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患者が望まない延命治療を行うことは常に正当化できないパターナリズムか――『死ぬ権利はあるか』出版に寄せて - 有馬斉 / 倫理学

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1.はじめに

今年の2月に『死ぬ権利はあるか―安楽死、尊厳死、自殺幇助の是非』(春風社、2019年)を出版した。580頁と少しぶ厚い本になったが、これを丸ごとかけて、人の死期を早めたり、生命を維持しなかったりすることの是非について論じた。具体的に取り上げたのは、主として、臨床で生じるケースである。いわゆる安楽死、尊厳死、医師による自殺幇助などと呼ばれる一連の医療者のふるまいに焦点を当てた。

本書の主題にかんして、国内での議論がとくに活発になったのは、二〇〇〇年代の前半からだろう。北海道や神奈川県、富山県など、国内各地の病院で、人工呼吸器などの医療の使用を中止して患者を死なせたとして、医師の逮捕されるケースが相次いだ。

また、同時期にはベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国や、アメリカ合衆国内の複数の州で、患者の死期を早めるために致死的な薬物(バルビツール酸や筋弛緩剤)を処方あるいは投与することが合法化され始めた。

私もやはりおおよそあの頃からこの主題について研究し始めた。数えてみれば十年以上、このテーマとはつきあってきたことになる。

本書を出版したあとも、人々の注目を集めるできごとがいくつかおきた。今年の3月には、東京都の公立福生病院で人工透析を再開せず亡くなった患者のケースが、毎日新聞などのメディアで大きく取り上げられ、話題になった(このケースについては、関連の論点に本稿でも下で少し触れてみたい)。6月には、神経難病を患い、致死薬の処方を受けるためにスイスへ渡航して死亡した日本人のケースが、NHKスペシャルで放映された。死亡の瞬間まで映し出し、大きな反響を呼んだようである。また、7月の参議院議員選挙では、安楽死制度を考える会を名のる政治団体が、比例代表区に候補者を出したことも記憶に新しい。こうした事例や報道をきっかけに、関心が出た人には、ぜひ本書を手に取ってほしいと思っている。

2.アーギュメンタティヴな本

本書の一番大きな特徴は、ひとことでいうなら、アーギュメンタティヴ(argumentative)なところにあると思っている。日本語でこれとちょうど同じ意味や響きを持つことばを見つけるのは少し難しいように思うが、あえて訳せば「論証的」といったところだろうか。自分の立場をはっきり示すとともに、それが他の立場より正しいと考える理由を示しながら、論証していくスタイルをとった。

このテーマにかんしては、さまざまな立場や経験や知見を持つ人々から、すでに数多くの意見が表明されてきた。本書では、公けにされている意見を広く、網羅的に取り上げて整理した。同時に、ひとつひとつの意見についてできるだけ詳しく検討を加えた。検討を踏まえたうえで、私自身の結論もはっきりと分かるようにして述べてある。

患者の死期を早めたり、生命を維持しなかったりすることについて、人々が容認できると考えたり、反対したりするのはなぜか。どのような考えかたが根拠にあるのか。

患者の死期を早めることにつながる医療者のふるまいと一口にいっても、具体的に見ていくと実態はケース毎にさまざまである。福生病院の透析中止と、スイスの自殺幇助とを比べるだけでも、受ける印象はかなりちがうだろう。そのため、実際、容認できると思うかどうかも、ケース毎で人の意見はちがってきうる。たとえば、福生病院のケースは許容できるが、スイスのケースは許されるべきでない、といったようにである。

しかし、他方では、患者の死期を早めることが容認できると主張されるときには、具体的に容認できると思われているケースがどんなケースであっても、その根拠になっている考えかたは多くの場合で共通している。

もっともよく持ち出されるのは、死にたいという患者の自己決定を尊重することに価値があるという考えかたである。もうひとつは、病気にともなう苦痛から解放されることが患者の利益になるからという考えかたである。また、ときおり、高額な延命医療の利用を控えることでもたらされるとされる経済的な利益の価値が言及されることもある。

