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意外とあっけなかった韓国の「慰安婦タブー」 - 澤田克己 (毎日新聞記者、元ソウル支局長)

韓国の元慰安婦支援団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連、旧挺対協)」の尹美香・前理事長が窮地に追い込まれている。募金や政府補助金の横領疑惑や寄付金を使った不透明な不動産取引などが次々と報道され、横領罪などでの告発を受けたソウル西部地検が5月20日に正義連事務所を家宅捜索した。疑惑の解明には時間がかかるだろうが、現時点での最大の驚きは「正義連批判はタブー」という常識が崩れたことかもしれない。この壁はとても厚いものだったので、意外とあっさり崩れたなというのが私の抱いた感想だった。

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前理事長の政界進出が引き金に

簡単に流れを整理しよう。30年近く団体とともに活動してきた元慰安婦の李容洙さん(91)が5月7日に記者会見を開いた。李さんは、「だまされるだけだまされ、利用されるだけ利用されてきた」と正義連を批判し、毎週水曜日に日本大使館敷地前で開かれる水曜集会についても「寄付金も被害者(元慰安婦)たちのために使われたことはなく、どこに使われたのかも分からない」と主張した。

韓国メディアが伝えた会見全文を読むと、尹前理事長への個人的な怒りが背景にあるように見える。尹氏は、与党の比例代表候補として4月の総選挙で当選した。李さんは、尹氏を批判しながら「国会議員になってはダメだ」「(慰安婦問題の)解決もせずに国会議員だとか、閣僚だとか、そんなもの」などと繰り返し批判した。

韓国の保守系紙・中央日報によると、李さんは4月下旬にも少数の市民団体関係者や記者の前で尹氏の出馬には最初から反対だったと語っていた。尹氏から3月末に電話を受けて出馬を伝えられた際に反対を伝えたが、尹氏からはその後、連絡がなかったという。

李さんの記者会見後に正義連と尹氏側は、出馬を伝えた時に李さんから「一生懸命にやりなさい。よかったね」と言ってもらったと反論した。この点について李さんは進歩系紙・京郷新聞とのインタビューで「いきなり『国会議員になるため立候補します』と言うから、『よかったね』と一言だけ言った。皮肉で言っただけだ」と語った。直訳すれば「よかったね」なのだが、韓国では20年ほど前に「よかったねぇ、本当に」という言い回しが相手を皮肉る言葉として流行して以来、李さんの主張するような用法は珍しくない。語感を込めて意訳するなら、「あ、そっ、よかったね」とする感じだ。尹氏の主張するように「一生懸命にやりなさい」という言葉が付いていたなら祝福だろうが、一言だけなら皮肉と受け止める方が普通かもしれない。

そして、保守系の朝鮮日報と中央日報が記者会見を翌日朝刊の1面で伝えた。両紙はその後、連日のように暴露記事を1面に掲載。さらに社説でも連日のように正義連と尹氏を批判した。

一連の報道では寄付金や補助金の使途や不透明な会計報告が問題視され、尹氏の個人口座が募金用に使われた不自然さが指摘された。さらに元慰安婦の遺志に基づく奨学金の受給者が市民運動家の子供に限定されていたり、尹氏が年間8万5000ドル(約920万円)だという娘の米国留学費用をどうやって工面しているのかへの疑問が提起されたりもした。

きわめつけは、企業からの寄付金で2013年に購入した元慰安婦の保養施設を巡る疑惑だった。尹氏の知人が紹介した物件を周辺相場より大幅に高い7億5000万ウォン(約6600万円)で購入したうえ、内装工事に1億ウォン(約880万円)かけた。しかも、交通の不便な場所だったので実際には元慰安婦の利用はほとんどなく、活動家たちがペンションのように使っていたという証言まで出た。そして、正義連は今年4月にこの物件を4億2000万ウォン(約3680万円)で売却していた。

ここまでくると、与党側にもかばいきれないという雰囲気が出てきた。当初は、保守系メディアと野党による政治的攻撃だと主張していたが、与党の重鎮クラスが「事態を深刻に受け止めている」と語るようになった。党としての対応を早急に取るべきだと主張する与党国会議員も出ているが、尹氏は韓国メディアのインタビューに「議員としての活動を見守ってほしい」と主張して、議員バッジへの意欲を見せた。

