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『第四の消費』を読んで/消費はどうなっていくのか

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三浦展氏の新著


かなり遅くなってしまったが、マーケティング・アナリストの三浦展氏の『第四の消費』*1をやっと最近になって読了した。今更紹介するまでもないが、三浦展氏と言えば、多少なりともマーケッティングの仕事に関係したことがある人なら、その名前を知らぬものはいないといっていいほどの存在だ。最近は、企業マーケターの参考書になるような狭義の分析を超えて、『戦後消費文化論』とでも言うべき領域を切り開き、益々活動の巾を広げている。


その三浦氏が新著で、戦前まで遡って日本の消費を時代ごとに四つにカテゴリー分けした上で、昨今の消費を『第四の消費』と名付けて説明しているという情報を得て以来、ずっと早く読んでみたいと思っていた。三浦氏の著書は、私のブログでも過去何度も参照させていただいたことはご存知の通りだ。今回も大変楽しみにしていた。


案の定というか、期待に違わずというか、今回も大量のデータに基づいて、今日本で起きている驚くべき変化のルーツを探るとともに、今後どのような方向に向かっていくのかというような、予測(というより予言?)の領域に至るまで、縦横に語られている。企業のマーケティング担当者だけではなく、企業経営者、研究者など、この大変化の時代を自ら理解したいと考えている人なら誰でも、一度は読んでおいて損は無い著書だと思う。



一覧表


第一から、第四までの消費の背景や特徴については、一覧表に非常にスッキリまとまっているので、以下、これを引用させていただく。(同掲書 P33)

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認められるのに時間がかかった第四の消費


ここに整理されて書き出された第四の消費の特徴は、何度か三浦氏の別の著作でも語られてきたことだし、かく言う私自身、断片的にではあるが、何度か語ってきたことでもあるが、同時に、この数年、本当に多くの批判や厳しい意見にさらされて来たものばかりとも言える。だが、今あらためて振り返ると、そのような風雪に耐えて、もはや誰にも否定しがたい『スタンダード』になりつつあるといっていいのではないか。少なくとも私にはそう思えた。


第四の消費の先駆けとなるような象徴的な出来事は、すでに70年代から見られ、特にこの10年くらいの間、様々な形で現象化してきてはいた。だが、それが社会全体の一定の認知を受けるまでには(さすがにまだ完全に認められているとは言えないが)、実に長い時間が必要だった言わざるを得ない。それはなぜなのか。


理由の一つは、第二から第三の消費のパラダイムを体現した世代が社会の主流であり続けたことだ。特に第三の消費社会を体現する人々はいまだ社会の大勢を占め、企業のマーケティング担当者の大半もまだこちらのパラダイムを脱しているとは到底言えない。第三の消費の特徴である、『個性化』『多様化』『差別化』『ブランド志向』等、並べてみると、実際にこれに反応する顧客がまだ大量にいることは確かだ。第二から第四までの消費はそれぞれかなりの違いがあるのだが、現段階でも重なり合って併存している。これが現代の市場を読み解くことを非常に難しくしているとも言える。



もう否定しようもない


だが、時代は確実に進行し、市場の主流は明らかにシフトし始めている。この狭間で、非常に大きな影響を被って、どうにも手の打ちようを無くしてしまっているかに見えるものの一つが自動車だ。『自動車離れ』というのは誰もが否定しようのない、時代を象徴するキーワードになった感があるが、実際には現場のマーケティング担当はかなり早い段階からこの変化の兆しに気づいてはいた。だが、当初それを乗り切るために何をしたかと言えば、『個性化』『多様化』『差別化』『ブランド志向』をいっそう先鋭化して追い求め続けた。如何に市場のパイが小さくなっても、市場で競合に勝ち残るためには、この策しかなかったことも確かだろう。だが、そうしているうちに、彼らは自動車にそのような価値を期待しない大量の若者たちに取り囲まれて我に返った。気がついてみると、もはや自動車産業は、日本市場を半ばあきらめ、世界規模でポートフォリオを見直して、新興国中心に切り替えるしかないところまで追い込まれていた。



長期トレンド?


第四の消費の特徴を列記することは、昨今では必ずしも難しいことではなくなった。すでに多くのマーケターの興味は、ここで起きている第四の消費の傾向が本当にこれからの長期トレンドとして固定化するのかどうかという点にシフトしている。というのも、ここで語られる若者の変化は若者の購買力の低下とダイレクトに結びついて見えるものが少なくないため、若者の購買力が上昇すれば元通りとは言わないまでも、かなりの部分元に戻るのではないかと考える見方も根強いからだ。そもそも若者の相対的な窮乏化は、若年層の正規社員比率が愕然と下がってきたことを見てもわかるとおり、政策的な失敗の影響もあることは確かだ。老朽化した日本の仕組みを競争に耐えるようにあらためて、再び日本を経済成長軌道に戻し、若者が消費にまわすことのできる可処分所得が増えれば、問題のかなりの部分は解決するはずだという意見は上の年代では主流と言ってもいいかもしれない。


しかしながら、今回の三浦氏の著作を熟読すると、どうやらその答えはNoと言わざるを得ないようだ。なぜなら、第四の消費の特徴を生んだ根本原因のいくつかが、『第三の消費を徹底させたこと自体』にあるとも考えられるからだ。



食べることが面倒


例えば、高校教員の意見として、『食べることを楽しいと感じない、面倒と思う子が増えてきた』という声が目立ってきたという事実があり、その話を食品メーカーの人にすると、食べるのが面倒くさいという感覚があることは食品業界では数年ほど前から常識だと言われて驚いたという話が本書に出てくる。食べることに満足を見いだせないだけではなく、食べることそのものが面倒くさいというのは一体どういうことなのか。


