
前編では京都アニメーション放火殺傷事件でのファクトを整理したが、今回は実名報道がなぜ必要とされたのか、そしてそれに対する批判について、記者経験者の話を交え取り上げる。話を伺ったのは、自身も記者出身ながら、日本の事件報道の匿名化を訴えている浅野健一元同志社大学教授だ。
共同通信記者であった浅野氏は、自身が取材した冤罪事件をきっかけにして事件報道に疑問を持ち、1984年に『犯罪報道の犯罪』を発表。被害者・犠牲者にとどまらず、被疑者についても匿名での報道を主張し、公人を除いて被害者、被疑者問わず匿名が原則となっている、スウェーデンに代表される北欧型の『匿名報道主義』の導入を訴えている。
なぜマスコミが実名にこだわるのか、その問題点は。事件報道の構造的な問題にまで踏み込んで話を伺った。
なぜ実名にこだわるのか?
前編で触れたように、日本のマスコミの大勢は、被害者も含めた実名報道を肯定している立場だ。なぜ日本のマスコミは実名を必要とするのか? それについて浅野氏に問うと、意外な答えが返ってきた。

浅野氏 理由はないんです。昔からそうやっているからだけですよ。特にそれが悪いと思っていなかったでしょう。昔からずっとやっていた。
実名を必要とする理由がない。拍子抜けする答えだが、前編で掲示した京アニ事件における、報道各社が実名を必要とするために説明した理由の一覧を見返すと、その論理は各社バラバラで、一貫性のないものだ(下表参照)。

各社で論理がバラバラ、社内でも一貫性がないという事実からすれば、そもそも理由がないというのも説得力のある話に思えた。
実名でなければ権力の監視ができないのか?
しかし、実名は権力監視のために必要、と主張するメディアは多い。権力監視はメディアの重要機能で、それに必要となると実名は欠かせないものになってしまう。だが、浅野氏はそんな主張に疑問を投げかける。
浅野氏 今、実名報道で権力の監視ができているのか、逆に私は問いかけたいですね。できていないんですよ。なぜかというと、警察が逮捕したら名前を書くからで、警察に自分たちの報道の基準を丸投げしているわけですね。こんなことで、権力の監視ができるはずない。実名報道しなければ、権力の監視ができないっておかしいでしょう。
僕も何度も書いてますが、2005年の兵庫の福知山線事故で、亡くなった107人のうちの4人が実名発表されていないからって、権力チェックできてないということはないですよね。
浅野氏が導入を訴える匿名報道主義であるスウェーデンでは、政治家、高級官僚、労働組合幹部、企業役員など権力者の実名は報道されるが、公的活動をしていない一般市民の実名が報道されることは稀であるという。
スウェーデンはこの仕組を1974年から導入しているが、NGO国境なき記者団の『報道の自由度ランキング』、NGOフリーダムハウスの『報道の自由度』共に上位常連であり、いずれも日本よりずっと上だ。一般市民の実名を報じない制度であっても、日本より高い評価を得ていることは、権力監視に権力者以外の実名は必要無いことを示しているのではないか。
報道する『責任』とはなにか?
実名を報道するかは責任を持って判断する――。実名報道について、このように語るメディアは多い。しかし、浅野氏はメディアが責任を回避している構造を指摘する。
浅野氏が共同通信で新人記者研修を受けた際、警察発表の通りに書けば責任は警察にあるとして、報じたメディアは免責されると説明されたという。つまり、その記事が裁判沙汰になった際の保険として警察発表が利用されていているのだ。
浅野氏 昨年、愛媛で誤認逮捕がありましたね。あの事件でも記事に15行(165文字程度)しか書かれていないんですよ。何々署が誰々を逮捕したと。これは全部、発表文そのままなんです。最後の2行だけ、「捜査関係者によると~」というような言葉があるんですよ。独自取材を交えて、最後の2行だけ書いてある感じですね。
警察が逮捕したと記者クラブで発表したら実名報道する、それが『実名報道主義』なんです。だから、新聞は実名が原則ですと言っているでしょう。違うんですよ。新聞が実名原則は当たり前で、ラジオ、テレビ、野球の結果でも全部名前を書くのは当たり前です。
スウェーデンの匿名報道主義というのは、警察が逮捕したとか、警察が発表したかとは無関係に、報道機関が自ら自分たちの判断で、事件を報道するか。報道する場合は名前、住所、どこまで報道するか、それについて自分たちの責任で決める。それを匿名報道主義というんですよ。
警察による発表がなされると実名報道。それが浅野氏が定義する実名報道主義の実態だが、京アニ事件でもそれが踏襲されている。警察が京アニ事件の犠牲者を記者クラブ内で明らかにした数時間後には犠牲者のプロフィール、生前に親交のあった人の話などが報じられている。発表からすぐに準備できるはずもなく、犠牲者の氏名を把握した上で警察の発表を待って報道したのは明らかだ。今も自社の責任において報道を判断しているのではないのだ。