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国会事故調「日本文化論」についての一考察

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海外メディアにとって、7月5日は久々に東京での動きに目を凝らすべき日付として刻まれていたはずだ。この日、国際的な評価尺度でチェルノブイリ原発事故と並ぶレベル7に位置づけられる東京電力福島第一原子力発電所の事故について、日本の国会に設けられた調査委員会が最終報告書を衆参両院議長に提出する。民間の調査委員会ではなく、事故の当事者である政府や東京電力の調査委員会でもなく、完全に独立した形で立法府に設置された第三者委員会による調査報告となれば、その重要性は言うまでもない。

福島の事故は、スペースシャトルの爆発やコンコルドの墜落、ロシアの潜水艦の沈没やイタリアの豪華客船の転覆のような「単なる大惨事」ではない。世界ではいま30カ国で427基の原発が稼働中(点検等で停止中のものも含む)で、まだ原発をもたない11カ国などに建設中の原子炉が75基、計画中が94基ある。社会主義体制末期のソ連とは比べるべくもない、日本のような国で、なぜこれほどの事故が起きたのか。去年の3月以来、その答えを探し続けている各国の原発関係者や規制当局者に、国会事故調の報告書は手がかりを与えてくれるはずだ。

7月5日、報告書は国会へ提出された後、すみやかに日本語のダイジェスト版、要約版、本編(本文)、参考資料、会議録がネットで公開された。翻訳作業の都合なのか、英語版は要約版(Executive Summary)のみが公開された。その数時間後、「報告書」のポイントを英米のメディアがネット配信の記事で伝えはじめたこと、英語のツイートでつぶやく記者がいることなどを、私は翻訳家の加藤祐子さんのツイートで知った。

「報告書」と括弧をつけたのは、英米メディアの多くがポイントを抽出したのは日本語で公開された要約版ないし本編ではなく、英語の要約版のトップに黒川清委員長の署名入りで掲載された英文の序文(Message from the Chairman)であり、しかもそれは日本語版には掲載されていない内容だったからだ。

いくつかの英米メディアは公表直後の記事で、黒川委員長が序文に書いた「Man-made disaster」「Made in Japan」といった表現を引いて「人災」や「日本製の災害」と見出しをつけ、事故の原因として「日本の文化」を挙げていることを紹介した。その後、英米メディアでは、国会事故調の「報告書」が日本の文化的な特性を事故の原因と名指ししていることを批判する論調が目立つようになる。具体的に批判の対象となったのは、黒川委員長の英文序文の次の部分だ。

What must be admitted -- very painfully -- is that this was a disaster “Made in Japan.” Its fundamental cause are to be found in the ingrained conventions of Japanese culture: oure reflexive obedience; our reluctunce to question authority; our devotion to ‘sticking with the program’; our groupism; and our insularity.Had other Japanese been in the shoes of those who bear responsibility for this accident, the result may well have been the same.

(誠に残念ではあるが、今回の事故は「日本製」の災害であると認めざるを得ない。その根本的な原因は、日本文化に深く根づいた数々の慣習に見出すことができる。すなわち、私たちの条件反射的な従順さ、私たちの権威に疑念を抱くことへのためらい、私たちの「あらかじめ設定された通りに行うこと」へのこだわり、私たちの集団主義、そして私たちの島国根性。今回の事故に責任を負う立場に別の日本人が就いたとしても、結果は同じだったかもしれない)

ブルームバーグは7月8日の社説で「国会事故調の報告書が極めて物足りないのは、福島で起きた惨事を文化がもたらした災厄と結論づけていること」であり、責任を日本の集団主義に帰するのは「責任逃れ」であると批判。2006年に米ウエストバージニア州のセーゴ鉱山で起きた爆発事故で13人が死亡した例を挙げ、「セーゴ鉱山の事故では数百件の安全義務違反が警告されていながら処分がほとんど課されず、石炭業界と(規制部門である)内務省が人材を互いに送り込むことで一体化していた。安全規制が十分に強化されず、古くからの内部関係者が業界利益を守ろうとするのは日本だけではない」と指摘した。

フィナンシャル・タイムズは「クライシス後の「メード・イン・ジャパン」レッテルにご用心」と題した東京支局長による記事で、しがらみのない黒川氏を国会が起用したことを評価しつつも、「福島の事故を文化的な文脈で説明しようとするのは危険がある。ある国の文化を定義すること自体、そもそも難しい」と疑問を呈した。「日本のすべての企業や規制当局が複雑な技術的システムを安全に運用する能力を本来的に欠いているわけではない。たとえば新幹線は1964年の開業以来、死者を出す衝突事故や脱線事故を一度も起こしていない」と指摘した。

英紙ガーディアンは「文化のカーテンの陰に隠れる国会福島報告書」と題した記事で、新渡戸稲造の「武士道」がH・G・ウェルズやインドの思想家ラビーンドラナート・タゴールにも影響を与えたことや、戦後日本の高度成長を説明するのに「疑似文化論的な分析」がたびたび利用されたことなどを振り返りつつ、「メード・イン・ジャパンの論点を持ち込むことは特異性を重視しようとする人々を喜ばせ、すでにあるステレオタイプを補強することになる。そもそも報告書が挙げた従順さや権威を疑うことへのためらいは日本だけに特徴的なことではなく、すべての社会にあまねく存在する性質だ」と指摘。「死活的に重要な事故の報告書を文化で虚飾すれば、世界全体に困惑させるメッセージを送ることになる。とりわけそれが、テクノロジーの進化に先端的な役割を果たしてきた国から発せられるとすれば」と批判した。

