- 2019年12月23日 21:24
「人間として扱われること」の希望と絶望
2/2「ただの人間」でしかないことの絶望
そして、もう一つの問題が、あらゆる人が同じ人間だというのは、必ずしも心地よい状態ではないということだ。
他人と同じ存在だということは、往々にして他人と交換可能な存在だということである。つまり、自分はいつでも替えのきく存在だということであり、極端な話、「いてもいなくても同じ」ということにもなりかねない。
もちろん、集団的な熱狂状態など、他人と同じだということが快楽に思える瞬間はある。あるいは、自分が他人と代替可能な存在であることに安らぎを覚える人もいるだろう。
けれども、「いてもいなくても同じ」であることが精神的にしんどくなってしまう人は少なくない。他人とは違う存在でありたいという願い――アイデンティティと呼ばれることもある――を多くの人はどこかに抱えて生きている。
こうした観点からすると、ただの人間であるということは、希望というよりも絶望の原因ともなる。少なくとも、涼宮ハルヒには興味を持ってもらえない可能性が高い(わからない人、すいません…)。
ただの人間であることに起因する絶望から、難しい試験に挑んだり、仕事に打ち込むことで逃れようとする人もいる。他人には得がたい資格や立場を手に入れることで、「特別な人間」になろうというわけだ*2。
あるいは、自分が所属している集団にアイデンティティを求めようとする人もいる。とりわけ、差別されたり、蔑まれたりする属性をもつ人びとにとって、その属性にプラスの意味を与えるという行為は、自己の尊厳にとって重要な意味を持ちうる。
肌の色によって虐げられてきたアフリカ系米国人が”Black is beautiful”というフレーズを用い始めたとき、そこには黒人であるということを恥ずべきこととしてではなく、誇るべきこととして意味づけ直そうとする決意が込められていた*3。
そのように自己の属性が、自らの尊厳と分かちがたく結びついている場合、「同じ人間でしょ?」と軽々しく言い切ることは、その人が背負ってきた属性に起因するさまざまな経験や記憶を否定してしまうことにもなりかねないのだ。
「人間として扱われること」の希望と絶望
このように、人間として平等に扱われることには、希望と絶望とがある。そして、このことが、非常に難しい問題を生んでいる。
ひとりは人間として平等に扱ってもらうことを望み、もうひとりは「標準的な人間」像とされるものに不平等性が内在していることを指摘する。さらに別のひとりは他の人間とは異なる自己の特性が社会的に承認されることを求める。
そのため、そこにダブルスタンダード(?)を見出す人も出てくる。「自分の都合に合わせて、人間として平等に扱われることを要求したり、自己の特性を承認しろと言ったりする」という具合だ。
たとえば、冒頭で紹介した文章には、以下のような反応が生まれ、それが多くのユーザーによって「正論」として賞賛された。
要するに、最初の文章を書いた女性は、平等に扱われたかったのではなく、後輩のように「女性としてチヤホヤされたかったのだ」という趣旨の文章である。言い換えると、女性ではなく人間として平等に扱われたいという希望ではなく、容姿に優れた「特別な人間」でありたいという願望をもっていたことが、この女性の問題だというのだ。
正直、この過剰に攻撃的な文章にさほど評価すべき点があるとは思われないが、多くのユーザーがそれを「正論」とみなした背景には、最初の文章を書いた女性も含めて、人間として扱われることの希望と絶望とが混在した状況があるのではないかと思う。
個人的な考えを言えば、そこにすっきりとした解決はおそらく存在しない。普遍的に通用する処方箋は存在せず、個別の文脈において、人間としての扱われることの希望と絶望について地道に考えていくよりほかないと思う。
もちろんそれは何も言っていないに等しいのだが、自分や他人が何を求めているのかを考える一助になればと思い、これを書いた次第である。
*1:岸政彦(2015)『断片的なものの社会学』朝日出版社、p.173。
*2:石川准(1992)『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学』新評論、p.28
*3:前掲書、p.30



