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「宮崎駿さんもそろそろ終わりだね」のひと言が変えた……『魔女の宅急便』ヒットの理由 今だから語れる制作秘話! 『魔女の宅急便』プロデューサー洗礼の日々 - 鈴木 敏夫

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 スタジオジブリ制作の4作目となる「魔女の宅急便」は逆風のなかのスタートだった。1984年の『風の谷ナウシカ』の公開以降、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)の興行成績が思わしくなく、映画業界での宮崎駿監督作品への視線は冷ややかなものとなっていた。しかしこの『魔女の宅急便』は大ヒットとなり、フリーだったアニメーターの社員化も可能にした。宮崎監督の右腕だったプロデューサー・鈴木敏夫氏が語る制作秘話。

◆◆◆

高畑さんに断わられ、宮さんに持ち込んだ『魔女の宅急便』

『魔女の宅急便』は、スタジオジブリとしては初となる外部からの持ち込み企画としてスタートしました。

 広告代理店を通じて話が来たのは、1987年の春、ちょうど『となりのトトロ』『火垂るの墓』の制作が本格的に始まった頃でした。バブル景気とともに、日本映画も元気になりかけていた時期です。映画制作に企業がタイアップするのが始まったのもこの頃。『魔女の宅急便』はその最初ともいえるかもしれません。なんといっても、原作に「宅急便」がついているということで、広告代理店からすると、これ以上分かりやすい企画はなかったんでしょう。

 じつはこの企画、最初は「高畑勲監督作」ということで持ち込まれました。ところが、高畑さんが断ったので、宮さんに「こういう企画が持ち込まれてるんですけど、どうします?」と聞いてみたんです。そしたら、「おれ読んでる暇ないから、鈴木さん読んでよ」と言われてしまった。

 そういう場合、宮さんという人は必ず次の朝に感想を聞くんですよ。だから、仕事の終わった夜更けにいっきに読みました。もちろん児童文学としては素晴らしいと思いました。でも、それをどういう切り口で映画にしたらいいのかとなると、話はとたんに難しくなる。


鈴木敏夫氏 ©文藝春秋

「田舎から都会に出てきて働く女性たちのことを描いた本」

 悩みながらその日は寝ちゃったんですけど、明くる朝、案の定、宮さんから「どうだった?」と聞かれました。僕もその頃にはずいぶん宮さんに鍛えられていたんでしょうね。そういうときには反射的に言葉が出るようになっていました。

「この原作、見た目は児童文学ですけど、たぶん読んでいるのは若い女性じゃないかと思いますね」

「どうして?」

「たぶん田舎から都会に出てきて働く女性たちのことを描いた本なんですよ。彼女たちは好きなものを買って、好きなところへ旅行し、自由に恋愛も楽しんでいる。でも、誰もいない部屋に帰ってきたとき、ふと訪れる寂しさみたいなものがあるんじゃないかと思うんです。それを埋めることができれば映画になりますよね」

 と、その場の思いつきで言ったんです(笑)。すると宮さんが「おもしろいじゃない」と俄然興味を示しました。自分で言っておきながら、ほんとうにそういうテーマで作るべきなのかどうか、最後まで悩むことになるんですが……。

「言っていたことなんて、どこにも書いてないじゃないか!」

 とはいえ、宮さんは『トトロ』の制作の真っ最中。自分で作業することはできません。と同時に、「いつまでも俺たちジジイが映画を作っていてもしょうがない。若い人に機会を与えようよ」という思いもあった。そこで、自らはプロデューサー兼脚本家を務め、監督には宮さんの元で演出の勉強をしていた片渕須直くんを抜擢することになりました。

『トトロ』の制作が終わると、宮さんはすぐに脚本執筆に入ることになりました。ところが、原作を読んでの第一声は、「鈴木さんの言っていたことなんて、どこにも書いてないじゃないか!」というもの。いや、直接書いてあるわけじゃないんですけれど……と話し合ううち、結局、シナリオを書く作業にぜんぶ付き合うことになってしまいました。

