川崎市で小学生ら19人が殺傷された事件で、市は犯行直後に自殺した男が「ひきこもり傾向」だったと発表した。ジャーナリストの池上正樹氏は「この事件は『ひきこもりが起こした凶悪事件』と広く報じられた。その結果、世間の敵意はひきこもりに向けられ、差別や偏見が当事者らを追い込んでいる」という――。
※本稿は、池上正樹『ルポ「8050問題」高齢親子“ひきこもり死”の現場から』(河出新書)の一部を再構成したものです。

「8050問題」を全国に広めた川崎通り魔殺傷事件
不幸な形で広まる契機になったのは、2019年5月末に起こった、川崎の通り魔殺傷事件だった。事件後、「8050問題」という単語が、何度も何度も繰り返し、テレビやラジオ、WEBなどのニュースで流れることとなった。筆者もあらゆる媒体で「8050問題」についてのコメントを求められた。いったい、何が起こったのか。周知の事実ではあると思うが、ここで今一度、事件の概要を説明したい。
2019年5月28日、神奈川県川崎市多摩区にあるバス停付近の路上で、区内のカリタス小学校へ通学する途中の児童18人と保護者2人、合わせて20人が、刃物を持った男に突然刺された。女子児童1人と別の児童の保護者である男性1人が死亡。そのほか児童17人が重軽傷、保護者1人が重傷となった。男は、犯行直後に自分の首を刺し、その後、病院で死亡が確認された。
犯行を行った男は、川崎市に住む、当時51歳の容疑者だった。容疑者は、両手に刃物を持ち、スクールバスの列に並ぶ児童らを背後から次々と襲った。1分にも満たない犯行時間だったというが、被害者の大半は低学年の児童だったため、瞬時に逃げることも難しかったと思われる。許せない犯罪である。
「ひきこもり」に向けられた敵意
この幼い子どもたちの命が犠牲になった痛ましい事件は、世間を震撼させた。だが、容疑者はすでに死亡しており、事件発生当時から今まで、その詳しい動機などはわかっていない。しかし、翌29日、川崎市が行った会見によって、このような事件が起こるに至った真相は、まったく違う文脈でメディアに拡散されることになる。
川崎市の精神保健福祉センターは、容疑者は長い間就労もせず、外出もほとんどしない生活を送っており、少なくとも10年以上は「ひきこもり傾向」だったと、会見で発表したのだ。
容疑者は80代の伯父と伯母と3人で暮らしていたが、ほとんど会話もしない生活が続いていた。この3人の関係に、特別な問題があったわけではなかったが、80代の伯父と伯母、50代の収入のない甥の同居する「8050世帯」だったのである。さらに市は、「容疑者が伯父や伯母からお小遣いをもらっていた」ことなども発表した。
伯父と伯母は、自宅に訪問介護サービスの職員などが入った際のトラブルなどを心配し、市に相談。相談は、2017年11月から2019年の1月までの間に、計14回にも及んだ。2018年6月から訪問介護のサービスが開始され、自宅に訪問介護の職員が入るようになったものの、そのこと自体で、とくに容疑者との間に大きなトラブルが起こることはなかった。
敵意を煽る「ネット」「新聞」「テレビ」
その後、伯父と伯母は精神保健福祉センターのアドバイスに従って、自立を促すような手紙を2019年1月に2回、容疑者に渡した。詳細な内容は公表されていないが、容疑者は、手紙を渡された数日後に「自立しているじゃないか」「食事や洗濯、買い物を自分でやっているのに、ひきこもりとはなんだ」「好きで、この暮らしを選んでいる」といったような趣旨の反論をしたという。
川崎市がこのように「容疑者が長年就労せず、ひきこもり傾向にあった」という趣旨の会見をした直後から、筆者の元にはメディアから、「容疑者がひきこもりだった」ことに対するコメントを求める問い合わせが殺到した。
もちろん、会見直後の時点では何の情報もなく、容疑者の事情も背景もよくわからなかったことから、一般的な見解として「ひきこもりとは、社会で傷つけられて安全な居場所である家などに待避している状態であり、理由もなく外に出て行って事件を起こすことは考えにくい」という話を繰り返すしかなかった。
しかし、市が会見した直後から、ネット上には「ひきこもりが起こした凶悪事件」という見出しのニュースが流れ、テレビや新聞なども同様に取り上げたことから、世間の敵意は「この容疑者がなぜ犯罪を起こしたのか」を考えることではなく、「ひきこもり」に向けられていった。
今でも続く「川崎事件」の余波
この川崎の事件報道によって、拭いがたいスティグマを貼りつけられてしまった結果、ひきこもり界は、恐怖や不安感のイメージが植え込まれ、その後の練馬の元事務次官事件などのきっかけにつながった。「行政に頼んでも当てにならない」「だから、自分たちに任せなさい」という“引き出しビジネス”目的の暴力的支援業者も、親の不安な心理につけ込んで営業活動を活発化させるなどして台頭し、今でも余波が続いている。
メディアやSNSでは、「死ぬならひとりで死ね」「不良品」「モンスター予備軍」「無敵の人」などと無神経な発言が流布されていった。本当のモンスターは、公共の電波を使って、憎しみを振りまいた人たちだったのではないか。
本当にモンスター化したのは、いったいどっちだったのか。いずれにしても、こうして世間の敵意が“ひきこもり”に向けられたことによって、現場の教訓としておろしていかなればいけない真実が、うやむやになってしまったのである。
報道に怯える当事者たちから相談が殺到
連日続いた「ひきこもりバッシング」報道の影響は、全国の家族会や当事者の自助会などにも押し寄せた。
筆者が理事として所属する、ひきこもり家族会唯一の全国組織、NPO法人「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」(以下、KHJ家族会)の本部には、メディアの大々的な報道以降、朝から夜まで一日中、電話が鳴りやまなかった。キャッチホンにかかっているのがわかっていながら、取れない電話が何本もあった。
主に家族と本人からの電話が多く、その割合は、7対3くらい。家族からは、「うちの子も同じような事件を起こすのではないか」「自分に攻撃の矛先が向くのではないか」「もう限界」「行政に相談しても何もしてくれなかった」といったものまで、切羽詰まった内容が多かった。
これに対し、本人からは「周囲の目線が怖い」「ひきこもりというだけで、(周りから)事件を起こすと見られている」「ますます外に出られない」「居場所の情報を知りたい」など、全体的に事件が起きる前の相談件数に比べて、数十倍にも増えた。
また、そうした家族や本人たちからの相談の合間には、メディアからの取材依頼や問い合わせも入った。メディア対応は、途中から筆者が引き受けるようにしたものの、家族会本部のスタッフたちは日常業務がまったくできない状態に陥った。