- 2019年12月13日 07:40
【原子力の平和利用】原爆投下から10年後に「原子力研究所」を誘致していた横須賀。署名10万筆超も茨城県・東海村に敗れる。裏で故・中曽根元首相が暗躍?
2/2【雇用創出か国防利用か】
「『正力委員長その他の専門家にもいろいろつっこんで意見を聴いたが、心配はない』と確信に満ちた答弁を行った」などと神奈川新聞が報じていたように、梅津市長は原子力に対する市民の不安を一蹴。誘致運動の先頭に立ち続けた。当時の横須賀政財界の盛り上がりぶりは、議会で市議から「横須賀全市民が挙げていま放射能ノイローゼといいましょうか、原子力ブームといいましょうか…」と揶揄されるほどだった。しかし、その背景には「脱軍需」を模索する〝海軍さんの街〟ならではの苦悩もあったようだ。「横須賀市史」が次のように解説している。
「戦後の米軍依存による特需景気も朝鮮戦争の終結により終わり、本市の労働界は重大な危機に直面した。米海軍横須賀基地や追浜の富士自動車株式会社米軍武山キャンプ・マクギルで働く従業員の大量解雇…そこで、市民の総意によって原子力研究所誘致促進連盟を結成…」
アメリカがキャンプ・マクギルに前向きな姿勢を示し、市民の署名も10万筆を超えた。原子力委員会も最適地としてお墨付きを与えている─。横須賀招致は時間の問題とされたがしかし、政府は1956年4月3日の閣議で「武山は適当でない」と決定した。これを受け、「設置促進連盟」は改めて永田町への陳情を展開したが、原子力委員会は4月6日、原子力研究所を茨城県那珂郡東海村に設置する事を決めた。東海村・防災原子力安全課の職員によると、同村も当時「日立市や水戸市に挟まれて遅れをとらないうよう新しい産業を模索していた」。この結果、東海村は原子力産業の一大拠点となり「村の雇用や財政に大きく貢献した」(村役場職員)。
横須賀敗北の裏には、防衛族議員たちの思惑もあった。神奈川新聞が当時、「誘致運動も、地元選出の小泉純也代議士(自民党、小泉進次郎環境大臣の祖父)らは『武山は防衛上からかけがえのない土地だ』と原子力研究所設置に反対し、賛成の志村代議士と鋭く対立するなど複雑な様相を呈していた」と述懐している。船田中・防衛庁長官も「武山は数年前から自衛隊の訓練地として(米側に)返還を要求していた。こういう問題は単なる原子力問題だけでなく、広く国家的立場から考慮すべきである」と反対意見を国会で述べていた。また、梅津市長は「設置促進連盟」の解散にあたって「背後に中曽根(康弘)代議士の力が相当強く動いていたようだ。結局横須賀の自民党の政治力が中曽根氏1人に負けたようなものだ」と述べたという。「設置促進連盟」は4月9日付で発表した声明の中で、次のような表現で中曽根康弘氏にの存在を匂わせた。
「或る者は政治取引だと云う。候補地武山と(群馬県)高崎が引合いとなって、東海村に決定されたと云う感じは、まことに割切れないものが感じられ、武山をもって平和利用より防衛優先ということも納得し難いものがある」
1958年9月に返還されたキャンプ・マクギル跡地はその後、陸上自衛隊武山駐屯地など多くが防衛施設として活用されている。「原子力時代」は横須賀からではなく、東海村から始まった。あれから60年余。当時の人々は8年前の大震災や原発事故をどのように見ているのだろうか。
「震災を経験した今となっては、原子力研究所が横須賀に来なかったのが良かったのか悪かったのか…。気持ちは複雑ですし、評価は難しいですね」
横須賀市職員はそう言った。
- 鈴木博喜 (「民の声新聞」発行人)
- フリーライター



