記事

なぜ、「安全保障をみるプリズム」が必要なのか――「安保の呪縛」からの脱却をめざして - 藤重博美/安全保障研究・平和構築研究

1/2

“Security”と「安全保障」

安全保障――。この言葉は、あなたに何を想起させ、どのような感情を抱かせるだろうか。

「安全保障」という言葉は、戦後日本の政治と言論界をざわつかせ、物議を醸し出してきた。もちろん、元から日本語としてあった言葉ではなく、英語の“Security”の訳語である(注1)。 “Security”のもっとも根源的な意味は「恐怖や不安から逃れること」(Merriam-Webster Online-ed.)。

だが、実際に意味するところは幅広い。特に日本語の場合、人間が生きていくうえで直面する様々な恐怖や不安、また、これらから逃れるために必要となるニーズを事細かに反映し、「社会保障」、「警備」、「治安」、「担保」、「証券」など、様々に訳出されてきた。しかし、「安全保障」と訳された場合、その意味は、以下の定義に近づく。

「国外からの攻撃や侵略に対して国家の安全を保障すること。また、その体制」(デジタル大辞泉)

つまり、原語の“Security”がきわめて多義的であるのに対し、日本語としての「安全保障」は、本質的に軍事や国防と密接的に関連づけてこられたのだといえよう。

日本における「安全保障」と「安保」

「安全保障」という言葉は、いつから日本語として広く使われるようになったのか。

この言葉が、ある程度、一般的になった直接的な契機は、1951年に締結された「日米安全保障条約(US-Japan Security Treaty)」だと思われる(注2)。敗戦の傷も癒えぬうちに冷戦の荒波へと投げ込まれた日本は、この条約によって西側陣営の一端に固く結び付けられた。だが、当初の条約には、日本国内で内乱が発生した際、米軍による介入を規定した「内乱条項」など、日本側に不利な内容が含まれていたため、1960年に改正されることになる。

しかし、これは社会の猛反発を招き、巨大な反対運動のうねりを生み出した。条約改正を主導した岸信介首相の不人気に加え、1958年の第二次台湾海峡の余波を受け、当時、「米国の戦争に巻き込まれる不安」が高まっていためである。その結果、「革命前夜」とも形容されたほどの深刻な政治的・社会的混乱を引き起こす事態に陥った。いわゆる「安保闘争」である。

こうした経緯から、日本の政治と言論界では、「安全保障」というよりは、「安保」の方が馴染みのある言葉となり、しかも、そこには安保闘争のざらりとした記憶がまとわりつくこととなった。

「安保の呪縛」

“Security” が、「安全保障」ではなく「安保」として定着したことは、誠に不幸なことだった。

安保闘争後、日本の政治は、自民党の一党優位体制(1955年体制)に収斂していったが、「安全保障」を論じること自体、事実上の禁忌と化す。当時、まだ少なからず力を残していた左派勢力は、反「安保」を掲げ続けることによって巻き返しを図り、他方、再び混乱を引き起こすことを嫌った自民党側は「安保」批判には真っ向から取り合わず、むしろ沈黙を選んだのであった。

「安保闘争」以降のこうした構造は、「安全保障」についての思考停止を生み出し、それは1955年体制の終焉後も続くことになる。その結果、日本の安全保障に関する議論の多くは、「安保」――日米同盟とそれに関わる自衛隊の役割に批判的な左派の反対論、他方、これをなんとかやり過ごそうとする保守陣営の事なかれ主義という構造に矮小化され、そもそも「安全保障とはなにか」という本質的な議論が行われることはほとんどなかった。「安保の呪縛」といってよい。

国際レベルでの新潮流――多様な安全保障観の開花

安全保障を軍事的な国防と密接に関連づけてきたのは、日本だけのことではなく、冷戦期には国際的に広くみられた。超大国間の対立が核戦争にエスカレートするのではという恐怖に支配されたこの時代、Security=国家の安全保障、軍事的な安全保障という固定的な図式に対する疑いはほとんど存在しなかったといえよう。

