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住民4人の限界集落で大黒柱の男性が病に 地域の維持を阻む最大の危機

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京都府北部の日本海近くに位置する綾部市。面積は東京23区の半分を超える約347平方キロと広大だが、人口は3万2000人ほど。少子高齢化を課題とする典型的な地方都市だ。

そんな自治体から全国へと波及した取り組みが、限界集落の活性化を目指した「水源の里」。綾部市は、悲観的な“限界集落”という言葉を“水源の里”と言い換え、支援策を盛り込んだ条例を制定。その理念は全国の自治体に共有されていった。

綾部市・古屋地区はそんな水源の里の一つ。市中心部から遠く離れた集落で、住民はわずか4人。うち3人は90歳を超えた高齢女性で、渡辺和重さん(67)が集落を引っ張ってきた。だが、昨年5月に渡辺さんが病に倒れると、条例で元気付いてきた集落に暗雲が立ち込めるように。今も体を満足に動かせない状態だが、集落のピンチに全国から支援が寄せられている。



市街地から約1時間 山間に4人が暮らす古屋地区

大手家電量販店やショッピングセンターが集まる綾部市中心部から、福井県おおい町につながる府道に入る。コンビニやチェーン店は次第に見えなくなり、田畑ばかりの牧歌的な風景が広がる。府道から分岐してさらに道を進むと、次第に車も行き交えない細い道路となった。

曲がりくねる道の途中に、「注意! 高齢のおばあちゃんがバイクで走ります 車の方はゆっくり走って下さい」との看板。JR綾部駅から北東に約22キロ。1時間近くかかってようやく古屋にたどり着いた。豪雪地帯らしい三角屋根の民家が山間に軒を連ね、草壁川という小川がゆっくりと流れる光景は、私が頻繁に訪れていた9年前と何一つ変わっていなかった。



過疎化が進んで、地域の人口の半数超が65歳以上の高齢者に。そして、冠婚葬祭などの社会的な共同生活、集落の維持が近く難しくなる――。

高知大学人文学科教授だった大野晃氏によって、その概念が最初に唱えられたのが1991年。限界集落という言葉が持つインパクトとともに、全国各地の自治体で集落の存続が危ぶまれている実態がクローズアップされた。

限界集落を守れ 「水源の里」に改称し振興目指した綾部市

綾部市は、繊維大手・グンゼや、神道系新宗教・大本の発祥の地として知られ、豊かな自然や伝統工芸の黒谷和紙にも恵まれる。だが、目立った観光資源に乏しく、課題は常に人口減。

市制施行した1950年の約5万4000人をピークに減少の一途をたどり、今年1月現在の人口は約3万2000人と推計される。市全体でも、昨年12月時点での高齢化率は37.3%に達し、京都市などと比べてその高さが際立つ。

「上流は下流を思い、下流は上流に感謝する。」――。 

そんな理念とともに、綾部市が全国初となる水源の里条例を制定したのが2006年12月。「地域のやる気をそぐ言葉で、そこに住む人の心をキリで刺すような言葉だ」として、改革派首長として知られた四方八洲男市長(当時)が限界集落を“水源の里”と表現することを提案。過疎化が著しい地域が山間の水源地に位置することを前面にPRし、条例には具体的な対策を盛り込んでいった。

四方八洲男・元綾部市長

市は以下の様に水源の里の定義を定めた。

①綾部市街地からおおむね25キロメートル以上離れている
②高齢化率が60%以上
③世帯数が20戸未満
④集落が水源地域

この要件に該当する地域を水源の里と定め、

①定住促進
②都市との交流
③地域産業の開発と育成
④地域の暮らしの向上

を柱とした集落の再生を進めることになった。

誰も訪れなかった集落に人が集まる 理念は全国に波及

当初、水源の里に指定されたのは、古屋を含む計5集落。いずれも高齢化率は60%を超え、2集落では100%に達していた。いずれも、集落の消滅の現実性が日に日に増し、何らかの対策は待ったなしの状況であった。

ただ、市が抱える課題は過疎問題だけではない。財政難や人口減も喫緊の課題で、集落外の市民からは当初、「なんでいずれは消滅する地域を優遇するのか」「工場を誘致したり雇用を創出したり、すべきことはもっとある」といった批判も聞こえた。

それでも、市は四方元市長の指揮のもと、水源の里の振興策を展開。I・Uターン希望者向けに建設した定住促進住宅への入居も進み、移住補助制度の利用者も目立った。集落の高齢者の作業を手伝うイベントも企画され、京阪神の都市部などからボランティアが多く訪れるようになった。

条例は当初は5年間の時限立法であったものの、市は2回の延長を経て2026年までの継続的な振興策を予定する。当初は5つか所のみだった指定集落は16まで拡大。後継の山崎善也市長にもその理念は引き継がれている。

京都府北部の小さな町から生まれた政策は全国へと共感された。2007年11月には全国146自治体が参加して全国水源の里連絡協議会が発足。現在も北海道から鹿児島県まで約170の自治体が持ち回りのシンポジウムなどを開催し、過疎集落の維持を模索している。

京阪神などの都市部からボランティアに訪れた人たち。赤いシャツの男性右が渡辺和重さん

80人いた人口が4人に 古屋地区の厳しい現状

「自分の中でも、いつか古屋は必ずなくなるものだと思っていた。でも、当時の四方市長が条例を作って注目を集めると、地域に何か不思議なエネルギーが湧いてきた。はっきりと変わったのは、それまで古屋を訪れるのは住民以外、郵便局か配達の人ぐらいだった。それが土日になると大勢の人が集まるようになった」

渡辺さんはそう胸を張る。

14,15人が0人にーー。

そんな数字が、過疎化が進んだ古屋の現状を物語っている。古屋で生まれ育った渡辺さんは、片道2時間の道のりを歩いて地元の奥上林小学校に通った。豪雪に見舞われる冬は親元を離れ、学校近くの寄宿舎で寝泊まりした。

同じように、集落から小中高に通っていた子どもは14、15人いたが、現在、子どもは1人もいない。当時、古屋で子どもだった人も全員が地区外で生活している。集落の人口も1950年代は80人ほどだったが、京都市など都市部や市内の市街地への流出が止まることはなかった。

小川が集落を流れる古屋地区

Uターンして感じた「本当に頑張らないと故郷がなくなる」

渡辺さん自身も18歳で集落を出て京都の大学に進んだ後、東京で雑誌編集の仕事を担ってきた。「自分もこのまま東京のストレス社会で必死に生きていくんだろう」。そう思ってきた。

転機となったのは約20年前に父の英夫さんが亡くなったことだ。自らも東京での暮らしに疲れ果てていた。母のふじ子さん(94)が独り身になったこともあり、家族の理解を得て54歳の時に単身でUターンした。

古屋の周辺の地域でも深刻な過疎高齢化。Uターンしたことは「若いやつが戻ってきた」と話題となり、早速、自治会のポストを任せられたり、山菜の佃煮づくりを命じられたりと引っ張りだこだった。「飲食の経験もないのに、内心は無茶苦茶だと思ったけど、受け入れられたようで嬉しかったな」。

期待を感じたのと同時に思ったことは、「本当に頑張らないと故郷がなくなる。戻ってみて、そんな危機感を身に染みて感じた」。渡辺さんは振り返る。

「本当に頑張らないと故郷がなくなる」とUターン当時の思いを振り返る渡辺和重さん

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