 宮さんの事務所があった阿佐ヶ谷に脚本の完成まで毎日通い詰めましたかね。何か聞かれたり相談されるごとに、すぐにパッと答えられるよう、朝から夜までずっと隣にいました。

 宮さんの執筆というのは変わっていて、僕に向かってあれこれしゃべりながら鉛筆を走らせていくんですよ。そして、1シークエンス終わるごとに、すぐに原稿を見せてくれる。それで「どう?」と聞かれるので、「ここはもう少しこうじゃないですか」と感想を言うと、すぐにパッと書き直す。そんなふうにして書く作家っていないですよね。普通ひとりで書斎に籠もって集中するものじゃないですか。

 書き方のスタイルもそうなんですが、シーンを組み立てる手際のよさにも感心しました。物語の冒頭、13歳になった魔女は独り立ちしなければいけないということで、キキが故郷から旅立っていくわけですが、原作ではけっこうなボリュームが割かれています。凡庸な人がやったら20分ぐらいかかりそうなそのシーンを、わずか5分ほどにまとめてしまったんです。基本設定を手短にまとめて分かりやすく見せるだけでなく、非常に印象的なシーンにもなっています。原稿を読んだ瞬間、思わず「宮さん、これすごいですよ」と言ったのを覚えています。

「世界は男と女でできているんだから、これでいいんだ」

 そして、キキがコリコの町へ着くと、いきなりトンボという男の子に出会う。男女がすぐに出会うというのが宮崎駿の映画の特徴ではあるんですけど、ただ今回はちょっと違うんじゃないかなあと僕は思ったんですね。

「普通はまず同性の子を友達にして、安定を得てから異性に向かうんじゃないですかね」と言ってみたら、「世界は男と女でできているんだから、これでいいんだ」と言われました。宮さんらしいですよね。

 逆にその後、しばらく話が進んでから、森の中でウルスラという女の子と出会うじゃないですか。彼女の設定を宮さんは27歳としていたんですが、僕は同年齢がいいと思っていたので、ずいぶん話し合いました。それで結局、間をとって18歳ということになったんです(笑)。

 ウルスラについて思い出深いのは、なんといっても彼女が劇中で描いていた絵です。じつはあの絵、宮さんの義父が教えていた養護学級の生徒の作品がもとになっているんです。戦争中、反戦活動で投獄された経験もあるという骨のある方で、その後、長く障害のある子供たちの社会復帰に尽力されたそうです。そのつながりで絵を使わせてもらったわけですが、ああいう印象的な小道具の使い方が、宮さんはじつにうまいですね。

キキとトンボのシーン「そんなの書けない!」とギブアップ

 キキとトンボの関係でいうと、物語の中盤でトンボがキキをパーティに誘う場面があります。ところが、“奥様”の作ったニシンのパイを届けているうちに時間に遅れ、雨にも降られて、キキは風邪をひいて寝込むことになります。その後、再会したとき、ふたりの距離はいっきに縮まるんですけど、僕はその前に微笑ましい痴話げんかのようなシーンを入れたらどうかと提案したんです。それを踏まえて2人はより仲がよくなっていくという表現がいいんじゃないかと思ったんですね。

 宮さんはそれを受けて、書き直してはみたものの、「そんなの書けない!」とギブアップしました。宮さんというのは主観的な人ですから、男女関係を客観的に見るのはあまり得意じゃないんですね。そういう人にあえて要求してみると、どんなことになるんだろう? といういたずら心もちょっとあったんですけれど(笑)。

 そうこうしてシナリオはできあがっていき、問題のラストシーンにさしかかりました。ウルスラの小屋から帰ってきたキキは、ニシンのパイを運んだ“奥様”からの思わぬプレゼントに涙ぐみます。当初、宮さんはそこで話を終えるつもりでした。それはそれで非常にウェルメイドないい話でしょう。ただ、僕としてはそれだけじゃ物足りないという思いがあった。やっぱり娯楽映画ですから、最後はお客さんへのサービスとして派手なシーンがほしいと注文を出したんです。それで飛行船からトンボを救うスペクタクルなシーンを付け加えることになりました。後に作画に入る段階で、そのシーンの是非がスタッフの間であらためて問題になっていくんですが……。

