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医療破綻させないために今、スイスで起きていること――トリアージに関する医療ガイドラインの制定と患者事前指示書作成の奨励 - 穂鷹知美 / 異文化間コミュニケーション

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終末期緩和ケア

新型コロナウィルスに感染した患者が、患者事前指示書などを通して、集中治療を望まないことを表明した場合、具体的にどのような治療がなされるのでしょう。

クローネスは、自分が医学生の時大学教授が「肺炎は、高齢者の友」と言っていたことを少しためらいながらも引用し、死に至る重い肺炎を患う場合も、専門的な緩和ケアをすればおだやかな死を迎えられる。スイスにはそれを可能にするプロフェッショナルな緩和ケアのスタッフと技術があるといいます(Corona, 2020)。

トリアージの医療ガイドラインでも、「集中治療が行われない場合、総合的な緩和ケアがなされなければならない」とされています。実際、ガイドラインがだされたあと緩和ケア関係者が、これに呼応する形で具体的に動きだしました。

まず、緩和ケア関連者に呼びかけ、緩和ケアの体制の一層の強化をはかる目的で、フォーカス・コロナというプロジェクトチームが新たに設立されました(SGI, Stellungnahme, 2020)。

緩和ケア専門協会(FGPG)は、「新型コロナウィルス・パンデミー 高齢者および病弱な人々の家庭および介護施設での緩和ケアの観点」(SAMW, Coronavirus, 2020)という文書を発表しました。ここでは、「高齢で多併存疾患のある患者は、看護や集中治療をしても致死率が高い。人工呼吸器をつけるなど集中治療をしても高齢者が生き延びる確率は、これまでの経験上、かなり低」いが、これらの患者の「多くの人は、集中治療室に行かずに、自分たちがよく知っている環境でなくなりたいと望む」というほかの医療関係者と共通の見解を示しつつ、緩和ケアで推奨されるものを、予想される個別の症状に合わせて具体的に細かく提示しています。

現在、病院だけでなく、介護施設や、一部の訪問看護・介護サービス業界でも、新型コロナウィルス感染者で終末期の緩和ケアを望む人たちを、施設や自宅で受け入れるための準備が急ピッチですすめられているようです。

今回の危機は、社会が避けずに直面できるチャンスになる?

スイスは4月1日現在、新型コロナウィルス感染者数は17316人で、465人の方が亡くなっています。まだ集中治療室や病室には余裕があるとされますが、チューリヒ工科大学のレポートでは、4月中に感染者や重症者がさらに「津波のように」増え、1000病床が不足すると予想されています。

こう聞くと、「トリアージ」という言葉がまた脳裏をよぎりますが、新しいガイドラインの作成の中心人物であるシャイデッガーは、トリアージのような厳しい決断は今回のコロナ危機に限った話ではなく、「それは、平常時でもやはりまぬがれないものだ」と強調します。もちろん現在は、平常時以上に難しい状況だが、平常時でも「すべての人を助けたり、すべての人にいつも診療の可能なものをすべて提供できるという」認識は正しくなく、「そのような決断を社会が避けてとおろうとしてきた」だけなのだ、といいます。そして、「このとても扱いにくい(微妙でむずかしい)テーマについて、やっと、オープンに正直に議論できることができるようになったのだとすれば、コロナ危機の副次的な効果といえるかもしれない」と言います。

医療関係者から投げかけられた、このような重たいボールを、スイスの社会は危機の最中にあってやっと受け止めるのでしょうか。スイス人の本音は、どのようなものなのでしょう。

ガイドラインが発表されてから今までの2週間で、様々なメディアがトリアージのガイドラインと患者事前指示書についてとりあげてきました。この事実からだけでも、メディアや一般の人々にとって、これらのことがどれくらいショッキングであったのかが想像されます。一方、これらの報道をみると、公共放送でもタブロイド紙でも、概して中立的で、反論や批判的な論調はほとんどみあたりませんでした。

筆者の調べたなかで、批判的なニュアンスを感じたのはふたつだけでした。一つは、公共放送のニュース番組のインタビューに介護・青少年および障害者施設のスイス全国連盟の会長が出演した時、患者事前指示書を患者に「無理やり作成させるべきではない」(Bei schweren, 2020)と言い放ちましたが、そこに若干の批判的な感情がこもっていたように思われました。

もう一つは、スイスの名高い高級紙『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥンク』(「意見と討論」欄)で、医療倫理ガイドラインについて、「適者生存Survival oft he fittest」のロジックだ、としていた部分です (Stadtler, 2020)。

しかし、前者は、自分たちの施設に重傷者がでた場合も、まず患者事前指示書があるかを確認するとし、その存在を重んじることは自明としていますし、後者も、同じ記事のなかで「予想される医療機関の負担の過剰は、社会を深い倫理的なジレンマにもたらす」(Stadtler, 2020)といった書き方も同時にされていることからわかるように、尋常ならざる現状を全体として皮肉に叙述する一端として過激な表現を用いたにすぎず、全面的にガイドラインを批判しているわけではありません。

