- 2019年12月23日 21:24
「人間として扱われること」の希望と絶望
1/2「人間」やりたいよっ!
先日、はてなブックマークでこんなエントリが話題になった。
かいつまんで言うと、こういう話だ。
自分の外見についてずっと嫌な思いをしてきた女性が、外見ではなく仕事の力量で評価される職場に入り、ようやくその呪縛から解放されたと思った。
ところが、見た目の麗しい女性が後輩として職場に入ってきたことで事態は変わる。同僚男性がその女性に自分とは異なる態度で接しているのを見てしまい、見た目の呪縛からなお自由ではなかったことに気づいてしまったというのだ。
先の文章の追記で、この女性は次のように述べている。
見た目よりも仕事の実績!な環境にはいれてさ、やっと人間扱いされたと思ったんだよ。
会社の中、特定の部署、その中の少人数のチーム。
この中なら、仕事中は全員人間でいられると思った。
だけどさ、その女性がきて男性が態度を変えてから「男性」と「女性」に分かれてしまった。
またここでも「女性」をやらないと駄目なのか、という絶望の話をしたかっただけ。
プライベートじゃなくて「仕事中」くらいは「人間」やりたいよって!
もちろん、この女性が実際に差別されたかどうかは意見の分かれるところだろう。ただ、社会的に不利とされる特徴をもつ人物が、他のあらゆる人びとと同じ人間として平等に扱ってもらうことを希望するというのは、ごく一般的な心理である。
マジョリティとマイノリティとは何が違うのか
実際、いわゆるマジョリティとマイノリティとの違いとして、後者が「標準的な人間」ではない自己をしばしば意識させられるということが挙げられる。
たとえば、男性ばかりの職場で働く男性は、職場内で自分が男性だということを意識させられることはあまりない。自分の属性についてさほど気にしなくてもよいのが、マジョリティのマジョリティたるゆえんなのだ。
それに対し、そうした職場で働く女性は、自分が女性だという事実と頻繁に向き合わねばならない。単なる医師や弁護士ではなく、「女医」や「女性弁護士」でなくてはならないということだ(「男医」や「男流作家」といった言葉が用いられないのは示唆的である*1)。
別の例を挙げるなら、日本社会で日本人が生きていくにあたって自分の国籍を意識することはさほどないだろうが、海外で暮らせば「日本人としての自分」に向き合う機会は格段に増える。
もちろん、それがメリットになることもありうるとはいえ、自己の属性によって差別的な扱いを受けることもでてくる(某大の医学部入試において女性の受験者にハンデが課されていたのはその顕著な事例である)。
そうした差別を解消するための方策の一つが、マジョリティもマイノリティも関係なしにみな同じ人間として扱うというものだ。先に引用した文章で、書き手の女性が「仕事中ぐらいは人間をやりたい」と言っているのは、まさにそういう方向性を指し示している。
たしかに、男だろうが女だろうが、肌の色がなんだろうが、みな同じ人間だとしたうえで、学校なら成績で、職場なら仕事の能力でその人の評価を決めるというのは理にかなっているし、多くの場合に有効な処方箋ではある。
ところが、性別や国籍といったあらゆる区別を度外視し、みな同じ人間として扱えばそれでOKかと言えば、まったくもってそんなことはない。そこが、この問題の難しいところなのだ。
「人間」であるための前提
まず、人間と一言でいっても、実際には「標準的な人間」であるためにさまざまな暗黙の前提に従っている必要があることが多い。
つまり、「みんな同じ人間として扱いますよ~」といっても、たとえば日本社会なら、日本国籍であること、一般的な行動パターンから外れる宗教や価値観を信じていないこと、私生活や体調を度外視して仕事に専念できること、等々の暗黙の前提がそこに含まれているということがしばしば起きる。男性であること、あるいは男性か女性のいずれかであることが含まれていることもある。
それのどこが問題かと言えば、最初から何の苦労もなく人間である人と、相当に努力したり、自分を無理に抑えつけないと人間になれない人がいる、ということだ。そうなると、人間として平等に扱ったとしても、実質的には平等でも何でもないということにもなりうる。
そのため、ここからは実質的な平等を達成するためには、差別されていたり、不遇な立場にある人びとを積極的に支援するという処方箋が提起されることになる。
もちろんそれは、あらゆる区別を度外視し、同じ人間として扱うという先のものとは根本的に異なる処方箋だ。その是非をめぐっては、無数の議論が展開されている。



