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古代人が恐れた「長屋王」の「祟り」と「疫病」 - 関裕二

自害に追い込んだ長屋王の「祟り」か、首謀者の藤原武智麻呂(写真・栄山寺蔵)は天然痘に苦しんで没した

 風邪は万病の元とはよくいったもので、長い間人類は、風邪やインフルエンザに苦しめられてきた。

『三代実録』(平安時代の官撰史書)の貞観4年(862)条に、人びとが咳逆(しはぶき=咳の病。インフルエンザだろう)に冒され、大勢亡くなったとある。10年後にも、咳逆が流行し、死者が出ている。今も昔も、人間の命は、はかない。科学や医学が進歩し、人類が食物連鎖の頂点に君臨しても、結局、微小な生物には勝てないのだ。

 ちなみに、この咳の病、渤海(ぼっかい=中国の東北地方を中心に朝鮮半島北部からロシア沿海州にかけて存在した国)の人びとがもちこんだと噂されていたという。新しい病が海の外からやってくることを、列島人は経験から知っていたのだろう。

 また、新型コロナウイルス騒動で再確認できたのは、パニックになると人間は愚行に走るということだ。デマが横行し、使い捨てマスクやトイレットペーパーの買い占めが起きている。オイルショックの反省が活かされなかったのは、じつに嘆かわしい。

「藤原四子」の陰謀

 この混乱の中、奇妙な形で奈良時代の亡霊が現代に蘇っている。冤罪で一家全滅の憂き目に遭った長屋王(ながやおう=676/684~729)だ。

 2020年1月に、日本で中国語の検定試験を主催する日本青少年育成協会は、湖北省と周辺にマスクや体温計などの支援物資を送ったが、その際にちょっとした演出を施した。長屋王が遣唐使に託して贈った1000着の袈裟に刺繍された漢詩「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」(山や川、国は異なっていても、風も月も、同じ天の下でつながっている。この袈裟を僧に喜捨す、ともに来世で縁を結ばん)の一節「山川異域 風月同天」を引用して添えたのだ。これが現地で喜ばれ、感謝された。

 すると3月になって、今度は中国の「アリババグループ」の創始者・ジャック・マー元会長が日本に100万枚のマスクを寄付すると発表し、しかも例の漢詩に返歌を添えていた。

それは、

「青山一道 同担風雨」

で、意味は、

「困難を共に背負おう」

 というものだ。なかなか粋なことをしてくれる(だまされてはいけない、とする言説も見かけるが、ここは素直に感謝しておくべきだろう)。

 では、長屋王の漢詩の真意はどこにあったのだろう。

じつは、鑑真が来日するまで、授戒できる高僧が、日本にはいなかった。だから僧の格好をして修行しても、正式に出家したことにはならなかったのだ。そこで唐の高僧を招こうと考え、その思いを長屋王は漢詩で訴えた。

 そして、この純粋な願いは、唐を代表する僧・鑑真を突き動かした。弟子たちが尻込みする中、みずから日本に向かうことを決意したのである。

 渡海は辛酸をきわめたが、来日時、すでに長屋王はこの世の人ではなく、2人はめぐり逢うことはなかった。藤原不比等の4人の男子(藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の陰謀によって、罪なくして一家は滅亡していたのである。

 鑑真の不運はここにある。長屋王がからんでいたために、日本で冷遇されてしまった。政敵長屋王の手柄を藤原氏は面白く思っていなかった。藤原氏の氏寺・興福寺は鑑真を軽視し、

「授戒などしてもらわなくてもけっこう」

と、鑑真を邪険に扱った。

 だから、長屋王の漢詩に感動した中国人も、後日譚を知れば、あきれ果てるにちがいない。

聖武天皇の悔やみ

 ところで、長屋王が「新型コロナウイルス」の話題で登場するのも、何やら因縁めいている。長屋王は恐ろしい疫神(えきじん=病気をもたらす祟り神)に化けていて、人びとを震え上がらせていたからだ。

 長屋王一家滅亡から数年して、異変が続いた。『続日本紀』に、いくつか記事が載る。天平7年(735)、穀物のみのりが悪かったこと、夏から冬に至るまで、裳瘡(もがさ=天然痘)がはやって、多くの人が若くして亡くなった。

