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嘘っぱちでない「ラディカル」と出会った。堀茂樹とアゴタ・クリストフ『悪童日記』

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「巻を措く能わず」という言葉がある。

あまりに面白くてページをめくる手がとまらない、最後まで一気読みしてしまう――それほどまでに中毒的な書物に対して使う慣用句だが、私にとって、子ども時代の「没入する」読書体験を久々に呼び起こしてくれたのが、まさにこの本だった。

『悪童日記』。ハンガリー生まれの作家アゴタ・クリストフが1986年、母語ではないフランス語で発表した小説だ。無名の作家による50歳にしてのデビュー作品でありながら、世界中の読書好きの間で熱烈に支持され、やがて文学界を席巻するほどの評価を得る。

日本でも91年に邦訳が刊行され、口コミでじわりじわりと評判が広まり40万部を超すベストセラーになったが、この訳書を手がけたのが、これまた当時まったくの無名で一介のフリー翻訳者だった堀茂樹・慶応義塾大名誉教授だ。

堀さんの人生を変えたとも言える『悪童日記』との出会いはどんなものだったのか。私たちが「外国語」に接するという行為にはどんな意味があるのか。翻訳家という仕事とは? 突っ込んで聞いてみた。

「騙されてみるか」。読み始めたら止まらなくなった。


「悪童日記」三部作のフランス語ペーパーバック = 石川智也撮影

―『悪童日記』を初めて読んだときの興奮は忘れられませんが、堀さんにとってもこの作品との出会いは衝撃的なものだったらしいですね。

堀:忘れもしません、88年の初夏のことです。私は当時パリ18区の下町、どちらかといえば場末に近いような所に住んでいましたが、家の近くに、いかにも本好きの店主が自分の好きな本を並べるために開いた、といった風情の小さな本屋がありました。

その「アスファルト書店」という名の本屋に、ある土曜日の夕方ぶらりと入ったときに、友人でもある店主から「こいつは掘り出し物だよ」と薦められたのが、『悪童日記』と続編の『ふたりの証拠』だったんです。

彼が言うには、前年のクリスマスに、まだそれほど知られていなかった『悪童日記』を友人に贈ろうとしたら、相手がプレゼント用に持ってきた本も同じものだったらしい。目利きの読書人のあいだでは、すでに注目されていたということですね。

そんなエピソードを少し割り引いて聞きながらも、「まあ騙されてみるか」と購入し、読み始めたら、とにかく止まらない。フランスはその季節、夜9時を過ぎても明るいんですけど、窓辺でページをめくる手が本当に止まらず、夜までに読み終えてしまった。

この小説には人名や地名はまったく出てこない。舞台はおそらく、第2次大戦下の東欧の片田舎。語り手は双子の少年だ。戦禍を逃れ祖母に預けられた「ぼくら」は、人々を観察してサバイバル術を一から習得し、盗み、欺き、脅し、殺し、極限下を生き抜く。

そして、目に映った事実のみを、ひとかけらの感情も込めずに「日記」に記していく。その即物的過ぎる文体の奥底には、しかし、強い倫理観とヒューマニズムがほとばしっている。



堀:
心底、驚嘆しました。固有名詞はいっさい登場しないし、内面描写もまったくない。構成も文体も間違いなくオリジナルでした。

でも何よりも感心したのは、そのラディカルさ。見せかけの、噓っぱちのラディカルさではない、本物のラディカルさです。これほどナルシシズムから遠い、徹底的に抑制された表現の小説があるだろうか、と思いました。

それから朝までが長かった(笑)。パリの店は日曜日は休むのが普通ですが、アスファルト書店は日曜も午前中だけは営業しているのを知っていました。

シャッターが開くのを待ち構え、開店と同時に飛び込んで『ふたりの証拠』も買い、やはりその日のうちに読み終えました。

2作目はもっと強烈でした。このアゴタ・クリストフという人は紛れもなく本物だな、と確信しました。

 おばあちゃんは、ぼくらをこう呼ぶ。「牝犬の子!」人びとは、ぼくらをこう呼ぶ。「〈魔女〉の子!淫売の子!」

 罵詈雑言に、思いやりのない言葉に、慣れてしまいたい。ぼくらは台所で、テーブルを挟んで向かい合わせに席に着き、真っ向うから睨み合って、だんだんと惨さを増す言葉を浴びせ合う。(中略)言葉がもう頭に喰い込まなくなるまで、耳にさえ入らなくなるまで続ける。

