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なぜ「高輪ゲートウェイ」という駅名が誕生してしまったのか

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3月14日に開業した山手線の新駅は、事前に駅名の公募が行われた。「高輪ゲートウェイ」は130位で、1位は「高輪」だった。なぜ「ゲートウェイ」が付いてしまったのか。地図研究家の今尾恵介氏は「国鉄時代にあった『駅名はこうあるべし』という思想が、今はなくなってしまった」という――。

※本稿は、今尾恵介『駅名学入門』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

山手線の新駅名「高輪ゲートウェイ」を発表したJR東日本の深沢祐二社長

山手線の新駅名「高輪ゲートウェイ」を発表したJR東日本の深沢祐二社長=2018年12月4日、東京都渋谷区 - 写真=時事通信フォト

公募1位は「高輪」だったのに…

令和2年(2020)3月14日。山手線の駅(線路の戸籍上は東海道線)としては久々の新顔が誕生した。駅名の決定にあたってJR東日本は一般から公募を行った。

開業の2年前の平成30年(2018)6月5日~30日の募集期間中に集まった駅名案は6万4052件(1万3228種類)にものぼっている。

駅の建設地は広大な車両基地の跡地で、ここをJRは「グローバルゲートウェイ品川」と名づけて再開発を行っている。駅はその中心として位置付けられた。

駅舎は東京オリンピックのメインスタジアムである新国立競技場を設計した隈研吾(くまけんご)氏が手がけたが、障子の桟を思わせる枠組みに自然光が入る明るい空間で、これにより照明費を抑えるなどして環境に配慮したという。

使用する木材は福島県古殿(ふるどの)町、宮城県石巻市などを産地とする国産を用いたそうで、東北地方の復興への貢献もアピールしている。

公募の締切から半年後の平成30年12月4日、駅名は「高輪(たかなわ)ゲートウェイ」に決定したことが発表された。ちなみに公募でダントツの1位だったのは「高輪駅」の8398件で、2位「芝浦駅」の4265件におよそ2倍の大差をつけている。

件数では以下「芝浜」「新品川」「泉岳寺」「新高輪」「港南」などが続いたが、選ばれた「高輪ゲートウェイ」は130位のわずか36件であった。

候補1位の「高輪」が「正統」な根拠

130位という下位の候補が選ばれたことが注目されて不満の声も目立ったが、当然ながら「命名する権利」を持っているのは、この駅を建設するJR東日本である。

それに最初から最大票数を得た候補に決めるなどとは表明しておらず、公募はあくまで参考に過ぎない。この公募をもとに「選考委員会」で決めたというが、もちろん会社の事業なのでJR東日本が人選したものであろう。

JR東日本が発表したプレスリリースには次のような選定理由が掲げられた。

この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり、明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景を持っています。

新しい街は、世界中から先進的な企業と人材が集う国際交流拠点の形成を目指しており、新駅はこの地域の歴史を受け継ぎ、今後も交流拠点としての機能を担うことになります。

新しい駅が、過去と未来、日本と世界、そして多くの人々をつなぐ結節点として、街全体の発展に寄与するよう選定しました。

新駅の予定地は港区港南2丁目(「港南」は公募7位)で、この町名は昭和40年(1965)に命名された新しいものである。新駅エリアの以前の町名は芝高浜町(旧芝区高浜町)。かつては海面であったが、そこを昭和4年(1929)に「3号埋立地」として造成、同8年に新たに命名したものだ。

そこから最も近い陸地は現在では高輪2丁目で、昭和42年(1967)までは高輪北町(きたまち)と車町(くるまちょう)にまたがったエリアだった。両町はいずれも江戸時代からの歴史がある。

車町に高輪の文字は冠されていないが、運送業者にちなむこの町名が江戸時代に命名される以前は高輪の一部であった。候補第1位の「高輪」という駅名はこれだけ遡っても「正統」ということになる。

田町駅の「田町」は消滅してしまった

ここで一休みして、高輪ゲートウェイの隣に位置する田町駅に注目してみよう。この駅は明治42年(1909)12月16日に開業した。

ちょうど山手線の電車が烏森(からすもり)(現新橋)~品川~池袋~上野間および池袋~赤羽間の運転を始めた日で、電車専用の旅客駅として隣の浜松町駅と同日に開業している。

蒸気機関車の牽引する旅客列車に比べて電車は加速性能が高く小回りが利くので、ここに限らず電車化した路線には沿線の利便性を高めるために新駅が多く設置された。

田町駅が開業した頃の所在地は東京市芝区田町1丁目で、田町は上高輪村から寛文2年(1662)に町奉行支配になったという古い町だ。駅名も自然に所在地名を採用している。東海道に沿った細長いエリアに田町1丁目から9丁目までが並んでいた。

ところが昭和42年(1967)に住居表示法による住居表示で芝5丁目と三田3丁目の各一部に統合、消滅してしまったのである。

今はなき「地名」を残した田町、原宿、御徒町

さて、山手線の駅である原宿駅は東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿に明治39年(1906)に設置された。東京市内になってからは渋谷区穏田(おんでん)3丁目で、ホームの一部は竹下町にかかっていたが、大正期に駅が移転する前の旧位置は原宿3丁目だ。

ところが住居表示の「魔の手」はここにも及び、原宿駅の所在地は昭和40年(1965)に神宮前1丁目となった。

この新町名は原宿と同様に歴史的地名である穏田と竹下町も含めた広いもので、とにかく「町を統廃合して丁目で分ける」という、まるで手段が目的化したような、歴史を顧みずに「合理的」であることを最優先する(実態はまったく合理的ではないが)地名政策のために、原宿という地名はいとも簡単に葬られた。

やはり「山手線の駅」である御徒町(おかちまち)駅の所在地も仲御徒町3丁目(そのすぐ東に御徒町3丁目が隣接)であったのが、やはり住居表示法後の昭和39年(1964)に御徒町が東上野と台東の各一部、仲御徒町が上野の一部となったために「御徒町」の地名は消滅している。

これほど住居表示法による町名の大改変が都心部で行われていたにもかかわらず、山手線の電車が走る路線の駅名は、この時期に1カ所も改められていない。

特に山手線の駅名ともなれば影響力が大きく、長年にわたって定着しているという理由もあっただろうが、当時の国鉄当局の要路の役職にある人が、住居表示法による行き過ぎた町名変更を苦々しく思っていたと想像しても、それほど的外れではないだろう。

いずれにせよ結果的に田町、原宿、御徒町の地名の「事実上の存続」に昔ながらの駅名が大きな役割を果たしたことは間違いない。

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