 さらに天平9年(737)4月には、権勢をほしいままにしていた藤原四子のひとり藤原房前が急死。また北部九州で裳瘡が再び大流行して多くの人々が亡くなったので、一帯の神社で祈祷を行わせた。7月には藤原麻呂も没し、藤原武智麻呂も病に倒れ、聖武天皇は次の詔を発している。

「この頃、疫病が蔓延していたため、神を祀ったがうまくいかない。右大臣(武智麻呂)の容態は悪化して、心が痛む。天下に大赦して、病苦を救いたい(後略)」

 しかし、直後に武智麻呂は死ぬ。そして8月、最後に残っていた参議・藤原宇合も死んだ。これで、藤原不比等の4人の男子は全滅したのだった。聖武天皇は、「朕が不徳」と悔やみ、嘆いた。天皇の大切な役目のひとつが、疫神を祀り、疫病を鎮めることにあったからだ。

惨たらしい最期

『続日本紀』は、天平9年の天然痘の大流行を「長屋王の祟り」と明記していない。しかし当時の人々は「祟り」とみなしていたようだ。理由ははっきりしている。藤原氏は敵対する長屋王が邪魔になり、滅亡に追い込んだからだ。ならば、なぜ長屋王は、藤原氏に楯突いたのだろう。

 8世紀初頭に完成した律令(法令)は、原則として天皇に実権をあずけていない。天皇は貴族(藤原氏や物部氏ら)たちで構成される太政官から奏上された案件を、追認する立場だ。天皇の命令は絶対だが、それは「天皇ではなく、太政官の意志」だった。

 ただし藤原氏は、「天皇のツルの一声」も温存しようとした。天皇を傀儡にして自在に操ることで、「藤原氏にとって都合の良い命令」を天皇から引き出すためだ。長屋王は、藤原氏の企みに気づき、抵抗し糾弾した。だから、藤原氏に睨まれたのだ。

『日本霊異記』には、長屋王の最期が記されている。いきさつは、以下の通りだ。

 聖武天皇は長屋王が謀反を企んでいたことを知り(藤原氏のでっちあげだが)、怒り、兵を差し向けた。すると長屋王は、「捕らわれて殺されるぐらいなら」と、子供達に毒を飲ませ首を絞め、自らも毒をあおって自死したとある。惨たらしい最期だ。

 長屋王一家滅亡の8年後に、藤原四子がそろって滅亡したのだから、誰もが長屋王の祟りと噂しただろう。「事件は冤罪」と『続日本紀』も認めているから、長屋王の恨みは深い。

「長屋王の祟りを匂わす記事」なら、『続日本紀』にもある。長屋王滅亡の翌年のことだ。天平2年(730)6月条に、「神祇官の屋根に雷が落ち、火の手が上がった。人や動物の中に、雷で亡くなる者も出た」と記録する。

 長屋王の滅亡の翌年の落雷記事は、無視できない。古来雷は祟りと信じられていたからだ。「よもや」と、政権中枢の人びとは感じたのだろう。しかも、神を祀る役所・神祇官を直撃したのだから、人びとは驚いただろう。

『日本霊異記』にもう1つ、『続日本紀』にはない話が載っている。聖武天皇は長屋王たちの死骸を平城京の外に運ばせ、焼き、砕き、川に撒き、海に捨てた。長屋王の骨だけ、土佐国(高知県)に追いやった。

 ところが土佐の百姓が大勢亡くなってしまった。百姓たちは「長屋王の気(祟り)で、みな死に絶えてしまう」と訴えたため、聖武天皇は長屋王の骨を紀伊国(和歌山県)の小島に移した……。

 やはり、長屋王が祟っていたと、誰もが信じていたのだろう。のちに朝廷は長屋王の復権を画策し、贈位している。これは、天皇も藤原氏もみな長屋王の祟りを恐れ、疫病に震え上がったからだろう。

 病が「神の怒り」とみなす古代人を、非科学的と笑うことはできない。文明の興隆と引き替えに多くの森を失った中国で、新たなウイルスが出現し猛威を振るうのは、微生物が森での生活をあきらめて、宿主を人間に求めたからではないかと、つい想像してしまう。

 疫病は、自然界の逆襲であり、思い上がった人類に対する復讐かもしれないと、つい思ってしまうのである。

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