だが、冷戦が終わると、大国の全面核戦争が瞬時に世界中を崩壊させるという危機は遠いた。かわって、それまでは米ソ対立の影に押し込められていた多種多様の問題――国内の民族対立や国境を超えて広がるテロの懸念、環境破壊、貧困、ジェンダー的暴力などに対する対処へと「安全保障」の焦点が移った。こうした非国家的、非軍事的な課題は、安全保障の新しい捉え方として注目を集めた。冷戦終結とともに、安全保障を軍事的な国家防衛と同一視する解釈の信憑性が揺らぐなか、様々な「安全保障」観が花開き、百家争鳴の相を呈するようになったのである。

以上でみた国際的な動きを一言でいえば、安全保障の「相対化」であった。それまで、当然のごとく「軍事的手段によって国家を守るもの」としてきた固定的な定義から解き放たれ、「誰が(主体)、何を(客体)、何から(脅威)、何によって(手段)守るのか」という方程式に、その時々で異なった変数をあてはめることにより、安全保障の意味を問い直す試みが始まったのだ。

この「安全保障のルネサンス」とでもいうべき動きのなか、1990年代以降、様々な新しい安全保障観が台頭し、百花繚乱の様相を呈していく。

その一つは、安全保障の客体、脅威、また手段を非軍事的にとらえなおそうとする動きであり、「経済の安全保障」や「環境の安全保障」などが、その例である。このなかで「安全保障」の主体を相対化しようとする動きも活発となり、国家以外の目からみた安全保障についても、さかんに論じられるようになった。なかでも、1994年に国連開発計画(UNDP)が提唱した「人間の安全保障」論は、個々人の安全確保、さらに福利厚生や人権の達成にまで安全保障概念を援用した点で画期的であり、冷戦後の安全保障論議に大きなインパクトを与えた。

同時期、加速度的に進展したグローバル化の追い風も受け、安全保障の相対化は、一層進むことになる。ヒト、モノ、カネ、情報、そして脅威が国境を容易に超えるようになったことで、伝統的な領土防衛の必然性が相対的に低下したことも背景にある。

さらに、アフガニスタンが2001年に発生した9.11テロの温床となったことから、脆弱国家(fragile states)への開発支援を安全保障課題と位置づける動きも進み、国際レベルにおける安全保障の様相はさらに複雑なものとなっていった。

冷戦後日本の安全保障論議(1)古い定式の残存

翻って、日本の政治と言論界における「安全保障」に対する理解は、冷戦の終結後、どのように変化してきたのか。

実は、「安全保障=軍事的な領土防衛」いう固定的な定式を疑う試みにおいて、日本は他国に先んじていた。政府が「総合安全保障」概念を掲げたのは、いまだ冷戦中であった1980年のことである。1970年代、二度にわたって発生した石油危機の苦い教訓から、経済やエネルギーに関する深刻な問題を「脅威」と捉える発想が生まれ、安全保障を軍事的にだけではなく、非軍事的な範疇にも押し拡げた新しい概念が提唱されたのだった。

だが、結局、これは日本の安全保障観の主流とはならず、国際的に「安全保障」の相対化が進んだ1990年代以降も、旧来からの「安全保障=安保(日米同盟・自衛隊)」という定式は依然として生き続けることになる。

その証左の一つを、田中明彦・政策研究大学院大学学長が1997年に著した『安全保障』という書籍を題材にみてみよう。

日本を代表する国際政治学者である田中は、この小論で振り返ってきたような安全保障概念の変遷については当然のことながら知悉しており、同書の冒頭で「『何から』『何を』、そして『何で』守るのか」に重点をおいて日本の安全保障を論じるとし、また、安全保障上の脅威を軍事的なものに絞らないという相対的な安全保障観を提示している(田中明彦、『安全保障』読売新聞社、1997年、3、5頁)。

