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犠牲者の報道は実名匿名の二者択一か――京アニ事件の取材経験から - 広瀬一隆 / 新聞記者

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2019年7月18日、京都市伏見区にあるアニメ製作会社「京都アニメーション」(京アニ)の第1スタジオが放火され36人が死亡、33人が重軽傷という未曾有の事件が発生した。平成以降最悪の犠牲者数の放火事件であり、世界的に著名なアニメ製作会社が標的とされたため社会的に大きな注目を集めた。

そして同時に、マスコミの取材姿勢に対する大きな批判が巻き起こった。犠牲者を実名で報じてよいのか、惨劇から間もない時期に遺族に話を聞こうとすることは許されるのか――。これまでも時として議論の俎上に載ってきたテーマが、世間の強い関心を惹きつけた。私自身、地元紙の記者として京アニ事件を取材しながら、犠牲者について報道する意味を考えさせられた。

事件発生から半年たった今、私は少なくとも「犠牲者を実名と匿名のいずれで伝えるべきか」といった二者択一の議論に限界を感じている。実名でも匿名でも、報道の仕方はさまざまある。それぞれの遺族によっても思いは多様だ。そうした状況を踏まえれば、実名か匿名か、という単純な二者択一で犠牲者を巡る報道を捉えることはできない。

私は、従来のような犠牲者の実名報道を至上命題に据えた報道はあらためるべきだと考えているが同時に、いたずらに匿名報道に切り替えることの危険性も感じている。

ではどうするべきなのか。

本稿では私自身が京アニ事件を取材した経験を基に、これまで考えてきたことをお示ししたい。

※なお本稿で展開する議論は、私個人の考えであり、所属する京都新聞社を代表するものではありません。

平成以降最悪の犠牲者数を出した京都アニメーション放火殺人事件の現場=京都市伏見区(2019年8月18日、京都新聞社撮影)

犠牲者35人が実名で報じられた紙面

「京アニ犠牲 全35人判明」と横向きに大きな見だしが掲げられ、その横には犠牲者35人の名前が並んでいる--。

8月28日付けの京都新聞の朝刊1面である。京都府警が前日、京アニ事件で亡くなった25人の実名を公表したことを受けたものだった。それまでに発表されていた10人と合わせて、35人分の名前を掲載した。32ページのうち7ページが京アニ事件関連の記事で埋まった。※

京都新聞のほか読売や朝日、毎日、産経の各紙のこの日の紙面も、京アニ事件の35人の犠牲者について大きく報じていた。

各紙に載った記事は、大きく2つのテーマに分けられる。亡くなった犠牲者の名前だけを載せた一覧と、犠牲者の人柄を伝える記事である。

犠牲者を巡る報道の意義を考えるにあたって、この2種類の記事について考えることから始めたい。実名か匿名か、といった二者択一では捉えきれない犠牲者を巡る報道の側面を見られると思うからだ。

※2019年10月には36人目が亡くなった。

実名報道の必要性とは

まず私が実名で報道する必要があると考えるタイプの記事について述べたい。「いつものように実名報道至上主義のメディアの論理か」と思う向きもあるかもしれないが、私としては実名で報じなければならない記事は限定的だと考えている。

私の考える実名で報じなければならない記事のタイプとは、「犠牲者の名前だけを載せる記事」である。写真にあるような一覧表は、京都新聞を含めた各紙で1面に載っていた(今回は記事の性質上、犠牲者の名前が分からないような形で紙面を撮影した)。

2019年8月28日付けの京都新聞朝刊に掲載した犠牲者の一覧

私は、「純粋に犠牲者の名前のみを報じる」という記事だけは必要という立場をとる。なぜか。安否を速やかに伝えるというもっとも基本的な意味に加えて、さらに2点、犠牲者の名前だけを伝えることが重要と言える理由を挙げたい。

第一に、不正確な情報が流布することを防ぐという点である。

京アニ事件では事件当初、犠牲者の名前が明らかになっていないため、さまざまな臆測がインターネット上で飛び交った。しかしインターネット上で臆測が広がることは、時に人の心を傷つけることがある。

