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国語教育について

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去年国語教育について、国語科の教員の先生たちの集まりで講演した。もうだいぶ前のことである。同じようなことはこれまでもブログに書いてきたけれど、たいせつなことなので、何度も繰り返して言い続ける。

 今日は国語教育についてお話しいたします。多分、現場の国語の先生たちはとても苦しい立場に置かれて、これから先、どのようにして国語教育を進めていったらいいのか、正直言って分からないというところにいるのではないかと思います。今度、学習指導要領の改定がありまして、これまでとずいぶん違った形で、国語教育を進めなければいけなくなりそうだということこの間ずっと話題になっています。論理国語と文学国語という区分が何を意味しているのかよく分からない。

 先般、今日の講演の打ち合わせのためにいらっしゃった先生方と早速その話になりまして。「論理国語って何ですか、一体。意味が分からないです」と伺いました。ネット上では、かなり批判的なことが書かれていましたけれども、「論理国語」の実体が分からないので、コメントしようがない。

 そうしたら、そのときにいらっしゃった先生が、論理国語の模試の試験なるものを見せてくれました。ご存じの方も多いと思うのですけれども、生徒会の議事録と生徒会の規約が掲載されていて、その議事録と生徒会の規約の文言を読んで、年度内に生徒総会を開くことは可能かどうかについて答えよというのが「論理国語」の模試問題でした。思わず、天を仰いで絶句しました。

 どうやら、論理的な思考力というのを、契約書を読んだり、例規集を読んだり、マニュアルを読んで理解する能力のことだと考えた方が作問したようです。これはいくら何でも「論理」というものについての理解が浅すぎます。

「論理的にものを考える力」それ自体はたいへんけっこうなものです。文章の階層構造を理解したり、断片から全体の文脈を推理する力は複雑な文章を読む上では必要不可欠ですから。でも、申し訳ないけれど、規約とか契約書というのはまったく「複雑な文章」ではありません。誤解の余地のないように、一意的に理解されるように書かれたものです。そういう「可能な限り簡単に書かれたテクスト」を読むために、わざわざ「論理国語」というかたちで教育内容を分離して、従来の国語では教えられなかったことを教えるということの意味が僕にはわからない。そんなものを「論理」とは呼ばないだろうと思いました。

 論理国語の問題を読まされて、「論理とは何のことか?」と改めて考えました。まずその話をします。

「論理的に思考する」というのは、僕の理解では、断片的な情報を総合して、一つの仮説を立て、それを検証し、反証事例に出会ったら、それを説明できるより包括的な仮説に書き換える・・・という開放的なプロセスのことだと僕は思います。

 僕自身の子ども時代のことを回顧すると、最初に「論理的に思考する知性」に出会ったのは、エドガー・アラン・ポウの『黄金虫』だったと思います。小学校4年生ぐらいのときのことです。

 主人公は砂浜で拾った羊皮紙の断片をキッド船長の宝物の地図だと仮定して、暗号を解読し、ついに海賊の宝を見付けるという話です。ポウ自身が暗号の専門家であったせいで、この暗号解読のプロセスは本当にどきどきします。

 ポウはオーギュスト・デュパンという名探偵も造形しています。『モルグ街の殺人』と『盗まれた手紙』でデュパンは大活躍しますけれど、これもまた、胸躍る読書経験でした。どちらの物語でも、ふつうに考えたら「ありえない仮説」をデュパンは立てるのです。でも、断片的な事実を総合すると、「それ以外の仮説では、このすべてを説明することができない」というふうに推理する。

 名探偵の推理が凡庸な警察官の推理と違うのはそこです。警察官の推理がある限界を超えられないのに対して、名探偵はその限界を軽々と超えてしまう。「たしかに論理的にはそういう仮説もありうるけれど、常識的に考えて、そんなこと、あり得ない」というふうに凡庸な知性はある時点で立ち止まって、論理をそれ以上進めることを止めてしまう。論理が「この方向に進め」と命じているのに、「常識的に考えて、それは無理」という縛りにとらえられて、足を止めてしまう。

 名探偵の名探偵たる所以は、そこで「足を止めない」ということです。論理がそちらを指すなら、どんな「あり得ない」仮説であっても、とりあえずそれを受け入れて、検証してみる。この「大胆さ」が実は論理性ということの実体なのだと思います。

『黄金虫』の「私」が最終的に海賊キッドの宝を見つけることができたのは、最初に羊皮紙を拾ったときに、「これは海賊の宝の地図ではないか」という「あり得ない仮説」を立てたためです。確率的には散歩していて、海岸で海賊の宝の地図を拾うというようなことはあり得ません。でも、「私」は「そういうことも万が一あるかも知れない」というふうに解釈可能性を広げて現実を観察した。確率的にどれほど低くても、論理的にはあり得るなら、「あり得る」という可能性を捨てない。それが論理的知性というものの本質的な働きだと僕は思います。