胸のうちには、強い衝撃や抵抗したい感情を抱いても、現状をみると、医療倫理ガイドラインや患者事前指示書以上の良案は見当たらず、それゆえ、これらの医療関係者からの提案や働きかけを、なんとか理解し、受け入れようとする。それが、スイス社会全体の現在の傾向なのかもしれません。

患者事前指示書が、患者自身の生活の質を下げないためのツールとして、これまでにも広く知られており、作成することがかなり定着してきたことも、今回の話を冷静に受け入れる助けになっているかもしれません。2017年の調査では、スイスでは65歳以上の住民の47%と半数近くが、すでに患者事前指示書を作成しています(18歳以上の成人すべてでは、全体の22%、Pro Senectute, 2017)。換言すれば、この割合はまだまだ低く、さらに割合をあげること、とりわけ慢性的な疾患のある高齢者の作成の割合を高めることが、現在、大きな課題となっているといえます。

おわりにかえて――医療機関に丸投げするのでも、あるいは模範的な日常行動規範を訴えるだけでもない、スイスの道

少し話はずれますが、ヨーロッパではコロナ危機以来、民主主義的な社会と、管理統制型の社会のどちらがコロナ危機のマネジメントとしてすぐれているか、という議論がたびたびきかれます。

そこでは、前者が、基本的に人々に分別ある行動を訴え、自らの自主的な行動で感染拡大を抑制しようとするのに対し、後者は、人の行動をデータでできるかぎり監視したり、禁止などの厳しいルールで統制することで、感染拡大を防ぐというアプローチ、という風に大雑把にくくられます。

スイスは、この2種類の大きな分類でいえば、前者に属するでしょう(少なくとも今のところ)。スマートフォンの個人情報は移動範囲を匿名で把握する以外の用途で使われておらず、デジタル機器を駆使した監視や細かいルールで外出を規制するよりも、人々がみずから責任をもって行動するよう働きかけることに、政府も強い関心や期待を置いているようです。ロックダウンについての記者会見での、ベルセ保健相の言葉はそれをよくあらわれていたように思います(以下、ベルセ保健相の3月20日の記者会見の発言の一部の要約)。

「ヨーロッパのほかの諸国に比べると、スイスの規制は厳しくはなく、外出を画一的に禁止するものではない。なぜか。それは、どんな厳しい規制をつくっても、最終的に人々が同意し、正しい行動をしてくれなければなんの意味もないからである。肝心なのは、人々が状況を理解し、自主的に、そして長期的に、分別ある行動をすることなのだ。スイスのやり方は、文化が違うためやり方も異なっていると思われる隣国と、いっしょである必要はなく、このような手法は「スイス流」といえる。」

今回、医療倫理ガイドラインと患者事前指示についてみてきて、これらもまた、スイス国民に期待されている「スイス流」の行動規範の一環であるように思われます。一方で、医療資源が不足した時、患者に優先順位をつけなくてはいけないこととその決め方について、国民に公明正大に繰り返し説明し、理解や同意することを求めます。他方、自分自身が希望する終末期治療を受けるため、また医療機関の破綻を避けるため、どんな治療をのぞみ、生きていることでなにを大事にするかを自問し患者事前指示書を作成することを、人々に期待します。人々を主体的なアクターとして、(手を洗うことや家にいることなど、日常的な行動様式を課すだけでなく)さらに巻き込んでいくことで、コロナ危機という戦後最大の危機の回避を目指しているようにみえます。

所変わって、ほかの国や、人々の場合はどうでしょう。コロナ危機によって医療機関が逼迫する危険を前に、どんな選択肢をとるのでしょうか。医療関係者に丸投げにし、医療機関にさらなる負担を強いる選択肢をとるのでしょうか。それとも、スイスのように何らかの別の手段にも着手するのでしょうか。それぞれの国で、人々が実際にどんな行動を、どれくらい実行していくべきなのかが、今、問われています。

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<参考文献>
・«Bei schweren Komplikationen kann das Spital nötig werden». Coronavirus in Altersheimen, 25.03.2020, SRF, News.

https://www.srf.ch/news/schweiz/coronavirus-in-altersheimen-bei-schweren-komplikationen-kann-das-spital-noetig-werden

・Corona: Behandlung ja oder nein?, Puls, SRF, Montag, 30. März 2020, 21:05 Uhr

https://www.srf.ch/sendungen/puls/corona-behandlung-ja-oder-nein

・Corona. Eine Mikrobe stellt unsere Stärke in Frage, Sternstunde, SRF; 22.3.2020.

https://www.srf.ch/play/tv/sendung/sternstunde-philosophie?id=b7705a5d-4b68-4cb1-9404-03932cd8d569

・Coronavirus: Kontroverse um Patientenverfügungen, 10 vor 10, SRF, 24.3.2020.

https://www.srf.ch/play/tv/10vor10/video/coronavirus-kontroverse-um-patientenverfuegungen?id=bcaecb6e-287f-48d3-9d66-ee0e4186a446

