プロ野球南海(現ソフトバンク)で、戦後初の三冠王に輝き、監督としてはヤクルトを3度日本一に導くなど、4球団で歴代5位の1565勝をあげた、野村克也さん(84)が、昨日11日午前、虚血性心不全のため、亡くなりました。葬儀・告別式は、近親者で行い、後日お別れの会を開く予定、ということです。
私は、野球が好きで、野村さんは、選手としても、監督としても、優れた方だったと思います。議員をしていた時に、異業種の交流会で講演を聞き、ID野球で知られていますが、ほんとうに頭がよく、日々努力されている方で、ユーモアもある、と感じたことを思い出します。
野村さんは、テスト生として南海に入団し、3年目に定位置を獲得して、捕手なのに強打者で、1965年に戦後初の三冠王に輝きました。通算3017試合出場、2901安打、657本塁打、1988打点は歴代2位。8年連続を含む本塁打王9度、打点王7度、MVP5度など、選手として数々のタイトルを獲得して、ベストナインに19度選ばれています。これだけの選手は、なかなか出てこないと思います。
名選手は名監督になれない、と言われますが、野村さんは、監督としても優れていました。1990年にヤクルトの監督になり、データを重視し考えさせる「ID野球」で、古田捕手などを育て、4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成しました。その後、阪神の監督をし、その間は最下位でしたが、リーグ優勝の土台を作ったと言われています。2006年から球団創設2年目の楽天で4シーズン指揮をとり、2009年には2位でクライマックスシリーズに進出しました。監督としての勝利数は歴代5位、とのこと。
ID野球のほか、選手「再生工場」ともいわれ、ヤクルトで小早川、吉井などを、また楽天では山崎などを、再生させました。教え子のヤンキース田中将大投手は、「プロ1年目で野村監督と出会い、ご指導いただいたことは、僕の野球人生における最大の幸運の一つです。」と語っています。
また、メディアも大事にし、試合後の発言、ボヤキでも注目されました。田中投手のことを「マー君、神の子、不思議な子、いくら(点を)取られても(味方が)取り返す。不思議な子だね。」と語ったのは、有名な話です。1975年に巨人の王貞治に次ぐ史上2人目の通算600本塁打を達成した試合後、絶大な人気を誇った巨人の長嶋、王の「ON」を日の当たる「ヒマワリ」に例え、自らをひっそりと咲く「月見草」と呼んだことは、よく知られていて、代名詞ともなっていました。
長嶋氏は、3週間前に「金田さんのお別れ会」で顔を合わせたときに、野村さんに「おい、頑張っているか。オレはまだ生きているぞ。まだまだ頑張るぞ」と言われたことが忘れられないと語っています。「ノムさんが残した偉大な功績と野球への底知れぬ愛は、これからも永遠に生き続けるはずだ」とも。
2017年に、おしどり夫婦だった沙知代夫人を亡くしてから元気がなかったということで、天国で仲良くされていることと思います。野球に残された功績は、その温厚で、魅力的な人柄とともに、語り継がれることと思います。心から、ご冥福をお祈りします。 投手は、