長年の取材経験のなかで気づいたのだけどずっと書いていなかったことがある。いまの社会の雰囲気を見て、もしかしてちょうどいいのかもしれないと思うので、書いてみる。
「批判」そのものを極端に嫌うクラスターがある。自分が批判されたのではなくても「批判は良くない」と世間をたしなめるように訴える。“いい子”タイプに多い。
以下、私の仮説。
一般論として、「批判」と「否定」は違う。でも限りなく「批判=否定」になってしまう構造がある。それが親子。
親から批判されすぎた子どもは自分自身の存在が否定されたように感じてしまう。そういう経験が多かったひとは、批判と否定の区別が曖昧になるのではないか。
それで、批判を否定だととらえてしまうから、批判を受け入れることができないのではないか。さらに、他人が批判されているのを見るだけでも、共感的に傷ついてしまうのではないか。そして批判される対象に自己を投影して、「批判はやめよう」と言いたくなってしまうのではないか。いわば批判過敏症。
でも、批判と否定は違う。
主体的に思考しているからこそ批判が生まれる。批判が生まれない社会は危険だ。みんなが思考停止しているということだから。常に批判的視点をもたないと、言われたことを遂行するだけの社会になってしまう。
「新しいことを始めるのに批判はつきもの」。当たり前。批判は研磨剤。摩擦は起こるし、やりすぎれば傷つくが、研磨しなければ意見や方法は洗練されない。
「批判だけなら誰でもできる」。それも当たり前。だから直接的な行動はできなくても、批判くらいはみんなでしなくちゃいけない。そうやって集合知をつくっていくのが民主主義なんだから。
逆にいうと、全体主義的な社会をつくりたいのならば、子どもを小さなころから批判し、“いい子”の枠にはめ込むように教育すればいい。さらに「頑張っているひとを批判するな。文句を言うなら自ら動きなさい」言って教育すればいい。そうすれば既存のシステムを批判をするひとがいなくなる。
「文句を言うなら誰でもできる」「批評家になるな」というのはこの社会に昔から広まっている言い方だが、これは戦前の全体主義的思考の名残ではないか。これは実は強者の理論である。これを認めてしまうと、当事者しかものを言えない社会になる。それはつまりすでに実行力をもつ既得権者に有利な社会だ。
ファシズムの初期症状として、「口ばっかり」などと知識層や学問に対する蔑視が起こる。いまの社会はひょっとしてこのへんじゃないかな。
それがさらに進むと、批評家、思想家、芸術家、作家などが弾圧される。彼らは批判のプロだから(批判されるプロでもあるけれど)。批判することで社会のバランスを保つのが彼らの社会的役割だから。社会として彼らを抹殺すると全体主義社会が完成する。
批判することも、されることも、悪いことだと思わなくていい。そんなにビクビクしなくていい。批判は社会を磨き上げる研磨剤だから。
「これじゃダメだ!」という言い方ではなくて、「もっとこうしたほうがいいよね」と言い換えたほうが建設的だという意見もあるだろう。その通りだと思う。そうすればたしかに批判的に聞こえない。直接的に当事者に伝えるときには特に意識すべきである。
一方で、自分を含む社会の問題点をみんなに示すために指摘するときには、まあ批判的な言い方でもいいのではないかと個人的には思う。指摘を明確にするために。この場合、受け取り手側が、「ちょっと厳しい言い方かもしれないけれど、誰かを否定することを目的にしているわけではない」と、脳内で補足・変換すればいい。
批判をネガティブなものだととらえるから、批判が起こるとますます社会がギスギスする。でも批判を歓迎すべきものだととらえれば、たくさん批判が出てきても社会の雰囲気は悪くならないはず。もちろん批判に乗じて相手を傷つけることを目的にした悪口や否定は慎むべきだが。
変化や危機に強い社会にするためには、“批判をしない社会”じゃなくて、”批判を歓迎し、当たり前のこととして受け入れる社会”を目指すべきだと思う。