実際、同書は、上述の「総合安全保障」のような非軍事的な安全保障論にも目を向けた。だが、同書の大部分は、日米同盟や自衛隊の役割、つまり、旧来の「安保」に近いテーマに割かれている。同書は、戦後日本の安全保障政策をふりかえる歴史的なアプローチを取っているため、田中自身は「安全保障」の相対化を企図しても、実際の史料が「安保」的な議論に終始していれば、その壁を乗り越えることは容易ではなかったのではないか。

冷戦後日本の安全保障論議(2)――安全保障の忘却

こうした背景には、冷戦後の日本では安全保障をめぐる言説の状況が、国際的な潮流とは異なっていたことがあろう。

冷戦が終わり、全面核戦争の恐怖が遠のいたのも束の間、バルカン半島やアフリカなどで一般市民を巻き込んだ悲惨な内戦が頻発した。このような「新しい戦争」への危機意識が、「人間の安全保障」に代表される新しい安全保障概念の台頭につながることになった。

これとは真逆に、冷戦終結直後であった1990年代前半、日本における脅威認識は急速に薄れていた。一つには、上で指摘したような凄惨な内戦の多くは日本から遠く離れた地域で発生していたため切迫感が薄かったことがあった。また、おりしも1955年体制の崩壊時期にあたり、目まぐるしく移り変わる国内の政治劇にメディアや国民の目が釘付けになっていたためでもある。

実をいえば、米ソ対立は解消したとはいえ、北東アジアに平和がもたらされたわけではない。この地域では、冷戦時代に起因する対立構造が依然残っており、超大国対立の重しが外れたことで情勢はむしろ流動的になっていた。その不安定さは、1993年から翌年にかけての北朝鮮核危機を通して如実に露わになった。朝鮮半島有事の危険性はかつてないほど高まったのである。

にもかかわらず、この時期、日本国内の脅威認識はむしろ低下していた。

内閣府が3年おきに実施している『自衛隊・防衛問題に関する世論調査』によれば、冷戦終結直後であった1990年と比べ、1993年の調査では、防衛問題や自衛隊に関心がないという回答が増え(30.2%から40.5%へ)、その理由を聞かれた質問に対しては「日本には差し迫った軍事的脅威はない」とする回答が増えたのである(15.7%から21.9%へ)。北朝鮮核危機に対する日本政府の対応も鈍いものであった。つまり、冷戦終結直後の日本で起こったのは、安全保障の忘却だったのである。

冷戦後日本の安全保障論議(3)「危機管理」意識の台頭と軍事的安全保障への回帰

「安全保障の忘却」の傾向は、1995年に立て続けに発生した予想外の出来事――阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件――を契機に押し戻されることになる。この二つの事件の衝撃は計り知れないほど大きなものであった。その結果、対応が後手後手に回った政府への批判が高まるとともに、「危機管理」の必要性が盛んに論じられるようになったのである。これは、みずからの安全に対する懐疑が頭をもたげたということであり、「安全保障の忘却」に歯止めをかけるきっかけとなった。

ちょうど、このタイミングで、北東アジアの不安定さを痛感させる事件が立て続けに起こる。1996年の台湾海峡ミサイル危機、1998年の北朝鮮によるテポドン・ミサイル発射事件、1999年の能登半島沖不審船事件などだ。

これら一連の事件により、もともと、テロや災害といった非軍事的な脅威への備えを意味した「危機管理」は、より軍事的な意味もあわせ持つようになっていく。1996年、「日米安全保障共同宣言」が発表されたこともあって、従来は「安保」の影に隠れがちであった「安全保障」という言葉もこの頃から頻繁に言及されるようになり、「日米同盟・自衛隊」の強化という文脈で用いられることが増えたのである。