また、患者の死期を早めることについては、反対意見の人も少なくない。反対する人々は、まず、安楽死や尊厳死を合法化すると、機能障害者や低所得者などの社会的弱者に圧力がかかるのではないかと懸念してきた。社会的弱者の生命を長く維持しようとすると、周囲に負担がかかりがちである。このため、かれらにたいして周囲から延命を諦めて早く死ぬよう圧力がかかるかもしれないというのである(注1)。

(注1)この論点は、2015年にこのウェブサイトに掲載していただくために執筆した論文 (有馬斉、「尊厳死の合法化は社会的弱者にとって脅威か」、シノドス、2015年2月26日(http://synodos.jp/welfare/11862)) で詳しく検討した。出版した本の第4章はこの論文に加筆したものである。

また、もうひとつの反対論は、先に見た容認論の考えかたを正面から否定するタイプの意見である。容認派の人々は、患者が死にたいといっていることや、周囲から見てもそれ以上生きることが本人の利益になると思えない場合があることを強調する。しかし、中には、このような理由で命を破壊するのは命が持つ価値にたいする冒涜であるかのように感じる人もいるかもしれない。ひとつの重要なタイプの反対論の根拠にあるのは、このような感覚である。人の命には、たとえ本人がそこに価値を見い出せず、また、それ以上生きることが本人にとって良いことでなくても、依然としてそれ自体に大きな価値があり、だから破壊してはならない、というわけである。このような仕方で人の命に宿っているとされる価値のことは、従来、生命の神聖さや人格の尊厳などと呼ばれてきた。

本書では、これらの賛成意見と反対意見をひとつひとつ、それぞれに一章ずつ割り当てて、丁寧に検討することを試みた。どの意見も、いわゆる安楽死や尊厳死や自殺幇助の是非が問題になるときには、必ずといってよいほど出てくる重要な意見ばかりである。この問題をよく考えたといえるためには、少なくとも以上の意見については一通り理解し、検討を加えておくことが必須と思われる。


3.個人の自己決定よりも重要な価値

今回この紹介記事の執筆を依頼してくださったシノドスの担当の方からは、出版した本の中で扱ったトピックのいずれかに焦点を当てて、少し掘り下げた解説を入れてみてはどうか、と提案をいただいた。

本の中で取り上げた論点や、論証を試みた主張はたくさんあるが、本論の最初の章の中心的なテーマのひとつは、自己決定とパターナリズムである。

上で述べたように、容認派の人々がもっともよく訴えるのは、個人の自己決定が尊重されることの良さである。これは、生命維持に必要な医療の見送り(いわゆる尊厳死)が容認されているべきだという人々にも、致死的な薬剤の投与(いわゆる安楽死)が正当化できると主張する人々にも、共通する点である。本人が死にたい、死んでもかまわないといっているのだから、その意向が尊重されるべきだ、というわけである。

本の中では、この考えかたをじっくり、さまざまな方向から検討した。一般論として、人生の重要な場面で個人の自己決定が周囲から尊重されるようになっていることに価値があるのは、いうまでもない。しかし本書では、ときとしてこの価値にも優先して守られるべきことのある価値が、とくに臨床においても他にまだいくつかあると思われることを指摘した。そのために、自己決定の価値に訴えていわゆる尊厳死や安楽死を擁護するタイプの主張には、限界があると結論した。

場合によって自己決定より優先するべきと思われる価値のひとつは、患者の利益である。一般に、その人自身の利益を守るために、個人の自己決定を否定したり覆したりすることを、パターナリズムという。パターナリズムということばは、とりわけ臨床では、否定的な意味で使用されることが多い。たとえば、「あの医師はパターナリスティックだ」のようにいわれるとき、そうしたいいかたにはほとんど確実に当の医師を非難する響きがある。しかし、本書では、臨床でも、パターナリズムは正当化できることがあると主張した。

論拠としたのは、大部分は、現実の臨床における実践のありようである。パターナリズムというと聞こえは悪いが、現実の臨床では、患者の自己決定よりも患者の利益を優先して守るということは日常的に行われている。また、このことは、それがパターナリズムであるということを確認した上で改めてしっかり考えてみても、非難されるべきこととは思われない。

本稿でも、現実に実践されているパターナリズムの例をいくつか挙げてみよう。

4.「まだ終末期ではないから」?

