
誰も傷つけない○○という言い方が人気だ。だが、そのために、過剰に何かを控えるように求めることが、正義であるかのように振る舞う人たちがいる。正義とはいつも相対的で危ういものなのだが、それを主張する人たちにその危惧は訴えてもなかなか届かない。子供のクラブ活動の応援で、子供のために親に沈黙するよう求めるのは妥当なのか、ライターの森鷹久氏がレポートする。
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千葉県内にある小学校の校庭で、子供たちによるサッカーの練習試合が行われていた。小さな子供たちは、目の前に転がってきたボールを追うのが精一杯で、パスを要求したり、味方へ動きを指示するような「声」はなかなか聞こえない。とある少年のプレーにミスが出た。当然、コーチや監督の「怒声」、見に来ている父母からの激励が聞こえてくるのかと思いきや……。
「“今年は”基本的には黙って見ているだけです。そういう指導方針なので……」
と言葉少なに語るのは、ミスを犯した少年が所属するチームのコーチ。父母もコーチ同様に黙って戦況を眺めているのみにみえたが、下唇を噛み締め、居ても立っても居られないという雰囲気の男性が、筆者にそっと打ち明ける。
「今ミスしたのは息子です。本当なら何やってんだ、とか、負けるなと言いたいです。でも“今年は”言えません。声を荒げると、子供たちに心理的な圧迫があると、一部の親が言い出したんです。もちろん、体罰や口汚く罵ることは反対です。しかし、何も言うなというのは、明らかに行き過ぎというしかない」
子供たちの足音とボールを蹴る音だけが響くグラウンドを満足そうに眺めるのは、件の“提案”をしたと言う保護者数名のグループだ。中には、子供たちが試合中に「お前」と呼び合うのを禁止させるという"提案"をした母親もいて、従わなければすぐに「教育委員会に通報する」とか「懇意の議員に問題にしてもらう」と言い出すから、落ち着かないという。
繰り返すが、体罰はいけない。筆者が子供の頃は、殴られる蹴られるは当たり前、罵られるくらいならまだいい方だった。そのおかげで成長できたという自負もある。しかし今では、体罰や罵りで圧迫されても成長できてプラスになる子もいれば、逆にマイナスになる子の方が実は多かったのではと振り返り、変えていこうという声のほうが大きい。ただ、そうした情勢をはき違えたというか、極端に捉えている父兄がいることも事実だ。これでは、親の満足だけが先行し、結局子供のこと、子供を指導する人々を逆に萎縮させている可能性もある。同じような例は他にも……。「中学生の娘のバレーの試合を初めて見に行き、頑張れ、周りを見ろ、なんて声を張り上げていたんですが、とある親御さんから注意を受けたんです。子供に聞こえるように言っているから、声はそれなりに大きかったと思います。しかし、その一回だけで、私は出入り禁止にされてしまった。その時に一緒に応援していた別のお母さんも同時にです」
こう話すのは、北関東在住の農業・今田大祐さん(仮名・40代)。今田さんらを出入り禁止にしたのは、昨年までバレー部に子供が在籍しており、今も部の運営に関わるという、OGの母グループ数名だ。このうち数名が、今田さん本人だけでなく試合に出ていた娘にもイチャモンをつけていたのだというから、堪忍袋の尾も切れた。
「私が注意されるのなら、それは仕方ない。ただ娘にまで言うのはどんな了見なのでしょう。娘たちは理解してくれていますが、その母親グループが毎回来るから試合がしにくいと訴えている。先生だって同様です。しかし、何も言えないのだと。彼女たちは、子供たちのためにと言いながら、結局自分たちの気にくわないことを“子供のために”と言葉を置き換えて、無茶苦茶で好き勝手な要求をしているにすぎません」
かつて「モンスターペアレント」という言葉が流行したことを思い出す。みなが「子供のため」を思ってやっているはずなのだが、中には極端な人、明後日の方向を向いている人、そして勝手な解釈や自己都合に沿って「子供のため」を押し付けて来る人が少なからず、必ずいる。そして、その誰もが自分の「正義」を疑う余地もないのだから、話は余計にこじれてしまう。
筆者も子供を持つ親なので、子供のためと思う自らの言動が、時に「こうあってほしい」「こうすべき」と自身の希望に置き換わっているのではと思う場合が少なくない。気が付いた時には子供のためというより、自分のため、親のため、仲の良い親グループの政治のためになっている…ハッと気が付いた時に、冷静になれるのかが重要だ。
あくまでも子供と、そして先生たちの世界を外から見守り、そっと支援していくのが親の務め。子の気持ちを親が決めつけるようなことをしてよいわけがないのだ。