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クリスマス・メッセージ:名前を持つ存在として

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自分の名前は確かに自分の大事な一部だが、すべてではない。愛着のある人も多いだろうから、他人が変えることを強制するのはどうかと思う。だが、出世魚のように社会的な場面を切り開くごとに、自分でつけ直せたら面白いんじゃないかと感じることもある。実際、SNSなどの匿名コミュニティごとに、違ったIDを使い、違った自分を演出する人だって多いではないか。そこまでいかずとも、筆名・雅号などは昔からあったことだ。

わたし自身は、匿名のネット・コミュニティというのはあまり好きではない。だから、会社員であるにもかかわらず、本サイトは自分の実名で運営しているし、コメント欄にも、原則として実名かそれに準ずる名前で書き込んだ人にしか、答えないことにしている。何か議論する場合は、本当はフェース・ツー・フェースで話し合うべきであり、せめて文字だけでやり合う場合も、自分の社会的アイデンティティを表に出して、自分の発言の結果を引き受けるのが礼儀ではないかと思うからだ。

名前とは、社会的なアイデンティティに対するトレーサビリティの標識のようなものである。「イチロー」のようにたった一語でもいいし、「柳生但馬守宗矩」のように職名(=変数名)がはさまってもいいが、その人の具体的な身体や所属や係累、来歴が立体的にとらえられることが、人と人がつながるためには大事なのだ。匿名コミュニティが好きになれないのは、そうした「つながり」の価値を軽視しているように感じるからだ。スパイ組織ではあるまいし、コードネームだけでどうやって、相手を信頼できるというのか。

そういえば、「イエス・キリスト」も、イエスが名前でキリストが苗字だ、と思っている人をたまに見かける。言うまでもなく、『キリスト』は救世主という意味のギリシャ語であって、要するに「救世主イエス」という称号である。もちろん、本人がそう名乗っていた訳でもない。あとからついた呼称である。

今から2千年ほど前に生まれたこの人は、イェシューという名前を持っているだけだった(イェシューは「ヨシュア」という名前のガリラヤ地方風の発音)。他の人と区別するために、出身地をつけて「ナザレのイェシュー」とも呼ばれた。ちなみにナザレの地元の村では、「マリアの息子のイェシュー」と呼ばれていたようだが、普通は父親の名前をつけて呼ぶべきところだから、もしかすると父親のヨゼフ氏は、彼が社会的に活躍するずっと前に亡くなっていたのかもしれない。

彼が生まれた当時、ユダヤは全体としてローマ帝国の辺境に位置する属国であり、間接的な植民地支配下に置かれていた。一応、王もおり、大祭司もいて、民族宗教の最高の象徴であるエルサレム神殿もある。だが、ほんとうの意味の主権はユダヤ人にはなかった。軍事も司法も納税も、ローマ帝国におさえられていたのだ。そうした時代が長く続き、抑圧された民衆は次第に、救世主の到来を強く待ち望むようになる。

ただしこの人は平民の出身だった。当時の観念では、高貴な血筋の出身や大金持ちなど恵まれた境遇の人ほど、神に近いはずだった。それなのに、「貧しい人々は幸いだ、神の国は彼らのものだ」などと物騒なことを説教して回る。「仲間の中で最も小さい者に対して、あなたがすることは、このわたしに対してするのと同じことだ」ともいった。

この人の中心的なメッセージの一つは、「人とのつながりを大切にすること」、すなわち、通常は『隣人愛』などと訳されている行いである。それは、抽象概念としては美しいが、実際に実行するのはとても大変な業である。だって知っての通り、わたし達はみな、凸凹のある、長所もあるが欠点も多い存在だからだ。

それでも、人と人とが対等につながることを、そして支え合うことを、とても大事だと教えた。些末な律法を全部暗記して、従うよりもずっと重要だ、とも(こういうことを主張するので、結局この人は地上の権力からも宗教界からも迫害されることになる)。

つながりというのは、信頼がなくては保てない。信頼というのはつまり、お互いを裏切らないこと、不確かな未来への期待に応えられること、を意味する。それは対等な間柄で、自由意志によって結ぶものであろう。

もちろん、家族や、仕事上の職位の序列だって、人のつながりの一種ではある。ただ、それは短期的に、自分の意志で選んだり変えたりすることはできないものだ。そしてしばしば上下関係を伴う。植民地支配下に置かれ、支配者と貧しい民衆に二極化した当時のユダヤ社会では、そうした息苦しい関係性の網目がくまなく覆っていたに違いない。

そんな社会を蘇生させ、より良い希望の便りをもたらすのは、人と人との間の自由で対等なつながりである、という意味のことを彼は説いた。少なくとも、彼はそれを短い生涯の中で実践してみせた。

クリスマスChristmasという言葉は、キリストのミサ(Christ + Mass)から来ている。今はキリスト教徒でなくても、キリスト教国でなくても、日本をはじめ多くの国で、人々はクリスマスを祝っている。もちろん商業主義の後押しもあるだろうが、それでも冬至の、陽の光が一番短い時期に、なにか新しい誕生が予感できるのは喜ばしいからだろう。その誕生劇は、厩の中で、いちばん貧しい階層から生まれるのだ。

そして何より、そのお祝いは、名前も顔も持つリアルな人と人の間で共有される。祝祭は何より身体的で、感情的なものだからだ。わたし達が、社会の中の単なる記号やIDから、アイデンティティを持つ生身の人間に戻る時、そこにようやく祝典のつながりが生まれるのだ。

<関連エントリ>

 →「クリスマス・メッセージ:幸せな人」 (2014/12/23)

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