・Coronavirus: Was, wenn die Spitäler überlastet sind?, Tagesschau, SRR, 21.03.2020, 19:30 Uhr

https://www.srf.ch/play/tv/tagesschau/video/coronavirus-was-wenn-die-spitaeler-ueberlastet-sind?id=4962ce3c-fa6e-48e3-84c0-c1d966635e53

・穂鷹知美「求む、国外からの介護福祉士 〜ベトナムからの人材獲得にかけるドイツの夢と現実」『αシノドス』vol.269 、2019年11月15日 ・Kinzelmann, Fabienne, Medizinethikerin Tanja Krones über Spitäler-Kollaps und das ethische Dilemma. In: Blick.ch, Publiziert: 19.03.2020, 22:26 Uhr, Zuletzt aktualisiert: 20.03.2020, 14:27 Uhr

https://www.blick.ch/news/schweiz/medizinethikerin-tanja-krones-ueber-spitaeler-kollaps-und-das-ethische-dilemma-alters-rationierung-ist-in-der-schweiz-nicht-tragbar-id15805232.html

・palliative ch(Schweizerische Gesellschaft für Palliative Medizin, Pflege und Begleitung), Wissenswertes zum Coronavirus (2020年4月1日閲覧)

https://www.palliative.ch/de/fachbereich/task-forces/fokus-corona/

・Pflege durch Angehörige, Patientenverfügung – Das Recht auf medizinische Selbstbestimmung

https://www.pflege-durch-angehoerige.de/patientenverfuegung-das-recht-auf-medizinische-selbstbestimmung/

・Pro Senectute, Selbstbestimmen bei Urteilsunfähigkeit – Zahlen und Fakten 1. Oktober 2017 ・Roland, Kunz/ Markus, Minder, COVID-19 pandemic: palliative care for elderly and frail patients at home and in residential and nursing homes. In: Swiss Med Wkly, 24.03.2020.

https://smw.ch/article/doi/smw.2020.20235

・Schöpfer, Linus/ Scheidegger, Daniel, «Priorität hat, wer die besseren Überlebenschancen hat» In: Tages-Anzeiger, 18.03.2020 ・Schweizerische Akademie der Medizinischen Wissenschaften (SAMW), Patientenverfügungen, 1.– 6. Auflage, 7. Auflage Bern 2000 (Sept 2018) ・Schweizerische Akademie der Medizinischen Wissenschaften (SAMW), Coronavirus: Empfehlungen für Palliative Care, News, 25.03.2020

https://www.samw.ch/de/Aktuelles/News.html

・Schweizerische Akademie der Medizinischen Wissenschaften (SAMW)/ Schweizerische Gesellschaft für Intensivmedizin (SGI), Covid-19-Pandemie: Triage von intensivmedizinischen Behandlungen bei Ressourcenknappheit. Hinweise zur Umsetzung Kapitel 9.3. der SAMW-Richtlinien Intensivmedizinische Massnahmen (2013) Die deutsche Fassung ist die Stammversion. 2., aktualisierte Version vom 24. März 2020

https://www.samw.ch/de/Ethik/Themen-A-bis-Z/Intensivmedizin.html

・Schweizerische Gesellschaft für Intensivmedizin (SGI), Stellungnahme Coronavirus Krankheit 2019 (COVID-19) Basel, 24. 3. 2020

https://www.sgi-ssmi.ch/files/Dateiverwaltung/COVID_19/IMSGCM_Stellungnahme_COVID-19_03_DE_200324.pdf

・Stadtler, Helmut, Wenn Knappheit über Leben und Tod entscheidet. In: NZZ, S.10. ・«Vorrangig werden diejenigen mit der grössten Überlebenschance behandelt». In: NZZ, 19.3.2020, S.12.

・Was tun, wenn die Spitäler überlastet sind? Neue Richtlinien wegen Corona, Sonntag, SRF, News, 22.03.2020, 14:19 Uhr

https://www.srf.ch/news/schweiz/neue-richtlinien-wegen-corona-was-tun-wenn-die-spitaeler-ueberlastet-sind

・Wer wird behandelt, wenn es auf der Intensivstation eng wird?, Echo der Zeit, SRF, 21.3.2020.

https://www.srf.ch/play/radio/echo-der-zeit/audio/wer-wird-behandelt-wenn-es-auf-der-intensivstation-eng-wird?id=4b09faca-987a-4462-ade4-ca555d85b840

・Zielcke, Andreas, Moralisches Elend. In: Süddeutsche Zeitung, 23.3.2020.

https://blendle.com/i/suddeutsche-zeitung/moralisches-elend/bnl-sueddeutschezeitung-20200323-ebb17205d433?sharer=eyJ2ZXJzaW9uIjoiMSIsInVpZCI6InRvbW9taWhvdGFrYSIsIml0ZW1faWQiOiJibmwtc3VlZGRldXRzY2hlemVpdHVuZy0yMDIwMDMyMy1lYmIxNzIwNWQ0MzMifQ%3D%3D

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