

新型コロナウイルスの感染拡大が危険域に迫ろうとしていると、東京都の小池百合子知事は連日、会見や囲み取材でメッセージを発信し続けている。平日夜、週末の外出を自粛するように呼びかけるだけでなく、カラオケ、バー、ナイトクラブなど業態を名指しして利用を控えるように呼びかけた。仕事や人生がいまひとつうまくいかないと鬱屈する団塊ジュニアやポスト団塊ジュニアを「しくじり世代」と名付けた『ルポ 京アニを燃やした男』著者の日野百草氏が、コロナ騒動のなか47歳デザイナー兼バー店主が決意した閉店と帰郷についてレポートする。
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「今日のお客は日野さんだけだ」
都心の繁華街の雑居ビル、背の低い私でも天井に頭が届いてしまいそうな狭小階段を登りに登ると、小塚誠さん(仮名・47歳)のバーが広がる。広がると言ってもカウンター6席、テーブル4席と10人入るのがやっとの本当に小さなバーだ。内装はまだ新しく、壁のジャズシンガーたちのポスターや絵画などはデザイナーでもある小塚さんのセンスが光る。私はジャズ、とくにフリージャズが好きなので、店にアルバート・アイラーやアーチー・シェップなどの名盤を持ち寄っては、同じく音楽にも精通する小塚さんや他のお客とあれこれうんちくを垂れ合うのが楽しみだった。そのかける曲と話はときにアイドル、アニソンにまで至る。この愉悦のためならジャスラックの年間6000円の使用量など安いものだ。
「街に全然人いないだろ? いつもの半分もいないよ」
3月27日の金曜日、小塚さんの言う通り、いつもなら歩くのも大変な週末の繁華街だというのに人通りはまばらだった。明けて土日は外出自粛令が出されている。それでも呑んで酔いつぶれる若者や、集団ではしゃぐ若者は散見された。みな一様にマスクをしていない。手に入らないのか、若さにまかせてイキっているのか、いずれにせよ迷惑極まりない。私だって仕事でなければ出歩きたくないのに。
「もう店を閉めようと思うんだ」
いつもの落ち着いた口調の小塚さん、その思いがけない言葉にハッとなった。私は最初、客が私一人しかいないので今日は閉めるということだと思い、「申し訳ない」と席を立とうとすると、小塚さんは笑って首を振った。
「違う違う、そうじゃないよ」
小塚さんはイケメンだ。長身で細身、鼻筋も通っていて黒シャツが似合っている。ツーブロックのベリーショートはイケメンでないと似合わない。羨ましいし、私が女性なら惚れている。実際、とてもモテる。土地柄、男性にもモテる。
「この店やめようかって話。もう潰すの」
そうか――ついにその話かと思った。一連のコロナ騒動以降、とくに三月に入ってからは全然客が入っていなかった。店に客が来ないとかこれからどうなるのかなど店の将来の話に及ぶこともあったがあくまで愚痴程度、店は小さく酒とつまみ程度、従業員もいないし小塚さんも本業のデザイナーの仕事はある。主に広告やチラシのデザインだが、独身一人暮らしの小塚さんが生活するには十分だし大丈夫だと聞いていた。まして開店してまだ1年たらずだ。
「広告の仕事も少なくなってね、いまはまだ先々月分が入るからなんとかなってるけど、自粛ばかりでどうなるかわからない」
小塚さんが言うには、パチンコのチラシやポスター、ポップの売り上げが減ったことが大きいという。一般チラシは安いが、やはりパチンコは金払いがいい。ポスティング用の「不動産売ります買います」的なチラシやリフォーム営業のチラシといった小口の仕事も減った。広告デザインと言っても華やかなのはごく一部で、小塚さんのような地道な細々とした仕事をこなすデザイナーが大半だ。
「デザイン仕事で生活して、店はトントンの収支、充実して楽しかったんだけどね」
