- 2019年12月23日 11:15
「ハンセン病隔離施設」を後押ししたのは皇室だ
1/2岡山県瀬戸内市にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」。ハンセン病患者を隔離する目的で1930年に開設されたが、その背景には皇室が深く関わっているという。政治学者の原武史氏が解説する――。(第1回/全3回)
※本稿は、原武史『地形の思想史』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

ハンセン病療養所の納骨堂に献花される上皇、上皇后両陛下=2005年10月23日、岡山・瀬戸内市の長島愛生園 - 写真=時事通信フォト
■国家の思想によって運命を変えられた島
瀬戸内海には、全部で大小七百あまりの島があると言われている。その中には、淡路島や小豆島のように『古事記』の国生み神話に早くも出てくる島もあれば、宮島(厳島)のように嚴島神社がユネスコの世界文化遺産に登録され、多くの観光客でにぎわう島もある。
これらの島々ほど有名ではないが、明治以降の近代化とともに国家による厳重な管理下に置かれ、景観が一変した瀬戸内海の島もある。
岡山県の長島と広島県の似島である。
二つの島の運命を大きく変えたのは、「衛生」という思想であった。いかにして恐るべき伝染病から日本を守るべきか。この課題にこたえるべく、1895(明治28)年と1905(明治38)年に開設されたのが似島の陸軍似島検疫所(後の第一検疫所)と同第二検疫所であり、1930(昭和5)年に開設されたのが長島の国立らい療養所(現・国立療養所)長島愛生園であった。「島」という地形が、病原体を隔離するための空間となるのである。
似島の陸軍検疫所は、日本の「外」から持ち込まれる可能性のある病原体を一カ所に集めて消毒したり、患者を隔離したりするための施設であった。これに対して長島愛生園は、日本の「内」に散在している病原体を一カ所に集め、患者を徹底して管理するための施設であった。前者はコレラや赤痢の侵入を防ぐための、後者はもっぱら「癩病」と呼ばれたハンセン病の患者を隔離するための、いずれも国内最大の施設になってゆく。
■隔離の地が「島」でなくてはいけなかった理由
それにしても、なぜ似島と長島だったのか。
1894(明治27)年から95年にかけての日清戦争では、軍人や軍属が戦地から病原体を持ち込み、国内でも赤痢やコレラが大流行した。広島には大本営が置かれ、明治天皇が滞在していたから、病原体の侵入をくい止めることは喫緊の課題となった。
臨時陸軍検疫部事務官長の後藤新平(1857~1929)の建議を受け、同検疫部長の児玉源太郎(1852~1906)は1895年6月、広島に近い似島に世界最大級の大検疫所を開設させた。その背景には、天皇という「浄」のシンボルがあった。
広島には大元帥陛下御駐蹕あらせられしのみならず、重要なる諸機関は総てこの地に設置しありて本邦と戦地とに於ける人馬の往来は勿論、荷物等の発送も亦必ずこの地を経て宇品港より積載する事にてありき、乃ちこの地と大連若しくは旅順との間に於ける交通は非常に頻繁なるを以て万一彼の土に於ける悪疫をこの地に齎し帰る等のことありては、大元帥陛下に対し奉りて恐れ多きのみならず疫病の流行と共に重要なる諸機関の運転を妨阻するが如きことありては一大事なり。(『芸備日日新聞』1895年5月13日)
従来のように、港に消毒所を設置するだけでは感染をくい止めることはできない。「島」でなければ、日本国内にコレラや赤痢が持ち込まれ、ひいては「大元帥陛下」、すなわち明治天皇にも感染する可能性を否定できなかったのだ。
■検疫と隔離は「ある思想」に基づいて行われていた
征清大総督として戦地から帰還した小松宮彰仁親王(1846~1903)は、明治天皇から「消毒の設備はどうして置いたか」と尋ねられたときに備えて検疫所を開設したと児玉から聞かされ、真っ先に検疫を受けた。ここから「天皇陛下の検疫所」という観念が生まれ、他の凱旋将軍も一人残らず検疫を済ませたという(鶴見祐輔編著『後藤新平』第一巻、後藤新平伯伝記編纂会、1937年)。
前近代から天皇は、ケガレ(「穢」)の対極にあるキヨメ(「浄」)のシンボルであり続けた。だがここで意識されているのは、むしろ近代の衛生学的な「清潔」の観念と結びついた天皇である。
いや正確にいえば、両者は一体となっている。「島」に検疫所を設け、帰還した兵士を集めて徹底した消毒を行い、一人でも伝染病の患者が見つかれば隔離することで、天皇の支配する「清浄なる国土」を守らなければならないという思想が見え隠れしているのである。
- PRESIDENT Online
- プレジデント社の新メディアサイト。