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韓国で「嫌日本」を見つけたジャーナリストが気づいた間違い

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街の書店に行くと、韓国への憎悪や差別を煽る「嫌韓本」が置いてある。「書店に行くのがつらい」と語る常連客もいる。嫌韓本はこれからも増え続けるのか。ジャーナリストの石橋毅史氏は「『嫌韓本の対を探す』という発想が間違っていた」という――。

※本稿は、石橋毅史「本屋な日々75 憎悪を探して」(発行:共同DM「今月でた本・来月でる本」、編集:トランスビュー)の文章を加筆・再編集したものです。

■意外と“謙虚”な韓国ヘイト本

日本に戻ると、買ってきた『六本木 キム教授』を東京に住む韓国人の知人に渡した。ソウルではその場で拾い読みをしてもらっただけなので、もっと詳しく知ることにしたのだ。

『六本木 キム教授』の書影

『六本木 キム教授』の書影

2日後に連絡をくれた知人は、判断の難しいところだが、ヘイト本とはいえないのでは、と印象を語った。

予想できない反応ではなかった。ヘイト本は「外交政策などを批判する範疇を逸脱し、民族そのものを貶めるような本。それを煽動する本」と定義される。だが、この定義だと、ヘイト本か否かの判断が読む人によって異なる本も出てくるのである。

東京/中日新聞でアジアの本屋についての連載をはじめた頃から、ヘイト本とされる書籍に少しずつ目を通すようになった。この韓国行きの前後にも、嫌韓をアピールする雑誌や書籍を何冊か読んだ。

それらの本は、思ったより“謙虚”だった。自身の主張や表現を前に出すよりも、読者の需要に応えることに徹しているように読めた。韓国は間違っている、韓国人は嫌いだ、そう思う人たちを腑に落ちた気分にさせる「商品」としての完成度を競う世界にみえた。

■ヘイト本と反ヘイト本が「同じ角度」から批判を展開

けっしてカンタンな仕事ではないと思う。たとえば、『マンガ大嫌韓流』(晋遊舎、2015年)の主な登場人物のひとりで、韓国の「反日プロパガンダ」に対抗して「嫌韓プロパガンダ」を打ちだすことにしたというサークルのリーダーは、見るからに正しい人ではなく、狂気を孕んだカルト教団の教祖のように描かれている。そのうえ、あくまでも日韓友好を目指したいという結論に至る主人公の考えを肯定するなど、わりと複雑なキャラクターなのだ。悩み多き若い世代がリアリティを感じられるように工夫していることがうかがえる。

石橋毅史「本屋な日々75 憎悪を探して」(発行:共同DM「今月でた本・来月でる本」、編集:トランスビュー)

石橋毅史「本屋な日々75 憎悪を探して」(発行:共同DM「今月でた本・来月でる本」、編集:トランスビュー)

ヘイト本と反ヘイト本が、同じ角度から対象を批判しているケースもある。

『さらば、ヘイト本』(ころから、2015年)の大泉実成の寄稿のなかに、「影(シャドウ)」というユング心理学の用語を用いてヘイトスピーチにはしる人を分析する場面がある。排外主義的な発想に陥る人は、うまく言葉にできないが気に入らない相手に対してとんでもない理屈で攻撃してしまう。それは自分の心に潜むものの「投影」なのだが、本人はなかなか気づくことができないのだという。

同じ用語で韓国人の反日感情を解説しているのが、『韓国人による恥韓論』(シンシアリー、扶桑社、2014年)である。著者は、韓国人こそが「影」を抱えていて、日本を非難することは自身の心の投影だというのだ。

煽動するというよりはクールなトーンで書かれている『恥韓論』は、はたしてヘイト本なのか。自信をもって判断するには、歴史をはじめ多方面の豊富な知識が必要になりそうだ。

■友人は「長く読み継がれることはない」と語る

もっとも、知識の乏しいうちは引き下がるしかないのかといえば、そうでもない。

平積みされていた『六本木 キム教授』

平積みされていた『六本木 キム教授』 - 撮影=石橋毅史

その本が対象への「憎悪」や「蔑み」で書かれているか、「敬意」や「相互理解への希望」を前提にして書かれているかを判断することは、さほど難しくない。ヘイト本の場合、「憎悪」や「蔑み」は本のタイトルや目次に表れている。なぜなら、そういう言葉を求める人びとに向けて刊行された商品であるからだ。

それでも……真に理解しようとすれば、やはり自分で読んでみるしかない。

では、『六本木 キム教授』は?

