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9月入学の「隠れたコスト」――新卒者の「放棄所得」と国の「逸失税収」 - 荒木啓史 / 教育社会学・比較教育学

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本稿は、苅谷剛彦・オックスフォード大学教授の呼びかけで集まった研究グループ(50音順に相澤真一・上智大学准教授、氏岡真弓・朝日新聞編集委員、岡本尚也・Glocal Academy 代表理事、中村高康・東京大学大学院教授)における議論を踏まえて執筆しているものです。

「9月入学」に関する議論が喧しい。新型コロナウイルス感染症の影響(臨時休校措置)により、十分な学びを得られなかった人たちの学修機会を保障する手段として注目されているのに加え、最近は「国際化を進めるチャンス」「改革の象徴」といったスローガンで9月入学を推進しようとする動きも見られる。他方、実際に9月入学制度を導入する場合、多数の法改正が必要になること、巨額の家計負担や行政コストが発生すること、待機児童や教員不足の問題が顕在化すること、などの現実的な課題も指摘されている。また、当事者である若者の意見を見ても、9月入学に否定的な人の方が多いようである(注1)。

(注1)たとえば、調査設計が必ずしも十分ではないが、一つの参考情報として日本若者協議会によるアンケート調査結果

9月入学をめぐる論点については、すでに様々な整理がされているので本稿では割愛するが(注2)、ここで大切なのは、たんに9月入学に「賛成」か「反対」か、と二項対立に陥ってしまうことではない。そうではなく、9月入学を導入する場合のメリット・デメリットをエビデンスにもとづいてしっかりと検証し、課題がある場合には「9月入学導入をしない言い訳を探しているだけ」と片付けるのではなく、当該課題をどのように解決すべきかあわせて検討・具体化することが重要であろう。むしろ、そうした現実的な視座がないまま理念先行で9月入学を語ることは、無責任と言わざるをえない。その意味で、昨今各所から提示されている家計負担、教員不足、待機児童問題などに関する具体的な数値(注3)は注目に値するものであり、このようなエビデンスを踏まえた地に足の着いた政策論争・形成が期待される。

(注2)たとえば、日本教育学会の声明中里氏の論考1論考2

(注3)たとえば、文部科学省の試算朝日新聞の記事1記事2

他方、これまでの「9月入学論争」において、十分に光を当てられてこなかったのが、4月から就職を予定している人たちである。とりわけ、「国際化を進めるチャンス」として9月入学が語られる際、高校卒業者についてはおもに大学進学することが想定されているようだが、たとえば文部科学省が実施する学校基本調査によれば、2019年3月に高校を卒業した人のうち、約18.5万人が進学せずに就職をしている。また、過去数年の実績を見ると大学卒業後に就職する人は40万人強、リーマンショックの影響で雇用環境が非常に厳しくなった時期でも約33万人に上る。ここで、仮に9月入学が導入され、それに伴って高校3年生や大学最終学年の卒業時期も5か月間後ろ倒しになった場合、早期卒業を認めない限り働き始める時期も5か月遅くなる。すると、中里氏の論考でも触れられているように、これだけ多くの人たちが本来得られていたはずの5か月分の収入を得られなくなる、すなわち「放棄所得」の問題が発生することになる(注4)。さらに、個人の収入は直接税・間接税を通じて国の財政に結びつくことを考えると、放棄所得が発生することによって、国レベルでも本来得られていたはずの5か月分の税収を失うことになる。この「逸失税収」は、新たな制度を導入することで「わざわざ手放す」リソースであり、その妥当性を考える上では、「逸失税収を伴う施策により期待される効果」と「仮に同程度の税収があった場合に進められる施策による効果」をしっかりと比較検証することが求められる。

(注4)これは、文部科学省の試算で示された直接的な費用(授業料や生活費等)とは別に、5か月間を学校・大学で過ごすことにより生じる「機会費用」の問題ということもできる。なお、厳密には「収入」と「所得」の定義は異なるが、本稿では定型句として「放棄所得」を使い、後述する分析においては「収入」に関するデータを用いる。

そこで以下では、9月入学を導入した場合の「隠れたコスト」といえる「放棄所得」と「逸失税収」について、簡単な試算結果を見ていきたい。なお、9月入学に関する議論においては、開始時期をいつにするのか(2020年か2021年か)、どの学校種を対象とするのか(大学のみか他も含めるのか)、といった点について前提を整理する必要があるが、今回は本年度から導入され、2021年3月に卒業予定だった高校生~大学生が8月に卒業する(9月から働き始める)ケースを想定する。(ただし、この仮定が変更になっても、試算の内容・示唆自体には特に大きな影響がないことも付言しておく)

新卒者の放棄所得(約7157億円)

新たに学校を卒業して、いわゆる「新規学卒者(新卒)」として働き始める人の初任給は、厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」で見ることができる。これによれば、2019年度新卒の平均初任給(企業規模10人以上)は、高卒が約16.7万円、高専・短大卒が約18.4万円、大卒が 約21万円、大学院卒(修士課程)が約 23.9万円である。他方、各学校種を卒業した後の進路別人数は、文部科学省の「学校基本調査」で公表されている。2019年調査では、卒業後に正規職員等として働いている人は、高校卒(全日制・定時制)が約18.4万人、高専・短大卒が約4.6万人、大卒が 約43.1万人、 大学院卒(修士課程)が約 5.5万人である。

もっとも簡単な計算としては、この新卒初任給と新卒正規職員数を学校種ごとに掛け合わせたものが、一月当たりの放棄所得ということになり、高校から大学院卒まですべて合計すると約1431億円となる。これは毎月の額であるため、仮に就職が5か月間後ろ倒しになると、その5倍の計約7157億円もの放棄所得が発生することになる。なお技術的な観点からは、将来発生する金額は「割引率」を加味して「現在価値」に計算するのが正確なアプローチだが、今回は期間も5か月と短く、割引率を適用しても結果にほとんど影響がないため、分かりやすさを重視してそのまま加算している(注5)。

(注5)データの制約上、中卒あるいは大学院卒(博士課程)で働いている人、ならびに学歴にかかわらず非正規として働いている人は含まれていないため、過小推計となっている可能性がある。

ここで留意すべきは、仮に就職時期が5か月遅くならなかったとしても、昨今の社会・経済情勢を踏まえると雇用環境が非常に厳しくなる(初任給が下がり、新卒就職者数も減る)ことが予想されるため、単純に2019年のデータにもとづいて推計した場合、放棄所得を過大に見積もってしまう可能性である。そこで、一つの参考値としてリーマンショック後の2010年データを用いてみると、同様の計算方法に基づけば一月当たりの放棄所得は約1119億円、5か月分で5594億円となる(注6)。この数値の多寡については様々な評価があり得るが、厳しい雇用環境を織り込んで推計したとしても、相当額の放棄所得が発生する(しかも、別途文部科学省が試算しているような直接費用に加えて生じる)という事実は忘れてはならない。

(注6)リーマンショック直後の2009年よりも2010年の方が、経済危機による雇用環境の悪化を反映している(初任給が低く、新規就職者数も少ない)ため、より厳しい状況を想定した推計として2010年データを利用している。

なお、生涯賃金の観点からは、たとえ就職時期が5か月遅くなっても退職時期を同様に後ろ倒しすれば問題ない、と考えられなくもない。しかしながら、現在のような未曽有の危機的状況下において、新卒者一人ひとりの生活に目を向けたとき、考えるべきは数十年後にトータルで放棄所得分が解消されるか否かではなく、困難な経済・雇用環境のもとでさらに直近の収入が制度的に失われてしまうことの意味である。

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