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患者が望まない延命治療を行うことは常に正当化できないパターナリズムか――『死ぬ権利はあるか』出版に寄せて - 有馬斉 / 倫理学

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5.終末期の定義と価値判断

尚、以上で述べたのは現実の臨床で広く実践されているパターナリズムの一例だが、これがパターナリズムであるということは、ふつうあまりはっきりとは認識されていないようである。たとえば、ガイドラインにしたがって、容体が比較的軽い患者にたいしては透析の中止について話し合わない医師のことを「パターナリスティックだ」と形容する人はまずいないだろう。

これは、ひとつには、先述のように、パターナリズムという表現がすでに否定的な響きを持つようになっているからだろう。社会的に広く容認されている態度を形容するときには、この表現は使いづらい。

しかしまた、ここにはもうひとつ、「終末期」ということばに特有の事情もおそらく存在する。

終末期かどうかの判断は、たいてい、医学的な判断だと思われている。医学的な判断、というのが正確なところ何を意味するのかは、実は明確ではない。しかし、それが客観的で、科学的な根拠を持つ判断であるということは、含意の一部とみなしてよいだろう。またしたがって、それが価値判断を含むものではないということも、おそらくは含意の一部になっていると思われる。このため、「終末期ではないから」という理由で治療が継続されたり、治療の見送りについて話し合いが持たれなかったりしても、そこで価値にかんする判断が下されているということは見えにくい。自己決定を優先することにある良さよりも、利益を守ることの良さを優先した結果の判断であることも、見えにくくなる。

しかし、これはもちろん、正しい見えかたではない。かりに今、終末期かどうかの判断についてはそれが純粋に科学的なものだと認めることにしよう。しかしそれでも、「まだ終末期ではないからという理由で患者の望まない治療を続けることが正当化できる」という判断は、科学的なものではありえないからだ。それは、終末期ではないこと(そしてそのために治療が患者の利益になると思われること)を患者の自己決定よりも重視する価値判断に他ならない。

また、実のところ、終末期かどうかの判断は、それ自体、純粋に医学的なもの、科学的なものとはみなしにくい。

関連する国内の各種ガイドラインの中では、「終末期である」という表現は、延命治療の見送りについて検討することが容認できる局面を指すことばとして使われている。現実の医療者がこのことばを口にするのを聞いていても、この含意があることはたいていあきらかだ。たとえば、どんなに治療しても生命の維持や延長にまったく効果がない(一日たりとも延命できない)と思われるときだけ「終末期だ」といっているわけでは決してない。

もちろん、一方では、期待できる余命があるていど以上長い場合には、終末期という表現はしっくりこない。このことばを使用することに違和感がある。当然、余命の長さにかんする判断は医学的な知識を必要とするから、その意味では、終末期かどうかはやはりその大きな部分が医学的な判断だといってよいのだろう。しかし、他方では、これもよく指摘されるとおり、ある患者の状態が終末期であるかどうかは、期待できる余命の長さだけでは決まってこない。病気の種類によっても、何が終末期かの判断は違ってくる。たとえば慢性疾患と急性疾患とを比べるだけでも、終末期ということばが違和感なく使用できる状態は、余命の長さにかんして、かなり異なる(注5)。

(注5)たとえば日本学術会議 臨床医学委員会終末期医療分科会の報告書「終末期医療のあり方について」(2008年)は、終末期を急性型と亜急性型と慢性型の三つに分け、各タイプで生命予後にちがいがあるとしている。

そこで、ありていにいってしまえば、終末期かどうかの判断とは、治療した場合の回復の見込みや余命の長さと、生命維持にともなう不都合や痛みや不快感の大きさとを、天秤にかけた結果の判断を含みこんだ判断なのだ。期待できる余命が短いのに不快感が非常に大きいなどして、生命維持に必要な治療でも患者に勧めることが必須とまでは思われない場合、「終末期である」という表現は、しっくりくる。臨床でこのことばが使われるときに医療者や患者、家族が持つ実感は、おおよそこのようなところにあるのではないか。

したがって、「まだ終末期ではない」というひとことは、それ自体がそのようにいう人の価値判断を表現している。端的にいえば、治療を見送るかどうかについて患者の自己決定が優先的に尊重されるべきとはいえないくらい、治療することの利益がまだ十分に大きい、という判断を表現していると理解できるのである。

6.「患者が判断力を欠いているから」?

