- 2019年12月24日 09:51
「表現の自由と萎縮を考える―公的助成とアート作品―」パネルディスカッションを開催
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質疑応答では、次のようなやりとりがありました(主な質問とその要旨)。
Q:今回の騒動は津田さんが仕掛けたものであり、狙い通りだったのでは
(津田さん)
本音を言えば、もちろん狙い通りではないです。なぜかと言えば、この企画を75日間ちゃんとお客さんに正常に運営して観てもらって、「なんだ全然いままで萎縮しちゃってたけど、できるじゃん」っていう実例を僕は作りたかった。だからその意味ではまったく狙ったことではなくて、展示が75日間できなかったことは参加作家の方に本当に申し訳ないし、観客にも申し訳無いと思ってますし、職員にもすごく大きな負担をかけてしまったので、やはりその点の責任は僕は免れないと思っています。だからこそとにかく再開することが重要であると思っていた。
Q:従軍慰安婦像(平和の少女像)とナショナリズムとの関係、ナショナリズムをどう理解しているのか
(津田さん)
戦時性暴力を行っていた日本軍に対しての批判の意図もあるのですが、同時にあの作家は韓国がベトナム戦争のときに行った性暴力に対しての批判の意味を込めた像(ベトナム・ピエタ)というものを作っていて、ある意味日本批判でもあるけれども、もう少し大きな戦時性暴力に対しての訴えかけをするというような少女像、作品であるということが一つ。
もう一つナショナリズムの話でいえば、韓国の日本大使館前に置かれ、それがある意味で象徴性を帯び、政治プロパガンダと言われている理由にはなるし、ナショナリズムの文脈で韓国人の中でも捉えられることは当然のことだと思っている。
僕も観に行きました。あの平和の少女像を大使館前に置かれているのを観たときにやっぱりすごく複雑な気持ちになりました。それはあまりにも置かれている場所が生々しすぎるし、強すぎる。意味性が強すぎると思った。同時に、だからこそ、これはそこの場所から、意味性がすごく強くある場所から切り離して、日本の美術館に持ってきて、あくまで美術作品として作家のメッセージをきちんと鑑賞することが重要ではないかと思った。
美術館の中であの少女像の作品を観たときに、韓国の大使館前で観るのとはまったく違う、造作は細かくこうなっているんだなとか、かなりいろいろ考えられた作品だなっていうのが僕自身も感じて、持ってきてよかったと思いました。
同時にいろいろな説明とかも書いてあって、実際にお客さんの反応からもそうでした。どんなものか、すごく怖かったり、楽しみにして観に来たけれども、いい意味で拍子抜けしたという方がすごく多くて、そういう意味性が強いような場所、プロパガンダと言われる場所から美術館に持ってきて議論のきっかけにするということ、それが本当はやりたかったことですし、一部にはなりますけれども、そういうことが実際観た人には伝わっていることはすごく意味があったのではないかと思っています。
Q:表現の自由を当事者として、一般の人たちが考えるための土壌をどう作っていくか
(ナブチさん)
最初からあいちトリエンナーレの話はアートの話ではなかったと思った。
僕らがあいちトリエンナーレで向き合ってきた人たちは、アートなんて普段からほどんど観ない人たちなんですね。Jアートコールセンター(アーティストによって運営されるコールセンターであり、パブリック/公共サービスを問い直し、電話対応の法的/制度的な再設定を試みるプロジェクト)でずっとクレームの電話を受け続けていたわけなんですが、結構な数のクレームの電話を取ったんですね。100件くらいは取ったと思います。
電話をかけて来た人たちっていうのはほとんどが老人なんです。中年から老人で、それで思ったのが、これ老人介護だと思ったんですね。高齢化社会とか老人の孤独化みたいなものが表現の自由の問題と一致しちゃって起きたのがあいちトリエンナーレだと、そういう見方もできるんじゃないかと思って。彼らは部屋に一人で居るわけですよね、社会との接点探している。そういう感じがしたんですよね。本人たちは電凸(「電話突撃」が語源)という自覚がまったくなく、俺が一言いってやるみたいな結構簡単な感じで電凸してくるわけです。
面白かったのは電話を受けていたときに、「これ電凸じゃないから」って言って電凸してくる人もいた。やっぱり寂しいのかなって思ったんですよね。そこにはこの社会や日本の抱えている暗闇みたいなものがちょっと見えて。それがもし、表現の自由の萎縮、もしくは電凸みたいなものに繋がっているとするなら、家庭とかでけっこう解決できる問題でもあるんじゃないかなと思ったんです。つまり自分の親が何しているのかとか、ネトウヨ化していないかをチェックするとか、あるいは自分の兄弟がとか、そういう家庭の一人ひとりのケアみたいなものが日本を変えていく可能性があると。
人は放っておくとたぶん何かしらの連帯を求めていく、その一番分かりやすいのが「国家」なんですよね。国家であり宗教になると、どうしても天皇陛下の影がちらついてきたりする。そこから歴史修正のようなものに走っていくわけで、それを一人ひとりが未然に防ぐことは家庭で可能なんじゃないかなとちょっと思いました。



