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倒産の危機にあったスバルを救った「レガシィ」の奇跡

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スバル(SUBARU)は看板車「レガシィ」の発売当時、巨額の投資をつぎ込んだことから赤字が膨れ上がり、創業以来の危機を迎えていた。だがその後、売り上げを4年間で800億円増やし、V字回復に成功する。スバルにいったい何が起きたのか――。

※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。


提供=SUBARU

■次期社長に就任したのは日産OBだった

創業以来の赤字に震えたのは社内だけではなかった。

「貸した金はどうなるのか」ともっとも心配したのが興銀だった。自分のところから出した社長の田島が赤字にした以上、次は大株主の日産から人材を引っ張ってこなければならない。当時、富士重工の経営トップに生え抜きの人間はありえなかった。基本は興銀、それがダメだったら、提携先で大株主の日産出身者と決まっていた。

当時、興銀の頭取、中村金夫が動いた。

「こうなったら、日産から川合さんをもらってくるしかない」

中村は日産ディーゼル工業の社長だった川合勇のもとを訪れ「富士重工の社長になってくれ」と懇請したのである。当時、川合はすでに六八歳で、日産ディーゼルを退いたら、あとは隠居するつもりだった。

東大を出て日産に入社した川合は生産技術一筋で、追浜、栃木、九州、イギリスの工場建設に携わった。エンジニアとしてスタートしたのだが、途中からは日産の営業担当役員や経理担当もやった。生産現場のエキスパートで、しかも、営業と数字に強いというスーパーマンのような男だったのである。

実際、日産時代、上にいたワンマン社長の石原俊(たかし)は川合と久米豊のふたりを後継者として考えていたのだが、最終的に、石原は久米を選んだ。そのため八五年、日産自動車の専務から業績が悪化していたトラック会社、日産ディーゼルに出されたのである。しかし、川合は奮い立った。わずかな期間で同社を立て直し、黒字会社に変えた。興銀の中村は川合の手腕を噂に聞いていて、「再建屋」としての川合に富士重工を託したのである。

■「“中島飛行機”に残った技術者はまさにスバルの原点だ」

川合が社長に就任した理由としては、興銀の頭取に頭を下げられたこともある。だが、彼自身も富士重工の前身、中島飛行機に思い入れがあった。それは学生時代の体験である。東京帝大航工学部空学科在学中に学徒動員された彼は後にプリンス自動車となる中島飛行機荻窪工場で飛行機エンジンの開発に携わり、戦後もそこで働いたことがあった。


提供=SUBARU

川合は経済誌のインタビューでこう語っている。

「苦境にあって航空技術者たちの大半は離散してしまった。焼け野原のなかで毎日食べるのに精一杯で、自分の夢にこだわり続けられるような状況ではなかったんだね。僕は終戦翌年に日産に入ったんだけど、巨大企業集団の、それも民生分野に近い企業でさえ明日のこともわからないくらいだったしね。でも、その中であえて(中島飛行機系企業に)とどまった技術者たちがいた。まさにスバルの原点です」

中島飛行機の技術者を尊敬していたこともあり、川合は社長就任を了承する。田島は会長で残ったものの、実際に経営を指揮するのは川合と決まった。

続いて、こうも語っている。

「中島飛行機の技術者たちが戦後、ひどい状況にあっても耐え抜くことができたのは、技術力への自負があったからだと思う。戦争中に『誉(ほまれ)』エンジンを作っていたとき、当時のエース級の技術者は言っていましたよ。『航空工学はもう欧米をキャッチアップしている。日本に足りなかったのは高分子化学や精密な加工ができる工作機械、電気工学など、裾野の分野だ。この戦争ではアメリカの凄さを見せつけられているが、自分たちだってやれないことはないんだ』」

川合は不思議な因縁を感じていたのだろうし、戦後の焼け野原から立ち直った富士重工を苦境のままにしておくことは忍びなかったのだろう。

■徹底したのは「入るを量り出ずるを制す」

社長になってから彼はすぐ、社内に檄を飛ばした。

管理職以上を新宿スバルビルに近いホテルセンチュリーハイアットに集め、厳しい顔で現実を直視せよと机を叩いて言った。

「すべての判断基準は現状認識にある。富士重工がどういう状態にあるのか。ひとりひとりが何が事実で問題なのかを認識し合うところから適切な解決策が生まれます。表面だけを見ても、事実はつかめない。すべての面で現状認識の姿勢が必要だ」

川合の言う現状認識とは自動車製造の基本を徹底することだった。

「いい品をなるべく安く作る」

そのためには原価の管理と原価の低減が必要だ。彼は現場を歩き、原価管理を怠っていた管理職を大声で叱責した。

川合を尊敬する生え抜き社員は次のように思い出す。

「川合さんは偉かった。人員整理はしなかった。資産の売却もしなかった。その代わり、徹底的に『入るを量り出ずるを制す』政策を取った。じつは、うちの会社は技術優先だったこともあり、現場の原価をわかる人間が幹部にいなかった。原価低減というと、協力会社に電話をかけて『安くしろ』と値段を叩くだけだった。部品原価は安くなるのですが、製品の質は落ちる。川合さんは図面にある部品が適格かどうか、その値段がまっとうかどうかまでひと目でわかる経営者でした」

■幹部には「辞表を書け」でも作業者には礼を尽くす

川合が導入したのがVA、つまり、バリューアナリシスのシステムだった。品質を落とさずに原価を低減し、それを管理するシステムである。メーカーであれば、自動車会社ならば、当然、あるべきシステムなのだが、富士重工は前身の中島飛行機以来、新車開発には惜しみなく金をつぎ込む体質だったため、いつの間にか開発費用が増えてしまっていた。それを川合は怒った。

同じく富士重工のエンジニアは言う。

「川合さんは社長室に閉じこもるのではなく、会社やディーラーなど、あらゆる場所に姿を見せて陣頭指揮を取るタイプの社長でした。何しろ、現場からの叩き上げみたいな人だから、ひとりで工場に出かけていって質問する。テストコースに来て試作車にも乗る。そして技術者に『スイッチ類の隙間がこんなに広かったら、女性はどうする? 爪が割れてしまうじゃないか』と指摘して怒る。

富士重工のエンジニアは、いい車を作ることは考えていたけれど、ユーザーが欲しいものは何か、何を喜ぶかということについては無頓着でした。それを徹底的に叩き直されました」

また、ある幹部は「あの人でうちの会社は変わった」と言っている。

「現場のことをわかっていない幹部や管理職はバカ呼ばわりですよ。そのうえ『こんなことをやっていたから赤字になったんだ』と怒鳴られ、『この場で辞表を書け』ですよ。役員会でも一度、ありました。辞表を書け、と怒鳴って、そのまま会議室を出て行っちゃいました。あとで会長の田島さんが連れ戻しましたけれどね。でも、それほど猛烈で怖い人だったのに、現場の作業者や販売店の人には礼を尽くして、腰が低い。とても人気がある人でした。ディーラーのセールスマンを売る気にさせるのが上手でした」

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