以上で述べたのは、現実の臨床で広く実践されているパターナリズムの一例である。もうひとつ、例を挙げておこう。

これから述べる例は、出版した本の中でもとくに丁寧に論じたタイプの例なのだが、実は最近、こうしたケースについて聞く(個人的な)機会があった。本書を出版した少しあとの5月、日本臨床倫理学会が、やはり福生病院のケースを主題とするシンポジウムを企画し、私もパネリストのひとりとして呼んでいただいた。そのときのことである。

当日は、企画して下さった方がいくつかの論題を予め設定していたので、これについて医療や法律を専門とする他のパネリストの方々と意見を交わした。ひととおり意見交換を終えたあと、フロアからも質問をいただいた。その中に次のような質問があった。

手を挙げて発言されたその方は医師だった。私の記憶しているかぎりで発言の内容を再構成してみれば、おおよそ次のようなことだったと思う。自分が働いている病院にも、透析をもう止めたいという患者さんはおられるが、実際に中止することはまずない。病院の医療者が、そういう患者さんの希望にしたがおうとしなかったり、透析を実際に中止しなかったりすることには、理由がある。慢性の腎不全などで透析を止めたいという患者さんは、つまりは死んでもかまわないといっているわけだ。しかし、この状況で死んでもかまわないといい出す人は、率直にいえば、うつの状態にあると考えられる。精神的につらく落ち込んでいるのであり、合理的な判断ができる状態にあるとはみなしにくい。そのような患者さんの希望を、そのまま真に受けて尊重するわけにはいかないだろう。———

正確を期していえば、発言の様子から察するに、発言された方が自分でこのように考えているということでは必ずしもないようだった。ただ、その病院で、透析を止めたいという患者のことばを直に聞く立場にある他の医療者の中には、以上のように考えている人もある。さて、このような考えかたについてどう思うか、というのが当日の質問の趣旨だったと記憶している。

この質問が出たとき、質問に答えるためにマイクをとったのは、私ではなく、他のパネリストの方だった。このパネリストも医師で、ご自身が透析中止に携わってこられた経験から、患者さんに精神的な問題がないかはまずしっかり確認する必要がある、と答えられた。専門の医師にも介入してもらうなど、具体的な手続きについても話をされた。

実臨床で見られるパターナリズムの例として本稿でもうひとつ挙げておきたいのは、以上のようにして医師が患者を判断力不足とみなす場面で起きるケースである。私としては、患者を判断力不足と評価するという手続きそのものにパターナリスティックな側面があるということは、ほとんどどんな場合でもいえるごく一般的なことだと捉えているが、このことについては後述するとしよう。ひとまず、今のシンポジウムにおける質問の例にそって考えてみたい。

質問をした方が例として挙げた医療者は、患者が透析を止めたいといってもそれは尊重しなくてよいという。理由は、表向きには、患者が判断力を欠いているから、ということにある。しかしでは、なぜ患者が判断力を欠いているとみなされるかというと、その根拠は、患者が生命維持に必要な透析を止めたいといった、というそのこと自体にある。

透析を続けさえすれば生命を維持できる状況である。それにもかかわらず透析を続けずに死んでしまってもかまわないなんて、合理的な判断ができる状態の人が言い出すこととは思えない、というわけだ。しかし、なぜそう思えないのか。丁寧に考えていけば、ここでもさらにいくつかの理由を想像できるが(注6)、やはりストレートな解釈は、透析を続けないという選択に伴う不利益やリスクが大きすぎるように感じられたから、という理由だろう。上の例の中の医療者の目から見て、この状況で透析を拒否するという選択は、患者にとっての不利益が大きすぎるように思われたのだ。合理的にものごとを理解したり、考えたりできる人なら、そのような不利益を自分で望むとは考えにくい。だから、うつの状態にあることが疑われた。このように理解するのが自然だろう。

(注6)たとえば、ただ単純に、死んでもかまわないと言い出す人はどんな場合でもすべてうつの状態にちがいないと考えられていた可能性もある。この考えがおそらくまちがっているといえる理由については、本稿の7節で述べた。

実際、私には、これと同じ趣旨のことを医師がいうのを聞いたことは何度もある。しかしまた、やはり同様の考えかたには、これと少しちがうセッティングで毎年のように接してきてもいる。

