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感染症対策のための規制、ナッジ、データそして民主主義 - 成原慧 / 情報法

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はじめに

新型コロナウィルスの感染拡大を受けて、さらなる蔓延を防止するために、人々の行動制限や行動変容が求められている。法は、どこまで人々の行動を規制すべきなのだろうか。また、「ナッジ」と呼ばれる一見して柔らかな介入手段は、どこまで人々の行動の変容を促すことができるのだろうか。

本稿では、国内外における新型コロナウィルス対策のための取組を例にして、規制とナッジのあいだの役割分担と距離、両者のあいだで舵取りを行うための指針となるデータの収集・利用、危機における民主的な政策決定プロセスのあり方について考えてみたい。

行動制限を課す規制

人々の行動を制限する上で、中心的な役割を果たすのは、やはり法律による規制であろう。だが、日本の現行法では、感染症の蔓延防止という目的で人々の行動を制限するためにとりうる措置はかぎられている。

たとえば、本年3月に、新型インフルエンザ等対策特別措置法が改正され、暫定措置として、新型コロナウィルスについても緊急事態宣言を行い、緊急事態措置を実施することが可能になった。もっとも、同法にもとづき緊急事態宣言がなされた場合でも、都道府県知事がとりうる措置は、一般の住民や企業等との関係では、基本的に強制力を伴うものではない。住民に外出自粛を要請したり(同法45条1項)、企業等に施設の使用やイベントの制限を要請する(同条2項)ことなどができるにすぎない。

知事は、要請に応じなかった企業等に、施設の使用停止等を指示することはできるが(同条3項)、指示に従わなかった場合でも、罰則を科すことはできない。他方で、知事は、企業等に対し要請または指示をしたときは、その旨を公表しなければならない(同条4項)。施設名等の公表は、住民が対象の施設に行かないよう周知するという趣旨で行われるものと解されているが(注1)、公表を受けて人々が対象の施設に行かなくなるといった反応をすれば、その施設の経営も苦しくなることが予想されるため、公表には事実上の抑止効果もあると考えられる。

この法律がこのような謙抑的な仕組みをとっているのは、「国民の自由と権利に制限が加えられるときであっても、その制限は…必要最小限のものでなければならない」(同法5条)という考え方を重視しているからであろう。

他方で、欧米など諸外国においては、感染症対策のため、罰金など罰則により担保された強制力を伴うかたちで、企業に営業停止を命じたり、市民に外出を禁止している国も少なくない。国によっては、感染症が蔓延した都市や地域全体をロックダウン(封鎖)し、他の地域への感染の拡大を食い止めるという強硬な措置をとっている国もある(注2)。

日本でも、感染症法にもとづき、知事に感染症の蔓延防止のため、必要最小限度の建物への立入り制限・禁止や交通の制限・遮断を行う権限が認められているが(同法32条・33条)、汚染された(疑いがある)建物や場所を対象にした規定であり、欧米諸国で行われているような都市や地域全体のロックダウンを想定したものではない。

とはいえ、強制力を伴うかたちで営業停止や外出禁止、ロックダウンを行っている国でも、政府が人々の行動を思うように制限し、感染症を封じ込めることができているかといえば、周知のように、必ずしもそうとはかぎらない。不安に駆られた人々は、たとえ法に反してでも、ロックダウンされた都市から脱出しようとするかもしれない。また、何らかの事情で自宅にとどまるのが困難な人々は、違法であったとしても、外出しようとするかもしれず、そうした人々に罰則による抑止効果がどれだけ働くかも定かではない。

かわりに、アーキテクチャと呼ばれる物理的な手段(注3)により、人々の行動を事前に抑制し、外出や移動を不可能にするという選択肢も考えられる。たとえば、都市間を結ぶ鉄道を止めたり、高速道路や幹線道路を封鎖するなどして、都市を物理的に封鎖し、感染が広がる地域から人々が移動できないようにすれば、より強力に感染の蔓延を防止することができるだろう。

