- 2019年12月24日 11:51
患者が望まない延命治療を行うことは常に正当化できないパターナリズムか――『死ぬ権利はあるか』出版に寄せて - 有馬斉 / 倫理学
3/37.フォーマルな判断力評価の手続きにしたがってもパターナリズムはなくならない
先のパネルディスカッションにおける質問の例の中の医療者の考えかたについては、ここまで、それがパターナリスティックであることを指摘した。加えて、治療を拒否する患者にたいする最初のリアクションとしてはひとまず自然で、場合によっては適切でもあると思われることも述べてきた。さてしかし、以上の点には、いくつか補足しておかなくてはならない。
死にたいという患者は皆うつで、判断力に欠ける、という言い分は、いいたいことはよく分かる気がする一方で、少し雑な印象があることも否定しがたい。
患者の判断力の測定と評価にかんしては、近年、比較的かっちりとした方法論やそのための様式などが開発されてきた。上の例のようなしかたで、担当医のいわば直観により判断力を疑われた患者であっても、もしかすると、フォーマルな手続きを踏んで改めて測定、評価してみれば、判断力はあると分かる可能性があるかもしれない。また、今の言い分については、事実理解の点でまちがいを指摘できるところもあるようだ。ここから先に述べることは出版した本の中で詳しく述べたことなので、かんたんに要点だけ述べておきたい。
まず、死にたいという患者を(ただ死にたいといっているからというだけで)すべてうつの状態にあると理解することは、おそらくまちがっている。実際に死にたいという重度の病人を対象に、うつの症状がどのくらい一般的かを調べた調査研究がある。ひとつ概要を紹介しよう。
1999年から2003年にかけてオランダで実施された調査である。オランダでは、いわゆる積極的安楽死や医師による自殺幇助(致死薬の投与と処方)が合法化されている。調査では、実際に致死薬の処方か投与を受けて死ぬことを希望していた人、12人にたいし、インタビュー(面談)を行い、うつ状態にあるかどうか評価した。評価に用いたのは、一般にうつの診断に用いられることの多いCIDIと呼ばれる様式である。その結果、深刻なうつ病と診断されたのは2人しかいなかった。尚、この調査に参加した患者の大半は、そのあと実際に致死薬の処方か投与を受けて亡くなっている。他の同様の調査では、うつの人の割合がもう少し高いものもあるが、それでも百パーセントではない(注9)。こうした調査の結果があることを踏まえると、生命維持に必要な透析を拒否する患者についても、すべての人がうつの状態にあるという考えは、事実として正しくない可能性が高そうだ。
(注9)van der Lee, Marije L. et al., 2005, “Euthanasia and Depression: A Prospective Cohort Study Among Terminally Ill Cancer Patients,” Journal of Clinical Oncology, 23(27), 6607-12. この調査(とまた同様の他の調査)については、出版した本(『死ぬ権利はあるか』)の[3-4]節でさらに少し丁寧に紹介し、検討してある。
また、患者の判断力の測定と評価にかんしては、これまでに方法や様式が開発されてきた。この分野の標準的な教科書は、いずれも、判断力評価の場面で、治療にかんする患者の選択の内容(これこれの状況でこれこれの治療を選択/拒否しているということ自体)が考慮されることにたいしては批判的だ。本稿で述べてきたことからも分かるとおり、もしも選択の内容に基づいて判断力の有無が評価されるならば、患者には結局のところ、担当医の価値観から大きく外れた医療を選択することがまったくできなくなってしまう可能性がある。医師の提案する治療を拒否する患者は、いつでも「この状況でこの治療を拒むなんて合理的とはみなせない」からという理由で、判断力不足とみなされ、自己決定する機会を奪われかねない(注10)。
(注10)ハーバード大学の生命倫理学研究者であるダン・ブロックは次のように述べている。「判断力不足の判定をその患者の選択の内容に基づいて行おうとすると、正しい選択にかんする何らかの「客観的」なスタンダードに訴えることが避けられない。[…]たんに治療にかんする当人の選択が何らかの外部にある、客観的とされるスタンダードと一致しないからというだけで患者が判断力不足とみなされるなら、自らにとって価値があることを定める患者の能力を尊重することはできなくなる」(Dan Brock, 1993, “Informed Consent,” in his Life and Death, Cambridge University Press, 21-54: p.41)。
そこで、開発されている様式や方法はどれも、患者の選択の内容ではなく、その選択にいたったプロセスに注目している。邦訳も出ているグリッソとアッペルボームの『治療に同意する能力を測定する』は、この分野の代表的な教科書のひとつである(注11)。この本によれば、患者を判断力ありとみなすことができるために必要な条件は、四つある。①患者が自分の希望を表明できること、②治療にかんして医療者からなされた説明の内容を理解できること、③治療にかんして説明されたことを自分の状況に当てはめて理解できること、④選択肢の可能性や起こりうる結果を比較したり評価したりするための論理的な思考ができること、の四点である。