2019年8月に茨城県の常磐自動車道で起きたあおり運転殴打事件では、容疑者とは無関係な女性が、「同乗者の女」だという誤った情報をインターネット上で拡散される被害を受けた。これは無関係な人が加害者側に間違われたケースである。

一方で今回の京アニ事件では、たとえば生存している方が犠牲になったという誤った情報が広がったわけではなく、大きな被害は生じなかったかもしれない。

しかし大きな被害がなかったのは偶然だった、とみることもできる。誰かに被害が生じてからでは遅い。できるだけ早い時期から、犠牲者の実名という正確な情報を伝える必要がある。

次に、歴史的な検証に資するという点がある。

数十年たって、京アニ事件を調べようと思った時のために、事件に関する事実はできる限り残しておくことが求められるのではないだろうか。

こちらも、必ず将来に誰かが京アニ事件を調べようとする、と言えるわけではない。ただ、現在を生きている私たちからは見えていない意味が、数十年たてば分かるようになるかもしれない。

1995年に東京都で起きた地下鉄サリン事件や1997年に神戸市であった連続児童殺傷事件など、被害に遭った方を通じて現在も私たちに教訓を与え続ける事件はある。

これらの理由を踏まえ、私は何らかの形で犠牲者の実名は報じなければならないと考える。

遺族が犠牲者の実名報道を拒絶していても報じるのか?

そう問われる方がいると思う。その問いへの私の答えは、たいへん心苦しいことではあるが、「報じる必要がある」ということになる。

ただし、たとえば新聞の1面のような目立つ場所に掲載する必要はない。本当に知りたい人だけが、確認できるようにすればよいと思う。たとえばインターネット用の記事では掲載せず、紙媒体でも、ページをめくった内側に記事を載せるなどさまざまな配慮をすることは可能である。

それでも、惨劇で家族が亡くなった事実を社会に知られること自体に大きな苦痛を感じる遺族もいるだろう。自身も交通事故で娘を失い、さまざまな事故遺族と交流のある男性は、実名で報じられることそのものに痛みを覚える遺族がいることを私に教えてくれた。

そうした遺族からの批判は、甘んじて受けなければならない。

匿名報道という選択肢

私が実名報道のあり方において改める必要があると感じるのは、「犠牲者の人柄を伝える記事」についてだ。新聞紙面で言えば、社会面に載るような物語的要素を重視して感情に訴える記事のことである。

私を含めた京都新聞社の京アニ事件取材班でもっとも力を入れた一つが、こうした記事だった。犠牲者がどのような人だったのか、ということを周辺取材から明らかにしてスト-リーの形で多くの記事にした。ほかの報道機関も同様だったと思われる。

そして京都新聞の場合、こうした犠牲者の人柄を伝える記事にはすべて、犠牲者の名前を掲載した。8月28日の紙面でも、京アニ関連の記事が載った7ページのうち、1面を含む5ページに犠牲者の人となりを伝える記事があった。特に亡くなった石田敦志さんの父親が開いた会見の様子は、1面と社会面にわたって詳細に報じた。

「息子は35分の1ではない。私たち残った者にできることは多くの人に記憶していただくこと。石田敦志というアニメーターが京アニに確かにいたことを、どうか、忘れないでください」

そう訴える父親の言葉が社会面には載っている。私は会見場にはいなかったが、取材に赴いた記者たちが口々に、父親の言動に心を打たれたと語っていたことを覚えている。

京都新聞以外の各紙でも、父親の会見は詳しく報じられている。

亡くなった息子の名前は、遺族にとってとても大切なものなのだと思う。だからこそ、実名で報じるよう求められた時には、記者として全力で応える必要がある。

一方、京都新聞では、石田敦志さんの父親の話だけでなく、見開きを目いっぱい使って35人の犠牲者の名前とそれぞれが手がけたイラストや顔写真を並べる記事も出した。私が犠牲者の実名を報じる難しさを感じるのはこうした記事である。