通読した知人は、たしかに著者は日本や日本人を非難しているが、その多くは実体験をもとにした怒りや不満であり、あくまで個人的意見の表明というニュアンスも残されていると思う、と話した。そして、ただし話が浅い、と付け加えた。「日本のことをよく知らないけど嫌い、という韓国人は読んですっきりするかもしれないが、仮りに一時的に売れることがあっても、長く読み継がれることはないだろう」

■ヘイトの前段階にある「過剰な一般化」

幾つかの頁を口頭で訳してもらう。そして、もはや無意味なことだと思う。著者の目的が憎悪の煽動なのか、語らずにいられない切実さがあるのかは、自ら読み、行間に滲むものを感じとり、僕自身の責任で判断すべきなのだ。ハングルを学ばない限り、僕にこの本を論じる資格はない。

『六本木 キム教授』と同種の本は、過去にもあった。

『イルボヌン オプタ(日本はない)』という原題で1990年代に刊行された本だ。これは『悲しい日本人』(たま出版、1994年)の邦題で翻訳されている。

本書の著者も、日本での生活体験をもとに日本人と日本社会への怒りを綴っている。日本人は「日帝」時代と正面から向き合う教育を受けていない、人の心を賠償金で買えると考えている、挙句、あの頃の日本は良いこともした、過去にこだわる韓国のほうが悪いと主張する評論家まで増えてきた……まるで現在の日韓関係を語っているかのような批判が続く。日本人を十把一絡げにして語る場面も多いが、嫌日本ではあっても、ヘイト本とはいえない気がする。

ヘイトの前段階として「過剰な一般化」がある、と教えてくれた人もいた。もとは「over generalization」という英語圏の言葉で、論理展開において陥りがちな過ちのひとつとされる。『悲しい日本人』は、この段階にはあるといえるかもしれない。

■「嫌韓本の対を探す」という発想が間違っていた

そして、こう考えるようになった―― 嫌韓本と対になる嫌日本(けんにちぼん)を探す、という今回のソウル行きは、発想のスタート地点から間違っていたのではないか?

両者を並列して比較することに違和感がある。そもそも、それぞれの感情の生まれた背景が違うからだ。

そう考えさせてくれたのは、『禁じられた郷愁――小林勝の戦後文学と朝鮮』(原佑介、新幹社)である。1971年に43歳で逝去した作家・小林勝の作品を丹念に読み解き、いまの日本に伝えるべきものとして紹介した評伝だ。2019年3月に刊行されている。

小林勝は1927(昭和2)年、日本の植民地であった朝鮮の慶尚南道に生まれ、15歳のとき日本へ帰国。戦後の20代半ばから小説家として活躍した。

彼の作品は、生地である朝鮮を舞台にしたものばかりだった。故郷を懐かしむような話は皆無で、自分が暮らした当時の「植民者である日本人」と「被植民者である朝鮮人」の関係を、息苦しいほど厳しい姿勢で描きつづけた。

戦争を生涯のテーマにした作家、植民地からの引揚げ者としての寄る辺なさを語った作家は多いが、植民者としての贖罪意識をもとに書きつづけた作家は小林しかいないという。当時の朝鮮へ移住したのは両親であり、彼はそこで生まれ、育ったに過ぎないのだが、だから日韓の歴史に自身の責任はないという態度を、この作家はけっしてとらなかった。

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