未曾有の有事、真っ先に影響を被るのはシビアな社会とダイレクトにつながっている自営業者と非正規労働者だ。それからしばらくして、じわじわとサラリーマンが首を絞められることになる。今回のコロナはまさに未曾有の有事だ。
「まあ嘆いてもしょうがないよね、山一ショックもリーマンショックも、3.11の時ですら大変は大変だけど、東京でサラリーマンやってる分にはどこか他人ごとだったよ。それが世界中に疫病が蔓延するなんてね」
◆コロナウイルスで帰省しなくちゃいけない場合もあるんだよ
小塚さんは国立大学を卒業後、広告代理店に就職したエリートだ。芸大や美大卒でない小塚さん、社会人になってから独学でデザイナーとしての力をつけ、雑誌や書籍のエディトリアルデザインもその後転職した出版社で身につけた。個人事務所でデザインの仕事をしながら半分趣味でバーを開く、まさに理想の独身貴族だが、そんな幸せが一瞬で壊れてしまうのが天災というどうにもならない運命だということを、我々は先の震災で知ったはずだ。天災は誰が悪いわけでもない。天災が人災になることはあっても、端緒において誰の責任でもない。ましてや伝染病ならなおのこと、ペストしかり、エボラ出血熱しかりだ。
「見切りが早いと言われるかもしれないけど、早く見切らないと本当に詰んじゃうからね。人間、撤退時期は間違わないようにしないと」
小塚さんは頭がいい。飲み屋という羽目外しの場をやるには少々頭がよすぎるくらいだ。それでも常連客はいたし、昔の仲間や難しい話をしたがる人はたくさんいる。小塚さんのお客はそんな人達が多かったが、さすがにコロナ、まして外出自粛令とそれに従わざるを得ない社会の「空気」に抗うことは出来ない。三月も中頃になると閑古鳥が鳴く日々が続いた。
「つなぎ融資とか緊急支援とかを当てにするのは怖いよ。そんなの商売がよくなるあてのある人の話で、俺の景気なんかいつ回復するかわかんない。借金はしたくないね。コロナだっていつ収束するかわかんないだろう?」
借金も資産だと言えるのは大企業の話で、歴史上まれに見る非常事態に追い詰められた個人事業主の借金なんてリスクでしかない。では小塚さん、これからどうするのか。
「ひとまず富山の実家に帰ろうと思う。親も高齢だし、これまでも帰ってあげようと薄々は思ってたんだ」
地方民がこの東京で暮らしていくのは大変なことだ。10年、20年くらいはなんとかなるかもしれないが、仕事、家庭、健康、さまざまな理由で東京を去らなければならなくなる。ましてや有事になったら真っ先に影響を被る。独身での賃貸暮らしは若いうちは気楽だが、詰むのも早い。
「ビルのオーナーにも昨日話したんだ、この状況じゃしょうがないって納得してくれた。元々たいした家賃じゃないけど、俺のマンションの家賃と入れたら毎月結構な額が出ていくし、それこそ動きがとれなくなくなったら元も子もない」
私は電子コミックの表紙デザインでよければと仕事を紹介したが、彼は首を振った。そして煙草に火をつける。煙草嫌いの私と二人でいるときは、煙草を吸わない人だったが――。
「もう潮時だと思う。ありがたいけど、そういう状況じゃないんだ」
小塚さんは相当思い詰めているようだ。私は実家に戻ることに賛成した。
「俺なんかまだいい。ママゴトみたいな店舗経営だ。でも大きくやってる飲み屋は大変だと思う。従業員の金、仕入れの金、家賃、光熱費、オーナーの生活費、何もかも店が稼ぐ。そこに客がいない、そもそも街に人がいない、これで非常事態宣言なんて出たら、飲み屋の大半は消えると思う」
まったくそのとおりで背筋が寒くなる。いま私たちは本当に恐ろしい時代に踏み込んでしまったということか。
「それにね、日野さんは帰省するとコロナが広がるとか言ってたけど、俺もそうだけど、コロナで帰省しなくちゃいけないって場合もあるんだよ。