当事者が告白したタブーの存在

政界事情に詳しい外交筋は「単に活動団体の内紛ということではなく、与野党間の争いのカードになった印象だ」と話す。李さんは会見で具体的な不正の暴露をしたわけではなく、単に不信感を述べただけだ。今までだったら韓国メディアの扱いも小さく終わったのかもしれないが、尹氏が政界に出たことでフェーズが変わっていたのだろう。李さんの会見を契機に保守系メディアから「慰安婦タブー」が崩れ始めた。正義連は批判された経験がなくて無防備だったのか、疑惑が一気に噴き出した感がある。

このタブーについては、李明博政権で大統領外交安保首席秘書官を務めた千英宇氏が朝鮮日報への寄稿で吐露している。千氏は駐英大使や外交通商第2次官などを務めた職業外交官出身で、大統領秘書官だった時には日本の野田政権と慰安婦問題の解決策について協議したこともある。

千氏は、李さんの会見について「このような不都合な真実は、被害当事者である慰安婦ハルモニ(おばあさん)以外には口にできない。メディアや政府当局者は、正義連とその前身である韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の実態を知っていても、これを報道したり、語ったりすること自体がタブー視されてきた聖域だったからだ」と書いた。

尹氏の政界進出という要素に触れていない部分は物足りなさを感じるが、タブーだったことを当事者として認めたことは大きい。

メディアでは、2015年の日韓合意に関する報道を代表例として挙げられる。挺対協の主張に沿った合意批判が多く報じられる一方で、合意時点で生存していた元慰安婦47人のうち35人が日本政府の拠出金から出た1億ウォンを受けとったことは、韓国では当時、ほとんど報じられなかったのだ。李さんの記者会見後、韓国メディアがこの数字を当然のように報じていることに少し違和感を覚えるほどだ。

東南アジアの慰安所で働いていた朝鮮人男性の日記が2013年に見つかった時も、似たようなことが起きた。日記には最前線であるビルマにいた慰安婦たちの厳しい生活事情とともに、後方地域であるシンガポールでは満期明けで帰国する慰安婦もいたことなどが書かれていた。朝鮮半島から複数回にわたって慰安婦が集団で東南アジアに渡っていたことがわかる記述もあった。

当時の実情をうかがわせる貴重な資料だ。私を含む多くの日本メディアは、置かれた環境によって慰安婦たちの境遇は千差万別であったことを書いた。ところが韓国メディアに出たのは、シンガポールでの記述を完全に無視した過酷な環境についてだけの記事だった。ソウル特派員だった私は、それを読んで唖然とさせられた。

余談になるが、ベストセラーとなった『反日種族主義』も同じ日記を取り上げた。この本は逆に、ビルマでの過酷な扱いについての記述をほとんど無視した。これもタブーへの反動と言えたかもしれないが、この本は保守派による進歩派攻撃という政治的色合いが強いものだったからか、韓国社会全般でタブーを崩す影響力を持つようなことはなかった。

慰安婦問題の構図は変わらない

ただし、今回の事態を過大評価はしない方がいい。

これによって正義連や尹氏の信頼が大きく傷つき、影響力に陰りが出ることは確かだろうが、そのことが外交にまで影響を及ぼすとは考えづらい。タブーが崩れた原因が尹氏の政界進出に起因するものであるなら、その影響は主として国内的なものにとどまるだろう。

韓国の政界では次から次へと争いの種が出てくるので、何か新しい話題が出てきたら急速に関心が薄れる可能性すらある。5月末に新しい国会議員の任期が始まり、2022年3月の次期大統領選へ向けた政界の動きが本格化してくれば、韓国社会の関心はそちらに流れていく。

そもそも批判の対象になっているのは正義連と尹氏、それも端的に言ってしまえば「彼女たちとカネ」という問題である。慰安婦問題そのものへの韓国社会のスタンスが変わったわけではないし、崩れたタブーも少なくとも現時点では「正義連がアンタッチャブルでなくなった」というレベルである。国際社会の視線を含め、慰安婦問題を取り巻く基本的な構図は何も変わっていない。

それに文在寅政権にとっての最優先事項は、次期大統領選で与党候補を勝たせることだ。対外政策の中では対北政策が一番で、それに関連して対米関係、経済的に依存する中国との関係が続く。対日外交はその次で、しかも喫緊の課題は日本側から見れば徴用工問題、韓国側から見れば日本の貿易規制である。慰安婦問題についての文政権の立場は、2015年の合意では解決していないけれど、合意を破棄したり、再交渉を求めたりはしないという中途半端なところで2年以上も止まっている。存命の元慰安婦が少なくなり、いよいよ時間との戦いであるはずだが、何かが動くようには見えない。その状況もまた、今回のスキャンダルの影響を受けてはいないようだ。

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