林信吾(作家・ジャーナリスト)
【まとめ】
・英国王ジョージ6世による昭和天皇の助命嘆願。
・日本国憲法の天皇条項には退位の規定無し。
・時代と共に変わる王室/皇室の価値観。
前回、超ダイジェスト版ながら「王冠を捨てた恋」の顛末を語らせていただいた。
これが我が国の皇室にも大いなる影響及ぼした、と述べたが、具体的にどのようなことか、今回はまず、その話から。
1945(昭和20)年8月15日、大日本帝国は、連合国が無条件降伏を促したポツダム宣言を受諾し、アジア太平洋戦争における敗戦国となった。
これにともない、国家元首にして大元帥=陸海軍の最高司令官であった昭和天皇の処遇が問題となったが、当初、戦勝国の国内世論は、処刑を求める声が優勢であった。
しかし、時の英国王ジョージ6世は、オランダやノルウェーなどの王室とともに、GHQ(ジェネラル・ヘッドクォーター=占領軍総司令部)に対し、昭和天皇の助命嘆願を行ったのである。このジョージ6世は、不倫騒動、もとい「王冠を捨てた恋」によって退位しウィンザー公となったエドワード8世の弟で、現女王エリザベス2世の父である。
彼には、軽度ながら言語障害があったため、国王の任に堪え得るのか、と不安視する向きもあったようだが、ライオネル・ローグというオーストラリア人の元俳優からカウンセリングとトレーニングを受けた結果、ナチス・ドイツに対する宣戦布告のラジオ演説を見事にこなした。この話は『英国王のスピーチ』という映画によく描かれている。エドワード8世とシンプソン夫人も登場するが、とても好意的とは言えない描かれ方で、今もって英国人はあの2人を許していないのか、などと考えさせられた。
話を戻して、ジョージ6世は、ナチス・ドイツ軍によるロンドン空襲が激化した歳、カナダへの疎開を進言した側近を、
「国王が逃げ出せると思うか」
と一喝するなど、戦時の国王としての役割を立派に果たした。そして戦後処理においても、勝者は敗者に寛大であるべきだ、という「戦場にもスポーツマンシップあり」の精神を具現して、前述のように昭和天皇の処刑を思いとどまるよう、GHQに求めたのだ。
当時、戦勝国の中でも「ヒロヒト処刑」を求める世論がもっとも声高だった国が英国であった。香港、シンガポールという東洋の拠点を相次いで攻略され、その名も「プリンス・オブ・ウェールズ」と名付けられた新鋭戦艦を撃沈され、一連の戦闘の過程で捕虜となった英軍将兵の多くが、強制労働など旧日本軍によって虐待されたからで、それを思えば、ジョージ6世のこの判断は、なかなか重いと言える。
結局、様々な理由で処刑はもとより戦犯としての訴追も見送られたが、せめて退位させるべきではないか、との議論はその後もくすぶっていた。ところがGHQにとっては、これもこれで難題だったのである。
占領軍の中核は米軍で、法務幕僚たちは皆、米国の大学で法律を学んでいる。中には法学博士もいて、よく知られる通り、彼らが日本国憲法の草案を書くことになるのだが、そもそも王者の退位とはどのような手続きで行われ、法理論上どのように理解すればよいのか、彼らアメリカン・デモクラシーの徒には、まったくもって未知の領域であったのである。
そこで、上流階級出身者が多い英軍の将校を呼んで「王冠を捨てた恋」についてのヒヤリングを行ったが、結局よく分からなかったようだ。
平成から令和への移行が進む時期、私は日本国憲法の天皇条項に退位の規定がないことを指摘し、野党時代に「天皇を元首とする」改憲案を取りまとめたこともある安倍首相が、この議論を曖昧にしたまま改元の祝賀ムードに乗っかるようなら(結果はご承知の通りだが)、この先、声高に憲法改正を唱え続ける資格はない、と述べた。
もとをただせばこういう事だった、となれば、私がどのような問題提起を行ったのか、あらためてご理解いただけたのではあるまいか。