「アライさん」のブルースはどこにも届かない
私たちは「不快な奴をブロックして構わない社会」を生きている。というより、ブロックほど明瞭ではないかたちで選別や選好を働かせあい、それでも社会の多様性というお題目に違反しないことになっている社会を生きている。
他方、そうした自由選択が徹底されればされるほど、選ばれるための言動を、不快がられな言動を、私たちは強いられる。「アライさん」界隈で吐露されるような内心を、他人に曝すわけにはいかなくなる。
表向き、私たちの言動は自由だ。
そして実際、街には多種多様な人々が暮らしてもいる。
ところが実生活では、他人に選ばれるよう、不快がられたり敬遠されたりしないよう、努めないわけにはいかない。
そういった努力が少なくて済む人には、この社会の自由選択のうまみが意識されやすかろう。だが、そういった努力に苦心惨憺している人には、努力を強いられ、不自由を強いられる辛さが意識されやすい。そして前者の人々が後者の人々と接点を持たないとしても「社会の多様性というお題目」に違反しているとは、みなされないのである。
「不快な奴をブロックして構わない」社会を謳歌している人々は、「アライさん」界隈のブルースを不快だからという理由でブロックする自由を持っているし、おそらくそうした自由を行使している。
「アライさん」界隈からの声がシビアであるほど、重苦しいものであるほど、その声はブロックされやすく、敬遠されやすく、誰にも届かぬ独白で終わってしまう。
しかも無数の「アライさん」たちは、それぞれバラバラで名前も無く、群れてひとつの世論を作ったり、群れ続けてひとつの政治集団を作ったりできないため、「不快な奴をブロックして構わない」社会にモノ申すムーブメントには発展しない。個別の「アライさん」たちは、どこまでも匿名の「アライさん」でしかないのである。
簡単に批判できるようで、一筋縄ではいかない
このような「不快な奴をブロックして構わない」社会を批判し、嫌悪することは、一見、簡単そうにみえる。ただし、その際には社会を批判するだけでなく、選好や選別にもとづいた人間関係を築き、まさにそのような社会に乗っかっている自分自身をも批判しなければならないように、私には思える。
少なくとも、この社会の恩恵を受けまくって、選別や選好を働かせまくっている個人が、そのことを棚に上げて「不快な奴をブロックして構わない」社会を批判するのは、どこかテクニカルというか、アクロバティックな何かが必要ではないかと思う。私はまだ、そんな技量を身に付けてはいないから、この状況を見ていることしかできない。あるいは、この状況のメカニズムを理解しようと努めることしかできない。それが歯がゆいのだけど、今の自分の考えを言語化してみたいと思い、半熟卵のようなこの文章を残しておくことにした。