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樹木希林「一切なりゆき」が彼女特有の嘘なワケ

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名女優の誉れ高い樹木希林さんは、人々の心に突き刺さる言葉を数多く残した。30年余りもの親交のあった田川一郎氏が、「生への賛歌」というべき言葉を厳選する。

怠惰と合理性から発せられた一言

実は、樹木希林さんは文学座の第1期生なんですね。同期には小川眞由美をはじめ、橋爪功、岸田森、北村総一朗、寺田農ら錚々たる面々がいます。当時の役者は、舞台が一番で、映画が二番、テレビは三番です。いまでは想像しづらいですが、テレビに出演するだけで役者としての評価が下がったわけです。ましてやCMに出るなんて、もう“下の下”です。そんな時代でも、希林さんは積極的にCMに出るんですね。そうしたなかで

※写真はイメージです 写真=iStock.com/YULIIA LAKEIENKO

「みなさんがおやりにならないのなら、私がやらせていただきます」

という言葉を残していますが、希林さん特有の怠惰な一面と合理性から発せられたものだと思います。

15秒の短い時間で台詞は少ないけど、その割に支払いがいい。断然効率がいいわけです。

「だって台詞を覚えるのが面倒くさいじゃない」

ともいっていました。それでもCMに出る役者は、仲間からは馬鹿にされます。先輩の女優から「あんたCMなんてやっていたらダメになるわよ」といわれても、「いや、私はいいんですよ」とどこ吹く風で、希林さんらしいエピソードがいまでも語り草になっています。

1978年からスタートした富士フイルムのテレビCM「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」が一世を風靡したときには、「期待されないっていうのが一番いいものができる」ということをいっていたそうです。また、90年代に洋服の青山が銀座へ進出する際、銀座の商店街が「ブランドイメージが崩れる」と猛反対したことがありました。

AFLO=写真

ところが、その後ユニクロやH&Mなどが続々と出店しましたよね。その青山のCMに希林さんも出ていて、「世の中の雰囲気が自然と変わっていくのって、すごく楽しい」と感慨深げに振り返っていたことを覚えています。そうやって女優としての自分の立ち位置を確立していったのでしょう。

希林さんは21歳のときに森繁久彌さん主演のドラマ『七人の孫』にレギュラー出演して以来、森繁さんを師と仰いでいました。戦争を潜り抜けてきた森繁さんたち世代の持つ人間としての懐の深さや幅に畏敬の念を持っていたんでしょう。その一方で、権威主義的な側面のある森繁さんの世代に対しては反発も覚えていたようです。

よく森繁さんは楽屋に届く花を見て「おお、今回はあいつから来てねぇなぁ」といっていたそうです。楽屋でどれだけ花が届けられるかは、役者としての自分の権威付けを測る物差しになるわけです。花の量が権威の象徴みたいな感じですかね。だから、実際は花自体が嫌いなわけではないのですが、

「私は花が嫌いなのよ」

ということを希林さんはよく口にしていました。

死を覚悟してわかったこと

2004年に乳がんが見つかったときですが、希林さんは映画の出演を依頼されていました。撮影はタイのチェンマイで、終了後はプーケットに移動してお孫さんと一緒にオフを楽しむ予定だったんです。しかし、手術をすることになって、映画の出演をキャンセルします。そうしたらスマトラ島沖大地震が起きて、滞在するはずだったホテルが津波の被害に遭った。「もし孫に何かあれば取り返しがつかなかった。がんになってよかった」ということを口にする一方で、

「人間はスレスレのところで生きているんだなっていうふうに感じるわけです」

と話しています。

そして、何かそこで吹っ切れて、「もう何があっても御の字だ」と覚悟が決まったようです。それを象徴するのが

「健康な人も1度自分が、向こう側へ行くということを想像してみるといいと思うんですね。そうすると、つまらない欲だとか、金銭欲だとか、いろんな欲がありますよね。そういうものから離れていくんです」

という言葉だと思います。

みなさんにとったら意外かもしれませんが、希林さんは若い頃から不動産投資が大好きだったんです。単純に好きというのもあったのでしょうけど、それだけでなく、それは役者の世界で生きていく手段でもありました。役者っていうのは、ずっと人気者でいられる保証はどこにもありません。家賃収入があれば、もし役者で食えなくなっても生きていける。映画や芸能界の大物に媚びへつらうこともしなくていいし、そういう覚悟の表れでもあったと思います。

考え方や行動が一変した

かつての希林さんは、とにかくお金にはシビアで、マネジャーをつけずに自分でギャラの交渉をやりながら、「ギャラ交渉は楽しいのよ」とニヤニヤしていたし、何よりお金が大好きでした。でも、がんになってから「もういらない」というようになり、考え方や行動が一変したことに正直いって私も大変驚きました。

たとえば、私は山口県の田布施という町に住んでいるんですけど、そこに講演に来てくれたことがあったのです。大女優だし講演料をどうしようかなと考えていたら「私はお金いらないから」といって「その代わり講演を聞きに来た人からお金取っちゃダメよ」と釘を刺します。「じゃあせめて交通費だけでも」と申し出ると、「いや、交通費もいらない」と受け取りません。

一方、希林さんは仕事に関するインタビューなんかで「来た仕事を順番にこなしているだけ」とか「一切なりゆき」と答えていたみたいですが、これは彼女特有の“嘘”ですね。希林さんはオファーのあった仕事は慎重に選びました。というか、一回は必ず断りました。希林さんが主演した映画『あん』の河瀬直美監督も「最初は断られました」といっています。

希林さんは、その後で内容を検討したり、監督の能力や技量、熱意を推し量ったりして「よし、この監督ならいける」となって選んでいたのです。がんが見つかってからその傾向がより強まったようで、出演作品は松竹や東映など大手ではなく、インディペンデント系の監督が多かった。

『万引き家族』の是枝裕和監督は、「希林さんに監督として認めてほしいという思いで映画を作っていました」という感想を述べています。撮影の途中で希林さんは納得がいかないシーンがあったため、新たにワンシーン作らせたりもしましたが、それはそれできっと楽しかったのでしょう。その結果として、いい作品ができて第71回カンヌ国際映画祭・最高賞パルムドールを受賞する。希林さんは

「人が喜ぶのが一番うれしい」

とよく口にしていました。そうすることで、結果的に希林さん自身も輝いていたのだと思います。

そうそう「病気になったっていうことが、すごく自分の人生で得している」ともいっていましたね。がんという病を抱え「死」を受け入れながら生きているからこそ、できる仕事があるというんですね。だからイギリスの画家のジョン・エヴァレット・ミレイの名画「オフィーリア」をモチーフにして「死ぬときぐらい好きにさせてよ」というキャッチコピーを載せた宝島社の企業広告のような仕事が舞い込み、希林さんご自身も随分面白がりながら引き受けられたのでしょう。

また、鍋島藩の藩士が武士の心構えを書いた書物『葉隠』にある「武士道とは死ぬことと見つけたり」を引用しながら、「あれも、やっぱり自分が死んだ状態を想定して、そういう所から自分を俯瞰して見る訓練です。ずっと現実にいると見えなくなるけど、私は病気をしてから向こう河岸に行くのが怖くなくなった」ともいっていました。人間は最後は1人で死んでいくわけですが、そうした死を覚悟した人ならではの言葉だと思います。

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