 そうやってポウから推理小説に入って、当然、その後は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズに行きつくわけです。10歳から12歳くらいのときに、僕はホームズを耽読しましたけれど、そのときに僕はたぶん「論理的に思考する」とはどういうことかということの基本を刷り込まれたと思います。それは「大胆さ」ということです。

「ある前提から論理的に導かれる帰結」のことを英語では「コロラリー(corollary)」と言います。日本語にはこれに当たる適切な訳語がありません。コロラリーはしばしばわれわれの常識を逆撫でし、経験的な知識の外側にわれわれを連れ出します。僕は「論理的に思考する」というのは、それがどれほど非常識であろうと、意外なものであろうと、論理がその帰結を導くならば、自分の心理的抵抗を「かっこに入れて」、それをとりあえず検証してみるという非人情な態度のことだろうと思います。

 シャーロック・ホームズの推理がまさにそうです。ホームズとスコットランドヤードの刑事たちは犯罪現場で同じ断片を前にしています。そこにある全ての事実を説明できる「ストーリー」をホームズはみつけようとする。警察官たちは、そうではありません。いくつかの事実については、それらを「なかったこと」にして、残った事実を説明できる「よくある仮説」を選好する。ホームズとの違いはそこです。ホームズはすべての断片がぴたりと収まる「ストーリー」を探す。警官たちは、まず蓋然性の高い「ストーリー」を考えて、それに当てはまる断片だけを拾い上げて、当てはまらない断片は捨てる。

 ホームズの論理性と、警官たちの論理性の違いは、そこにあり、そこにしかありません。すべての断片を説明しようとすると、探偵はしばしば「あり得ないような、とんでもない仮説」を採用しなければならない。警官たちは、それを恐れます。できるだけ「よくある話」に回収したい。でも、ホームズは「よくある話」に収めることには何の関心もない。すべてを説明できる仮説がどのような法外な物語であっても、それを恐れない。

 途中までは論理的に思考しながら、ある時点でそれ以上の可能性を吟味するのが怖くなって、思考停止すること、それが「非論理的」ということです。それが探偵小説に出てくるすべての凡庸な警察官たちに共通する弱点です。あるところまでは、名探偵と一緒に論理的に思考するのだけれど、ある限界に達すると、目を背けて、思考を停止する。「こんなこと、あるはずがない」という自分の日常的な感覚を論理よりも優先させる。

 論理的にものを考える人間と考えられない人間の違いはここにあると僕は思います。

 論理的に思考するというのは幅跳びの助走のようなものです。ある程度速度が乗って来て、踏み切り線に来た時に、名探偵はそこで「ジャンプ」できる。凡庸な警官たちは、そこで立ち止まってしまう。まさに「ここで跳べ」という線で立ち止まってしまう。論理性とはつきつめていえば、そこで「跳ぶ」か「跳ばない」かの決断の差だと思います。

 長じてから、これは探偵小説に出て来る名探偵たちだけでなく、すべての卓越した知性に共通する特性だということに気づきました。卓越した知性と凡庸な思考の決定的な差は知的能力の量的な違いではありません。「跳ぶ」勇気があるかどうか、大胆であることができるかどうか、それだけなのです。

 例えば、ジークムント・フロイトがそうです。フロイトの『快感原則の彼岸』は間違いなく20世紀で最も読まれ、最も頻繁に引用されたテクストですけれど、この中でフロイトは徹底的に論理的に思考することを通じて、「強迫反復」と「タナトス」というわれわれの常識を逆撫でする概念を提起しました。

 フロイトの立てた問題は「なぜ人間は不快な経験を反復するのか?」という問いでした。不快な経験は不快なわけですから、快感原則に従うなら、不快な過去の記憶は忘却された方がいい。けれども、トラウマ的な経験をした人たちはそれを繰り返し悪夢に見て、悲鳴を上げて起き上がる。なぜ人は不快な経験を反復するのか。

 その症例研究から始めて、フロイトは「反復すること」への固執は「快・不快」よりも優先するという命題を「論理的」に帰結します。そして、そこから「タナトス(死への欲動)」というまったく「非常識な」仮説を導き出す。

 観察したすべての症例を説明するためには、人間には死への欲動があると仮説せざるを得ない、と。このときにフロイトは「跳んだ」わけです。

 このときに、フロイトは「思弁」という言葉を使います。これから、私が述べることは思弁的である。現実の生活実感の裏づけがない。市民的常識を逆撫ですることかも知れない。けれども、症例研究からの論理的帰結はこれしかない、と。「死への欲動」は厳密なコロラリーである、と。

 僕が『快感原則の彼岸』を読んだときに、一番震えたのは、結論の「死への欲動」という概念そのものの意外性のもたらす衝撃ではなく、フロイトが具体的な症例研究から始まって、「強迫反復」と「タナトス」に至るときに、ある踏み切り線を「跳び越えた」ことについてです。「すごい」と思いました。「勇敢だなあ」と思った。この人は自分の論理性に体を張っていると思った。「こう、こうなら、論理的帰結はこうしかないか。世間の人が何と言おうと、常識が何と言おうと、論理的にはこう結論するしかない」というフロイトの豪胆さに、僕は震えたのです

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