(注11)トマス・グリッソ、ポール・S・アッペルボーム、2000年、『治療に同意する能力を測定する:医療・看護・介護・福祉のためのガイドライン』(北村總子、北村俊則訳)、日本評論社 [Thomas Grisso and Paul S. Appelbaum, 1988, Assessing Competence to Consent to Treatment: A Guide for Physicians and Other Health Professionals, Oxford University Press]。
判断力の評価に際しては、これらの点を、患者の選択の中身とは切り離して直接に確認しなければならない。具体的には、自分の病状や、医師から提案されている治療の内容、治療しなかったときに予想できる結果などを、患者に自分のことばで説明してもらうよう促す種類の質問をし、答えてもらう。
尚、患者の同意を得るときにはいつでもこのような煩雑な手続きをとる必要があるということではもちろんない。今の教科書では、手続きをとることが望ましい場合の例として、たとえば「患者が治療を拒んだとき」や、「患者がとくに侵襲性の高いあるいは危険な治療に同意するとき」を挙げている(注12)。
つまり、こういうことだ。先にも述べたとおり、患者の選択の内容が本人の利益を大きく損なうように思われる場合、医療者が患者の判断力の低下を疑うのは自然である。しかし、それはあくまで、最初のリアクションでなくてはならない。疑いがあれば、そこからさらに、フォーマルな手続きに則って、患者の判断力を丁寧に測定、評価することができる。また、丁寧に測定すれば、少なくとも原理的には、たとえ医師の提案した治療を拒否している患者であっても、当の治療の内容やリスク等についてはよく理解し、検討できていることがあきらかになるかもしれない。判断力ありとみなされる可能性がある。
(注12)同上、65&68頁。
以上をもってひとつまえの節で述べたことにたいする補足としよう。さて、しかし、以上を確認したうえで、もういちど最初の問題に戻って、次の点だけ述べておかなければならない。実のところ、プロセスに注目する様式を使用しても、判断力評価の手続きからパターナリズムの要素が完全になくなるということはない。判断力不足だからという理由で患者の選択を否定する医療者のふるまいは、依然として、あからさまなパターナリズムと実質的に区別できない場合がある。
これは次のような事情による。プロセスに注目する基準は、理解力や思考力のていどを測定する。しかし、判断力があるとみなされるために必要な理解力や思考力のていどは、実はどんな場合でも常に同じであるとは考えられていない。たとえば前掲の教科書によれば、必要とされる理解力などのていどは、患者が希望している治療の選択肢に伴うリスクの大きさによって変わる。希望されている治療のリスクが大きいと、その分だけ、患者にはより高い理解力や思考力が要求されるというのである(注13)。
(注13)同上、25頁。
ここは具体的な例にそくして考えておくのが分かりやすいだろう。たとえば、虫歯の治療を延期したいという患者があるとしよう。虫歯の状況がそれほど深刻でなければ、この選択にともなう危険は小さい。本人は、リスクを理解し、いずれにしても近いうちにまたクリニックへきて治療する必要があることを了解したうえで、今日は治療したくないといっている。この場合、たとえば患者に何らかの精神疾患があったり、あるいはまだ小学生だったりしても、患者のことを判断力ありとみなして当人の選択を尊重することに問題はないと思われるだろう。
他方、患者がたとえばがんの治療を延期したいといったらどうか。延期することに伴うリスクが大きいと、あまりかんたんに患者の意向を尊重するべきではないように感じられてくるだろう。患者がリスクについてしっかりと理解し、考えていることを丁寧に確認することが必要だと思われるにちがいない。リスクの大きさによっては、あるていど以上重度の精神疾患がある人や幼い患者が持ちうる理解力や思考力があるだけでは、選択を本人に委ねるわけにはいかない。そう考えられる場合も出てくるはずである。
判断力評価の基準は、患者の選択にともなうリスクの大きさに合わせて、厳しくなったり緩くなったりする。この考えかたは、判断力評価の基準におけるスライド式モデルなどと呼ばれる。スライド式モデルもまた、前掲の教科書だけでなく、この分野の指針やテキスト等がどれもほぼ例外なく採用している標準的なモデルである(注14)。
(注14)前掲のグリッソとアッペルボームの共著の他では、R・フェイドン、T・ビーチャム、1994年、『インフォームド・コンセント』(酒井忠昭、秦洋一訳)、みすず書房 [Ruth Faden and Tom L. Beauchamp, 1986, A History and Theory of Informed Consent, Oxford University Press]; Allen Buchanan and Dan Brock, 1990, Deciding for Others, Cambridge University Press, 1990, Ch.2; United States President’s Commission for the Study of Ethical Problems in Medicine and Biomedical and Behavioral Research, 1982, Making Health Care Decisions: A Report on the Ethical and Legal Implications for Informed Consent in the Patient-Practitioner Relationship Volume One: Report, October, Ch.3;等.