原作者の角野栄子さんがどんな映画になるのか心配していると聞いて……

 脚本ができた後、原作者の角野栄子さんが自分の作品がどんな映画になるのか心配しているという話が伝わってきました。

 そのことを宮さんに話したら、「鈴木さん、ふたりで会いに行っちゃおう」ということになりました。そういうとき、宮さんの行動はすごく早いんです。

 角野さんのご自宅にクルマで訪ねていって、「いちどジブリに遊びに来ませんか」と言って、吉祥寺のスタジオまでお連れすることにしました。その道中、普通に行けば15分ぐらいのところをじっくり一時間ぐらいかけて走り、宮さんは角野さんに武蔵野の風景を見せてまわったんです。宮さんはそのあたりの道をすべて知り尽くしていて、どこにどういう緑があるのか、ぜんぶ頭に入っているんですね。

 これには角野さんも「こんなきれいなところがあったんですか!」と喜んでくれて、ジブリに着いた頃にはすっかり心の距離が埋まっていました。

 宮崎駿という人は、計算じゃなく、本能でそういうことができてしまうんです。じつは僕も後に同じことをやってみたことがあります。フレデリック・バックさんというカナダのアニメーション作家をジブリ美術館からスタジオまでお連れするとき、いろんな緑を見せてまわったんです。そうしたら、バックさんも「東京にもこんな素晴らしいところがあるのか!」と喜んでくれました。

 宮さんが脚本執筆に取り組む傍ら、演出の片渕くんや、キャラクターデザイン・作画監督の近藤勝也くんたち主要スタッフは、スウェーデンのストックホルムとゴトランド島へロケハンに出かけました。

 それはかつて宮さんがリンドグレーン(『長くつ下のピッピ』の作者)に会うために訪れた場所でもあります。宮さんにとっては初めての海外旅行。同行した人によると、宮さんは緊張のあまり、右手、右足が一緒に出る、いわゆる「ナンバ歩き」になっていたそうです(笑)。そんな状態で見たものだから、より深く印象に残っていたのかもしれません。自分が初めて触れたヨーロッパの美しい景色を、若い人にも見てもらいたかったんでしょう。

この体制でいいものが作れるんだろうかと不安になったふたり

 スタッフがロケハンから帰国し、脚本も完成。いよいよ本格的な制作に取りかかろうとしていたとき、徳間書店の上層部に企画の説明と監督の紹介をすることになりました。その会を終えてみて、僕としては正直なところ、この体制でいいものが作れるんだろうかと不安になってしまったんです。徳間書店を出て、みんなと別れた後、僕は宮さんを喫茶店に誘いました。

「このままでうまくいくんですかね?」

 率直に聞いてみると、宮さんも、

「俺も同じことを考えていた。どうしようか、鈴木さん」と言います。

「トトロから連投になってもうしわけないですけど、やっぱり宮さんがやってくれないですかね」

 そうお願いすると、宮さんはその場で「分かった」と了承してくれました。

 数日後、スタッフを集めてそのことを話し、片渕くんには引き続き演出補として仕事を続けてもらうことになりました。

宮崎駿は、ものを教える人間としてはあまり優秀じゃないけれど

 僕が見る限り、宮崎駿という人は、ものを教える人間としてはあまり優秀じゃないんです。たとえば、当時ジブリには録音スタジオがなかったので、外のスタジオに行かなきゃいけなかったんですが、そのとき宮さんをクルマに乗せていく人は大変な目に遭っていました。どのルートを使うか、どのタイミングで方向指示器を出し、どこでブレーキを踏むか、一挙手一投足すべてにわたって細かく口を出すんですね。これにはたいていの人がノイローゼになっちゃう。その結果、あるときから宮さんを乗せて運転するのは僕の担当になりました(苦笑)。

 その性格は当然、絵を描くときにも出ますから、宮さんが顔を出すと、みんな落ち着いて作業できないんです。宮崎駿がスタッフに求めているのは、その人の中にいいものを見つけて伸ばすというよりも、“自分の分身”なんですね。だからこそ、いい映画が作れるという面もあって、そこのところはなかなか難しい問題ですが……。

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