21世紀に入ると、安全保障を「日米同盟・自衛隊」に引きつけて理解する傾向は一層鮮明になった。2001年に発生した9.11攻撃の衝撃と国境を越えるテロの脅威、また、奄美沖で発生した工作船自沈事件や日本人拉致の実態発覚によって一層高まった北朝鮮に対する警戒感、さらに、米国が主導するアフガニスタンでの対テロ戦やイラク戦争に同盟国としていかに関わるべきかという悩ましい問題など――。2000年代には、日本が直面する軍事的な課題の存在が広く認識されるようになったのである。

それは、アフガニスタンとイラクで米国が突き進んだ「テロとの戦い」というグローバルな課題と、北朝鮮の脅威など北東アジアの不安定な状況を受けて、日米同盟の強化を迫られた日本の安全保障政策とが密接に絡み合うようになった時代であったといえよう。

さらに2010年ごろからは、大きな衝撃を与えた尖閣諸島中国漁船衝突事件を皮切りに、中国への警戒感はいやがおうにも高まっている。他方、北朝鮮の瀬戸際外交も留まるところをしらず、核・ミサイル問題はますます深刻さを増している状況だ。この流れを受け、集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更(2014年)、平和安全法制の成立(2015年)など、軍事的対応策の強化を図る措置が次々に取られた。

だが、こうした軍事的措置拡充をめぐる一連の騒動は、日本の安全保障論議を取り巻く構造が根本的には以前と大きくは変わっていないことをまざまざと見せつけることになる。「若者を戦場に送るな」と声高に叫ぶ拒否反応。これに取り合わず、ひたすら法案成立を急ぐ政府側。その議論は最後まで噛み合わず、日本の安全保障を真摯かつ多角的に検討する姿勢は、反対勢力にも政府側にもついぞ見られなかった。

この時の状況を1960年の安保闘争時と対比させてみると、否定的な響きがある「安保」という言葉が使われることは減り(反対派は好んで「安保法制」という呼称を使ったが)、臆することなく「安全保障」という言葉が使われるようになっている点は顕著な変化だった。だが、日本の安全保障を「日米同盟・自衛隊」の強化と同一視し、これが深刻な反発を招いたという点では、その本質は、安保闘争の時代を大きくは変わらなかったのだといえよう。

このように、冷戦後の日本では、まず「安全保障の忘却」が生じ、非軍事面での危機管理意識の台頭を経て、一転、軍事的な安全保障へと急激に回帰したことにより、安全保障を相対化する機会は失われた。その結果、日本の安全保障論は「安全保障=日米同盟・自衛隊」とする固定的な理解と、これに対するやみくもな反対論から逃れられないでいる。

誤解しないでほしい。筆者は、日本の安全保障における日米同盟や自衛隊の役割の重要性に疑義を呈しているわけではない。近年の北東アジアの戦略環境の激化を考えれば、軍事的措置の強化は当然である。問題は、その狭い焦点から外になかなか目が向けられないことだ。

安全保障の必要性を訴える側が、日米同盟・自衛隊の強化に傾きがちであり続けてきたために「安全保障=日米同盟・自衛隊」の定式に批判的な「アンチ安保」に反撃の機会を与え、結果的に教条的な安全保障論議の虜囚となってきたのである。

あわせて読みたい

「安全保障法制」の記事一覧へ

トピックス

ランキング

  1. 1

    エロい胸元 選挙ポスターが物議

    田野幸伸

  2. 2

    浅田真央が3日連続「同伴帰宅」

    女性自身

  3. 3

    尾身氏の述べる感染対策が具体的

    中村ゆきつぐ

  4. 4

    西村大臣 感染対策に努力強調

    BLOGOS しらべる部

  5. 5

    また夜の街と発言 都知事に非難

    女性自身

  6. 6

    日本は中国批判を止め自衛せよ

    日本財団

  7. 7

    独立続出の芸能界 裏に金と圧力

    渡邉裕二

  8. 8

    夜の街巡る上から目線要請に苦言

    ABEMA TIMES

  9. 9

    感染増加で若者を批判する愚かさ

    文春オンライン

  10. 10

    北海道のコロナ対応に疑問相次ぐ

    畠山和也

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。