重要なのは次の点である。スライド式の基準によれば、患者の選択にともなうリスクが大きいほど、患者にはより高い理解力や思考力が求められる。さてしかし、特定の治療選択がもたらす利益やリスクについて、それをどのくらい深刻なものとみなすか。またとくに、リスクがどのくらい深刻であれば、理解力や思考力はどのくらいしっかりしていなくてはならないか。これらの点は、それに答えようとすると、価値判断を下すことが欠かせない。
たとえば、生命維持に必要な透析を拒否するという選択の場合、これにともなうリスクはどのくらい大きいリスクなのか。透析を受ければ3、4年は生きられるが、受けなければ1週間で亡くなる。亡くなる直前には呼吸困難などの苦しい身体症状が出るかもしれない。これらのことは、どのくらい大きいリスクだというべきだろうか。また、このリスクの大きさからすると、本人の選択に委ねてよいといえるためには、患者はどのくらいしっかりした理解力や思考力を有していなくてはならないか。
これらは、価値判断を下さずには答えることができない問題である。実際、評価を担当する医療者の価値観によって、答えが変わってくるところもあるだろう。透析を受けながらであっても数年間は生きられるということを非常に重要で価値のあることだと感じる医療者なら、患者には最高度にしっかりとした理解力や思考力があることを要求するかもしれない。たとえば、少しでも気分の落ち込みがあるなどして理解力が低下していると思われたら、治療の継続を拒否する患者はそれだけで、リスクの大きさに鑑みて、判断力不足とみなされるかもしれない。
そこで、たとえフォーマルな手続きに則ってなされた結果であっても、患者を判断力不足だと結論する医師の評価には、あくまでパターナリスティックな側面がある。平たくいえば、そのとき医療者は、リスクの大きさを見た上で、リスクが大きすぎるから患者の選択には任せられないと判断しているのである。これでは、患者の自己決定よりも患者の利益を優先するパターナリズムを実践しているのと実質的に区別できない(注15)。
(注15)ただし、患者の中には、重度の意識障害がある人や、乳児など、意向を表明することさえできない人もいる。こうした場合は、リスクの大きさと理解力を秤にかけるまでもなく、最初から患者を判断力不足とみなすことができる。しかし、そういったケース以外では、患者を判断力不足とみなす医師の評価には常にパターナリスティックな側面がある。
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パネルディスカッションで質問をした方のいうことは、私には、とてもよく分かる気がしていた。生命維持に必要な透析を中止して患者を死亡させることが容認されるべきか。これは人々の意見が分かれるところである。「終末期」という表現がしっくりこないくらいにあるていど長い予後を見込むことができる場合では、とくにそうだろう。たとえば、年単位の生命維持を期待できるようなケースでは透析を中止することは決してしない、という立場は、今の社会の理解や実践に鑑みても、決して極端な立場ではないだろう。私はまた、この立場そのものは倫理的にも正当化の余地が十分あると思った。
正当化できるとすればそれは、ひとつには、個人の自己決定を尊重することにある価値がそこまで重要なものではないからだ。個人の自己決定には確かに価値がある。これを否定することはないが、しかし、ときにはそれよりも優先して守られなくてはならない重要な価値が他にもある。患者の利益はそのひとつだろう。
パターナリズムということばは肯定的な意味では使用されにくい。しかし、本稿で示したとおり、現実の臨床でも、当人の利益を守るという目的のために患者の自己決定が否定されることは、かなり広く行われているものと考える他はない。「終末期ではないから」や「判断力を欠いているから」といった表現のうしろに隠れて、少しそのことが見えにくくなっているにすぎない。
また、出版した本の中では、個人の自己決定に優先して守られなくてはならない可能性のある価値として、もうひとつ、人の命そのものが持つ価値についても論じた。ここで詳しくは触れないが、患者の死期を早めうる医療者のふるまいの是非についていろいろな立場の人が感じていることの一部をうまく説明するためには、この価値のアイデアにも注目する必要があると考えている。くりかえせば、こういったアイデアや考えかたをひとつひとつ丁寧に検討することが、この問題についてよく考えるためには必須と私は考えている。
有馬斉(ありま・ひとし)
倫理学
横浜市立大学 国際教養学部准教授。1978年生まれ。国際基督教大学教養学部卒。米国ニューヨーク州立大学でPhD(哲学)を取得。東京大学生命医療倫理教育研究センター特任助教等を経て、2012年より現職。また、現在、横浜労災病院倫理委員会、慶應義塾大学医学部倫理委員会で外部委員。専門は倫理学、生命倫理。日本生命倫理学会若手論文奨励賞、日本倫理学会和辻賞を受賞。近著に『死ぬ権利はあるか―安楽死、尊厳死、自殺幇助の是非と命の価値』(春風社、2019年)。