 しかし、以前に聞いて、記憶に残っている言葉もある。
 おかあさんは、ぼくらに言ったものだ。
 「私の愛しい子!最愛の子!私の秘蔵っ子!私の大切な、可愛い赤ちゃん!」

 これらの言葉を思い出すと、ぼくらの目に涙があふれる。
 これらの言葉を、ぼくらは忘れなくてはならない。なぜなら、今では誰一人、同じたぐいの言葉をかけてはくれないし、それに、これらの言葉は切なすぎて、この先、とうてい胸に秘めてはいけないからだ。

 そこでぼくらは、また別のやり方で練習を再開する。
 ぼくらは言う。
 「私の愛しい子!最愛の子!大好きよ……けっして離れないわ……かけがえのない私の子……永遠に……私の人生のすべて……」

 いくども繰り返されて、言葉は少しずつ意味を失い、言葉のもたらす痛みも和らぐ。
(アゴタ・クリストフ『悪童日記』「精神を鍛える」より)

この本が日本に紹介されているのかどうか気になったので、フランスの版元に電話してみると、日本ではまだ翻訳権が取られていないとのことでした。それなら自分がやってみよう、と。

出版できる当てはまったくなし。それでもやりたくて、場末のカフェで毎日、一夏かけて一気に訳しました。ワープロも原稿用紙もないので、ノートに縦書き用のマス目を引いて書き込みながら。

翻訳を見下していた自分が翻訳を根本から考えた


―それまでに翻訳の経験はあったのですか?

堀:当時日本は日の出の勢いの「経済大国」でしたからね、ビジネス方面でフランス語と日本語のあいだの仲介をする仕事はちょいちょいありました。通訳の方が多かったですが、いわゆる実務翻訳もアルバイトで少しやってました。でも文学作品を訳すのは『悪童日記』が初めてでした。

私がパリに行ったのは78年で、19世紀前半の大作家バルザックを研究するためでした。「研究者たる者、翻訳などという二級の仕事に手を出すべきではない」という、いまから思えば実に浅はかな考えにとらわれていました。

政府給費留学生試験の成績だけは抜きん出ていたので、自分はできるなどと勘違いして、翻訳を見下していたわけです。

それでいて、フランスでの強烈なカルチャー・ショックで頭がクラクラして大学にあまり行かなくなり、街で出会ったフランス人らとの付き合いにのめり込み、アルバイトで食いつなぐという、まさにバルザックの小説に出てくるパリの巷の漂流者のようになっていた(笑)。そんなころ、アゴタ・クリストフの小説に遭遇したのです。

翌89年、日本に帰ってから三つの出版社に『悪童日記』の企画を持ち込みました。運よくそのうちの1社の文芸編集者が本気で「本にします!」と言ってくれ、出版が決まりました。

その段階で初めて、翻訳とはなんぞや、ということを根本的に考えることになった。というか、考えざるを得なくなりました。そして、全編を一から訳し直すことに決めました。


―既に訳した原稿があったのに、ですか?

堀:最初の訳文は、直訳というのとは違うけど、原文重視がマニアック過ぎるというか、フランス語の字面に密着しすぎたものでした。いわゆる「直訳」は、辞書的に言葉を別の言語に置き換えているだけで、まったく「忠実な訳」とは言えません。

では忠実な訳とは何かと言えば、ひとつひとつの単語や表現レベルで忠実ということではなくて、例えば『悪童日記』なら、そのフランス語のテクスト全体が含んでいる意味作用やイメージ喚起を、日本語の世界で起こすことに成功しているもののことです。

センテンス単位で「これは名訳だ」とか評価することには、まったく意味がない。

ちょっと分かりづらいかもしれませんが、本居宣長の言葉に「姿は似せがたく、意は似せやすし」というものがあります。翻訳はあくまで「模写」で、決してオリジナルにはなれません。でも、特に文芸翻訳は、テクストの意味だけでなく、姿まで似るように工夫しなければならない。

それは、原作者がもし日本語で書いたらこう書くだろうという訳文を目指すということです。もっと厳密に言えば、原語のネイティヴがその本を読んでいる時に頭の中に意味やイメージが流れていきますね、その体験と近似的な体験を日本語の読者にもしてもらうように仕組むということです。

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