英米メディアのそうした批判は的を射たものなのか。問題となるのは次の3つの点だ。

1)国会事故調が行った調査において、東京電力や規制当局の行為や行動がそれら今回の事故の当事者に特有のものではなく、普遍的な「日本の文化」であると言えるだけの根拠が確認されたのか。

2)国会事故調の調査において、そうした「日本の文化」が福島の事故の原因であると言えるだけの根拠が確認されたのか。

3)国会事故調が委員長の名のもとに、福島の事故は「日本の文化」が原因であると、立法府に設けられた第三者委員会の最終報告書に記すことは適切なのか。

これら3つが「イエス」であれば、黒川委員長が英語版の序文に書いたことは調査報告の本質的なポイントを適切に説明しており、海外メディアの批判は的外れであると言うことができる。逆にこの3つが「ノー」であれば、黒川委員長は報告書の発信をミスリードしたとして、その責任を問われても仕方がない。

事故は「メード・イン・ジャパン」なのか

前に記したように、英文序文で「メード・イン・ジャパン」等を論じた箇所とまったく同一の箇所は日本語の報告書には存在しない。日本の国民性や文化に直接的に触れているのは、黒川委員長の署名がある序文(「はじめに」)の次の箇所である。

100年ほど前に、ある警告が福島が生んだ偉人、朝河貫一によってなされていた。朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の禍機』を著し、日露戦争以後に「変われなかった」日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた。

「変われなかった」ことで起きてしまった今回の大事故に、日本は今後どう対応し、どう変わっていくのか。これを、世界は厳しく注視している。この経験を私たちは無駄にしてはならない。国民の生活を守れなかった政府をはじめ、原子力関係諸機関、社会構造や日本人の「思いこみ(マインドセット)」を抜本的に改革し、この国の信頼を立て直す機会は今しかない。この報告書が、日本のこれからの在り方について私たち自身を検証し、変わり始める第一歩となることを期待している。

一読して、日露戦争と福島原発事故の関係性が十分に説明されているとは言いがたい。ただ、それを「飛躍」と呼ぶかどうかも、事故が日本の文化に起因することが報告書の中で客観的に立証されているかどうかによる。

国会事故調の報告書の内容は、黒川委員長の主張を裏づけるものなのか。報告書本文を通読してみて印象的なのは、黒川委員長が英文序文に「日本の文化的特性」として挙げたことの多くが事故の背景の随所に感じられることだ。

第4部の「政府の原子力災害対策の不備」では、2007年の新潟県中越沖地震を機に原子力安全・保安院が複合災害を想定した対策を進めようとしたが、実施負担の大きさから国の関係機関や一部の立地自治体が反発すると、議論や対立や規制の導入の検討もなく、そのまま放置されたことが指摘されている。そこに「条件反射的な従順さ」「権威に疑念を抱くことへのためらい」「あらかじめ設定された通りに行うことへのこだわり」「集団主義」が介在していると説明しても、不自然さはないだろう。

第1部「事故は防げなかったのか?」では、国際的な深層防護の考え方や海外のシビアアクシデント対策との比較から、東電と日本の規制当局のリスクマネジメントの甘さが検証されている。諸外国では対策が規制要件化されているのに、日本では事業者の自主対策としたために実効性が欠いたことなどは、「島国根性」「条件反射的な従順さ」のなせるわざと形容してもいいだろう。

第5部「事故当事者の組織的問題」における耐震バックチェックの遅れ(というより半ば作為的な無視)や、設計水位を超える津波による全電源喪失と炉心損傷に至る危険性の認識の薄さを検証した部分には、東電の「あらかじめ設定された通りに行うことへのこだわり」が明確に感じられる。

アメリカの全電源喪失規制を横目で見ながら何もしなかったことについて、原子力安全委員会の班目春樹委員長の「わが国ではそこまでやらなくてもいいよという、言い訳といいますか、やらなくてもいいということの説明ばかりに時間をかけてしまって、いくら抵抗があってもやるんだという意思決定がなかなかできにくいシステムになっている」という国会事故調での証言にも、「島国根性」「条件反射的な従順さ」が滲んでいる。

しかしこれらは、事故調査を通じて確認された東電や電事連、規制各当局の行動が、黒川委員長が「日本の文化」と呼ぶパターンに分類し得るというだけのことであり、そこに普遍性があることはまったく意味しない。

むしろ報告書の細部では、「東電に染みついた特異な体質(エネルギー政策や原子力規制に強い影響力を行使しながらも、自らは矢面に立たず、役所に責任を転嫁する黒幕のような経営体質)が事故対応をゆがめた点を指摘できる」(第3部)といったように、東京電力や原子力安全・保安院など今回の当事者に固有の責任があることを明示した記述が目立つ。

つまり国会事故調の報告書には、事故の根本原因は日本の文化的特性にあることを、東電や規制当局の行動に当てはめて演繹的に導きだした箇所もなければ、他の業界や事故事例を参照してこれは日本の普遍的な文化特性であると帰納的に立論した箇所もない。

黒川委員長としては、それは言わずもがなのことなのでわざわざ書くまでのこともない、あるいは事故調査が主眼である報告書に詳細を記す必要はないという判断だったのかもしれない。実際、外国特派員協会での会見で「メード・イン・ジャパン」等の部分が日本語報告書にないことを問われた黒川氏は、「日本人には当たり前のことなので書く必要はないと思った」と答えている。

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