たとえば、先ほど触れた東京都の公立福生病院の透析中止のケースを考えてみよう。

ケースの患者は、もしも透析を再開していれば、あと数年(毎日新聞の記事によれば「3~4年間」)生きることができていた可能性があるという(注2)。ケースを問題視した人々は、この点が、終末期医療の倫理にかんして国や学協会によって公けにされている各種ガイドラインの規定に反しているのではないか、と疑問の声を上げた。各種ガイドラインは、いずれも、生命維持医療の差し控えや中止が場合によって容認できるとしているが、同時に、患者の病態が終末期にあることをその条件としている。透析を再開しさえすれば年単位の余命が期待できた患者を終末期とはみなすのはおかしいのではないか、というのが中心的な疑問の一つだったのである。

(注2)毎日新聞、2019年4月10日、6頁「検証:東京・公立福生病院 透析中止・非導入21人、同意書なし ずさん体制露呈 都指導」

患者が終末期でなければ生命維持医療の見送りは検討しない。―――福生病院をめぐる議論の中だけでなく、終末期医療の倫理にかんする国内の議論一般においても、この考えかたは、ほとんど常に自明の前提のようになっている。しかし、実際のところ、この考えかたがパターナリスティックであることは、少し考えてみればあきらかと思われる。

終末期でなければ生命維持医療の見送りは検討されるべきでないと考えられているのはなぜか。丁寧に考えれば、ここには他にもいくつか理由を想像できるかもしれない(注3)。しかし、もっともストレートな解釈は、患者の利益を守るため、という理由だろう。終末期と呼べるほど容体が深刻だというのでないかぎり、生き続けるほうが患者の利益になることはあきらかだと思われているのである。

(注3)たとえば、まだ長く生きられる人の命を意図的に絶つことは、人の命に宿る特別な価値(神聖さ?)にたいして私たちが払うべき敬意を欠くことのように感じられているのかもしれない。

あきらかに終末期とはみなせないような状態であっても、生命を維持するために医療が必要な場合はいくらでもある。たとえば、透析なしではすぐに亡くなる腎不全の患者でも、透析を続けさえすれば10年、20年と生きられることがある。期待できる余命が長ければ長いほど、終末期という表現はいかにも適さないように感じられるだろう。各種のガイドラインは、こうした場合で、今すぐ透析を控えるという選択肢について医療者が患者と話し合うことを要求していない。実際にもそのような話し合いがなされることはまずないといってよいだろう。透析を受けて生き続けることが患者の利益になることはあきらかだから、そのような選択肢を患者に示すことは最初から不必要だと考えられているのである。

もちろん、そんな選択肢はたとえ示されても患者が選ぶとはあまり考えにくい。だから、その選択肢を示さなくても患者の自己決定を否定することにはならないのだ、と、このように思われるかもしれない。しかし、とくに透析のように患者の負担や不都合がある程度大きい治療の場合、受けたくないと思う患者がまったくいないとは考えにくい。また、一般に、あらゆる病気にかんして、患者は終末期と呼べるような状態にならないかぎり決して生命維持に必要な医療を止めたいなどとは思わない、という理解は(終末期をどう定義するにしても)正しい理解であるとは思われない。

そこで、終末期でないかぎり生命維持に必要な医療の見送りについては検討しない(そのような選択肢については患者と話し合わない)という考えかたは、やはりパターナリスティックだといわざるをえないように思われるのである(注4)。

(注4)ただし、今回のケースについて議論があったことを受けて、日本透析医学会は現在、透析の中止が検討されるべき場合を終末期に限定する学会指針の規定について、見直しを行っているという(毎日新聞、2019年6月29日、25頁、「日本透析医学会:中止認める指針を拡大 終末期以外も対象 方針提示」)。しかし、実際にこの指針がどのように見直されるとしても、本文で指摘したパターナリズムが臨床から完全になくなることにはならない。

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