医学部や看護学部や薬学部などの講義では、患者の判断力の有無が問題になるケースを用いて学生にグループ・ディスカッションをしてもらうことがある。たとえば、未成年のエホバの証人(ものみの棟聖書冊子協会)の信者が生命維持に必須の輸血を拒否するケースを映像資料で見てもらう(注7)。すると「この状況で輸血を拒否するなんて合理的とは思えない」とか、だから患者の意向は尊重しなくてもよい、といった意見は頻繁に出てくる。このようにいう学生たちも、患者の選択の内容を見て、そこから判断力の有無を評価している。選択の内容(輸血するだけで生命を維持できるのにそうしないこと)を見て、それに伴う不利益があまりにも大きいと思われる場合、患者の判断力が疑われてくる。これは、自然な反応だというべきだろう(注8)。

(注7)カナダ国立映政策庁、赤林朗日本語版監修、1995年、「花のプレゼント」(DVD)、丸善.

(注8)ただし、とくにこの事例では、学生が患者の判断力や合理性を疑う理由の一部は、患者に信仰があるということにもある可能性がある。

尚、いうまでもないことかもしれないが、これはあくまで学生の意見である。臨床でエホバの証人の信者と実際に話した経験のある医療者の中にも同様の反応をする人が同じくらい多いということではおそらくないだろう。私は、横浜市立大学附属病院の医師から依頼を受けて、しばらく前から、エホバの証人の医療機関連絡委員会の方と不定期に面談してきた。私は判断力評価の専門家ではないが、輸血拒否について意見を交わしたときの信者の人の話しぶりは、たとえば後述の四要件に照らして問題があるようなものとはまったく思えなかった。かりに自分の健康や生命の維持に必要な輸血を拒否するときもかれらが同様の話しぶりをするのだとすれば、たとえかれらの輸血を拒否するという自己決定を否定することが最終的に倫理的に正当化できるとしても、判断力不足を理由にするのは適当なことではないというべきだろう。

また、実のところ、こうした疑いを抱くことは、少なくとも最初のリアクションとしては、多くの場合で適切なことでもある。これは重要な点だから強調しておこう。

死にたいという気持ちのことを希死念慮という。希死念慮は、一般に、うつの典型的な症状のひとつだと理解されている。最近は、学校や職場などでも、学生や職員を対象に、メンタルヘルスの状態を確認するためのアンケートが実施される。アンケートではよく「最近、死にたいと思うことがありましたか」のような希死念慮の有無をきく設問がある。「はい」と答えると、うつなどの精神的な問題があることが疑われる。メンタルヘルスの専門家と面談するよう勧められるなど、学校や職場からアプローチがかかることもある。

身近でだれか死にたいといい出す人があったら、と考えてみよう。もちろん、その人を取り巻く状況が現実にそうとう苦しいのだろうと思いやる面はあるにちがいない。しかしまた、その一方で、当人が気分を落ち込ませているために、状況を現実以上に深刻に捉えすぎているのではないかと疑う面もあるはずである。うつのときは、意欲が低下し、視野が狭くなる。複雑なことは考えにくかったり、以前は楽しかったことが楽しめなくなったりする。だから、もしかすると、たとえば周囲がいくらか時間をかけて見守るだけでも、本人は精神的に少し落ち着くかもしれない。状況を今よりまえ向きに捉えるようになったり、死にたいと言わなくなったりするかもしれない。こうした可能性は容易に想像できる。

同じことが、治療をすれば生きられるのに止めたいという人についても当てはまる。本人の希望だからとすぐに治療を中止するより、まずはうつや落ち込みの可能性を考慮して、精神的なケアや治療を検討してみることが重要である。そこで、少なくとも最初のリアクションとしては、医療者など周囲の人が患者の理解力や判断力を疑うことは、たんに自然であるというだけでなく、適切なことでもあるはずだ。

したがって、念のためにいえば、私は、上の例の医療者のような考えかたが、倫理的にまちがっていると言いたいのではない。ただ、この考えかたがパターナリスティックでありうるということは、否定できないと思うだけだ。

上の例の中の医療者は、透析を中止したいという患者の意向を、患者が判断力を欠いているからという理由で尊重しようとしない。しかしなぜ判断力を欠いているとみなしたのかといえば、おそらくそれは、透析を中止したいという患者の選択が患者自身の利益に著しく反しているように思われたからなのだろう。これでは結局、パターナリズムを実践していることと実質的には区別できない。端的にいえば、透析を中止したいという患者の自己決定を、その決定が患者の利益にならないと思われるからという理由で否定していることになるからである。

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