確かに、この記事をあらためて読み返しても、それぞれが仕事に打ち込み、作品を作り上げてきたことが伝わってくる内容となっている。

しかし名前が載っている犠牲者の中には、遺族が実名での報道を拒絶していると京都府警が伝えてきた方も多くいた。

こういう紙面を作ってよかったのか。ずっと考えてきた。

同僚記者が後日、実名報道拒絶の意向が伝えられていた遺族宅を訪れると、犠牲者の人柄を報じた紙面をたいへん喜んでもらえたという。このことから、ある犠牲者1人の遺族の中でも、意見が異なるケースがあることが推測される。

一方で、私たち取材班が話を聞けていない遺族の中には、この紙面に苦々しい思いを抱く方がいるかもしれない。それぞれの遺族の背景には容易には推し量れない思いがあるはずである。

複雑で多様な遺族の心情を前にして、どのような犠牲者に関する報道が望ましいのか。

はっきりした正解はないのかもしれないが、現状では私は、犠牲者の人となりを伝える物語性の強い記事を書くときには、遺族の了承を得られない限りは原則として匿名で記事化した方がよいと考えている。

匿名であっても、どのような人が亡くなられたのか、どれほど理不尽な命の奪われ方だったのか、を伝えることはできる。そうであるならば実名報道によって遺族の心情を害することをできるだけ防ぐのが重要である。

ある犠牲者1人の遺族の中で意見が異なる場合はどうするのか。たとえば犠牲者の父親は実名を望むが、母親は匿名を求めることなどが想定される。一概に基準を設けることはできないが、犠牲者の人柄を伝える記事であるならば、遺族の中に匿名を望む人がいる限り、報道機関として実名にこだわらなくてよいのではないか。

確かに、実名を報じることは、社会にたった1人しかいなかった犠牲者の重みを表現することにつながる。写真も加われば、なおさら犠牲者の存在の迫真性は高まるだろう。

だが多くの読者にとって、犠牲者への関心は事件を通じて生じたものと思われる。匿名を望む遺族の意向に反してまで実名報道による迫真性を追求するべきとは言えないのではないか。

「事実を伝える時に基本情報として固有の名前は不可欠。遺族の意向とは無関係である」として、実名報道を推進する立場もあるだろう。多くの報道関係者はこれを正論と感じるかもしれない。

しかし遺族の気持ちを傷つける可能性がある以上、正論を重んじるよりも、遺族の抱く心情を繊細に察することのほうが大切ではないか。時間がたって遺族の了解が得られてから実名で記事を書いても意義は損なわれないはずである。

別の角度からの反論もあるだろう。「遺族から了承を得られない限り、匿名であっても記事化してはならない」というものだ。

だが犠牲者を大切に思うのは、遺族だけとは限らない。友人や同僚、学生時代の恩師などさまざまな関係を持った人々にとってもかけがえのない存在だったはずである。

私も京アニ事件の取材の中で、犠牲者の友人らに話を聞き、それぞれが大切に持っている犠牲者との思い出を預かった。犠牲者を思うそうした人々の声を、何らかの形で記事にすることも重要だろう。

遺族の思いと、そのほかの犠牲者と親しい関係者の気持ちの間で折り合いをつけるために、私としては、遺族の了解が得られない場合は匿名という形で記事化する方法をとるべきと思っている。

ここまで述べてきた犠牲者の報道に対する私の考えを整理すると次のようになる。

1.犠牲者の実名は、何らかの形で伝える必要はある。しかしその伝え方は、目立たない紙面に記事を掲載するなどの工夫が求められる。

2.犠牲者の人柄を伝える物語性の強い記事では、遺族の拒絶がない場合に限って実名で報じる。遺族が拒絶している中でも、そのほかの周辺関係者から話を聞けた場合は、犠牲者を匿名で報じる。

遺族の意向と報道の役割は時に一致しない。そのなかでどのような報道が許されるのか、というのは非常に難しい問題だ。現状では私は以上のような立場をとるが、より適した方法がないのか、検討を重ねたい。

実名報道の是非を巡り、インターネットを中心に激しい議論が起こった=コラージュ(2019年8月28日付け京都新聞朝刊掲載)

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