藤百合子

  6. 6

    感染拡大の裏に軽率さ 医師警鐘

    中村ゆきつぐ

  7. 7

    党規約が緩すぎるれいわ新選組

    田中龍作

  8. 8

    コロナ楽観予測報道はミスリード

    勝川 俊雄

  9. 9

    西村大臣 PCR陽性率は約5%に低下

    西村康稔

  10. 10

    河野大臣「朝日社説は誤解招く」

    河野太郎

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。