若者は(若者だけではないが)、腹がへったと内発的に感じて物を食べるのではなく、偏在する食物情報による刺激に反応して物を食べるようになったのである。しかし、こうなると、食欲を満たすことは幸福感にはつながらず、むしろ食欲は、食べても食べても決して満たされることのないもの、むしろ、いつ何時自分に襲いかかってくるかもしれない不快なもの、不気味なものとして意識されるようになる可能性がある。(中略)何かを欲しいと思っている自分を、自分は好きだと思っているし、欲しい物が見つかったときの自分は幸せだと思っている。それに対して、突然自分に襲いかかってくるかもしれない欲求をもてあましている現代の若者は(若者だけではないが)、その欲求を持った自分をわかるとか、好きだとか、幸せだとか、思いにくくなっているのではないだろうか。 同掲書 p134




たくさん選択肢があれば、選択肢がないより幸福なはずではなかったのか。



幸福感ではなく不安や不満ばかり


消費で幸せになるための前提として、ある消費を欲している自分が自分ではっきりわかっていることが不可欠だ。ところが、現代の消費者は常に『複数の自分』を持ち、そのうち一つを必ず『みんなと同じ自分』、つまり、『同調する自分』として持っていて、同時に、『人とは違う自分』つまり『差別化する自分』を持っていると三浦氏は指摘する。ところが、この差別化は無限に延長され拡散される。行き着く先が蜃気楼のようになっいて、いつまでたっても到達できない。その結果、アイデンティティは統合されるのではなく、無限に拡散していく。統合の幸福感ではなく、自我の拡散による不安や不満ばかり募ることになる


だが、それが解決されるためにはどうすればいいのか。



80年代の予言


ここで三浦氏は、80年代の半ばに出版された、劇作家の山崎正和氏の予言的名著『柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学』*2を引用して、高度消費社会と呼ばれる80年代の爛熟の果てに向かうべき先について言及する。山崎氏によれば、高度消費社会において、人々は『より多く、より早く、よりしばしば』という生産至上主義社会の原理=効率主義に疲れ、欲望があまりに簡単に満足されてしまうことで欲望も快楽も苦痛に変質し、選択の対象の数が増えて、人生が迷いの連続になる。


本来、「人間の消費行動はおよそ効率主義の対局にある行動であり、目的の実現よりは実現の過程に関心を持つ行動」なのであって、『いわば、消費とはものの消費と再生をその仮りの目的としながら、じつは、充実した時間の消費こそを真の目的とする行動だ』と山崎は結論づける。つまり、消費(Consumption)を自己充足(consummatory)に変換すること、これこそが消費の最終的な成熟の姿であると山崎は予言した。同掲書 P203





自己充足というキーワード


実を言えば、私も、山崎氏のこの本は読んでいた。ただ、時代を批判的に説明する希有の名著ではあると思った一方で、当時は、『充実した時間の消費』という部分が今ひとつ理解できなかった。『ものがない戦後すぐのような状態にならないと、ここでいう充足した消費の時代にはならない』と読めた。それは、文明史としては興味深いが、ものが溢れて止まらない時代にどう対処すればいいのか、という点について必ずしも納得のいく説明がないと感じたのだ。(現実に、それからすぐ時代はバブルというもっと手に負えない魔物に覆われてしまった。)だが、今回、自己充足(Consummatory)という一語で、長年の消化不良が解決した気がした。


この自己充足(Consummatory)の意味も『第四の消費』に参照してある。(それでもわかりにくければ、是非もっと自分で調べてみることをおすすめする。今後の時代を読み解く、実に重要なキーワードだからだ。)


「私の心は虹を見ると踊る」という、そのように虹を見て心が躍っている時が、コンサマトリーな時である。すなわち、性的なエクスタシー、芸術的な感動、宗教的な至福(bliss)のように、他の何ものの手段でもなく、それ自体として無償のよろこびであるような行為、関係、状態、時間、などが『コンサマトリー』な行為、関係、時間、などである。これに対して、賃労働、営利活動、受験勉強、政治的な目的のための組織活動など、それ自体の外部になる目的のための手段としてある行為、関係、状態、などが、『インストゥルメンタルな』行為、関係、状態、時間、などである』(見田宗介・栗原彬・田中義久編「社会学事典」1988) 同掲書 P197





資本主義との整合性


従来の消費というのは、本当に『インストゥルメンタル』だった。そして、近代の資本主義のシステムは『インストゥルメンタル』な消費が無限に拡大することで成り立っていたと言っても過言ではない。企業にとっても非常に都合が良かった。だが、消費者にとっては、それを無限に差別化しても、自分探しの道具にしても、答えを得られずに魔境に彷徨ってしまうことになる。『コンサマトリー』であることは、消費社会の成熟というより、文明の成熟そのものであるかもしれない。だが、従来の資本主義にとっては如何にも都合が悪い。究極の『コンサマトリー』はものの介在を経なくても満足できる状態と言っていいからだ。場合によっては、現代の資本主義の構造そのものを台無しにしてしまいかねない。『ものの介在がなくては幸せになれない』から『ものはなくても幸せになれる』という意識の変化は、資本主義市場を決定的に縮小する要因ともなりかねない。だからこそ、山崎氏に代表されるような、一度は真剣に議論された80年代的な消費への反省は、長く社会の片隅に追いやられたままだった。だが、いよいよもう限界が来た、という見方も出来るかもしれない。


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