また、今日では、監視技術により人々の行動や位置をリアルタイムで把握して、感染の疑いのある者が移動しようとすると、自動通報を受けた警察官が駆けつけて制止したり、顔認証により駅の改札口や建物のゲートを通過できないにすることも、技術的には可能だろう。もちろん、そうした物理的な抑制すら突破しようとする人々も出てくるだろうが、移動の自由は事実上大きく抑制されることになる。

しかし、このような自由への強度の制約は、少なくとも公権力が主体となって行う場合には、日本では容易には正当化されないだろうし、そのような措置をとることは事実上も困難だろう。

行動変容を促すナッジ

そこで、人々の行動変容を促すために期待されるのが、「ナッジ」と呼ばれる柔らかな介入手段である。ナッジとは、特定の選択肢を排除したり、インセンティブを大きく変えたりせずに、個人の選択に介入しようとする手法である。

たとえば、大学は学食の料理を、学生が栄養バランスの良い料理を手に取りやすいように配列することができる。また、アプリの開発者は、利用者の位置情報が安易に収集されないように、プライバシー設定のデフォルトを定めることができる。

ナッジは、個人に大きなコストを伴わずにオプトアウト(離脱)する自由を認めている点で、個人の選択の自由を尊重するパターナリズム(リバタリアン・パターナリズム)を実現しているとされる(注4)。

新型コロナウィルス対策においても、無意識に目や口を触るのを避けるために、サングラスやマスクの着用を推奨したり、手洗いの手順を描いたイラストを掲示したり、感染防止のため自宅で待機している人々にアドバイスのメッセージを定期的に送信するなど、英国を中心に国際的にナッジを活用した取組が試みられている。

日本でも、たとえば、北海道庁は、人との距離(social distance)をとるよう促すため、ピクトグラムを掲示したり、床面にフットプリントを貼り付けたり、距離を空けて座席を配置するといった取組を推進している。環境省も、公共施設の入口付近の床面に黄色いテープを貼り付けて、訪問者を消毒液の置いてある机へと誘導するといった自治体の取組を紹介し、新型コロナウィルス対策にナッジを活用する方向で検討を進めている。

人々の行為に伴う社会的意味も、広い意味でのナッジといえるかもしれない。たとえば、ナッジの提唱者でもある法学者のキャス・サンスティーンによれば、米国では従来マスクをすると、「感染症にかかっている」とか「臆病だ」というようにネガティブに受け取られることが多かった。だが、CDC(疾病対策センター)が感染症予防のためマスクを推奨することにより、多くの人がマスクをするようになり、マスクの意味がポジティブなものに変容し、人々がマスクをしやすくなることが期待される(注5)。

日本では従来からマスクをする人が多く、米国とは前提が異なっているが、たとえば、テレワークについては同様の仕組みにより、意味の変容が起きているように思われる。これまで日本の多くの職場では、テレワークが制度的に認められていたとしても、実際に行おうとすると、「さぼっている」とか「職場をないがしろにしている」といった目で見られがちだったように思われる。ところが、政府の要請を機に、テレワークが「政府の要請に従っている」と見られたり、「感染症対策に協力している」と理解されるようになり、人々がテレワークしやすくなったということができるのではないだろうか。

とはいえ、ナッジも万能ではない。ナッジは、多くの人々の行動変容を促すことができるが、強制力を伴わないため、どうしても一定数の人々の行動を変えることは期待しがたい。ところが、感染症の場合、一部の人々の行動であっても、抜け穴があれば、そこから感染が拡大していくおそれがある。したがって、ナッジだけで感染症対策にどこまで効果があるかは定かではない(注6)。

また、ナッジは、経済的インセンティブに頼らずに、個人の心理や認知に働きかけるため、個人の行動変容を促すことはある程度期待できるものの、経済合理性にもとづき行動することの多い企業の行動変容には、限定的な影響しか及ぼすことができないだろう。

世間の評判に敏感な企業であれば、社会規範を用いた働きかけが効果を発揮するかもしれないが、世間の評判に左右されにくい企業の場合には、政府が施設名等を公表し人々に利用しないよう呼びかけたとしても、実効性は期待し難いだろう。企業が休業やイベント自粛に協力するよう促すためには、ナッジよりも、むしろ協力金や補償を支払うなど、経済的インセンティブに働きかける方が効果的かもしれない。

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