- 2012年07月02日 07:59
「社会的孤立」を深める検察~最高検報告書は完全に破綻している
1/2陸山会事件に関する東京地検特捜部の捜査の過程で、石川知裕氏の取調べ内容に関して田代検事が作成し、検察審査会に提出した捜査報告書に事実に反する記載があった問題等についての最高検察庁の捜査及び調査の結果をとりまとめた報告書が、6月27日に公表された(以下、「最高検報告書」)。告発されていた虚偽有印公文書作成等の事件の刑事処分は、田代検事は嫌疑不十分で不起訴、その他の検察官は「嫌疑なし」で不起訴。田代検事は、減給の懲戒処分を受けて即日辞職。当時の特捜部長と主任検事は戒告の懲戒処分を受けた。
最高検報告書の内容は、今回の問題に対する真相解明にはほど遠く、この問題に関する疑惑の説明にも全くなっていない。そして報告書の中で述べられている考え方や物の見方の多くは、内部だけで全てを決められる閉鎖的な組織の中だけにしか通用しない「身内の理屈」であり、社会の常識から理解できず、到底受け入れられるものではない。このようなことを続けていれば、検察はますます社会からの孤立を深めていくことになるであろう。
検察の組織内でしか通用しない「身内の理屈」
今回の陸山会事件捜査に関する一連の問題についての不起訴処分、懲戒処分の理由となる調査結果として最高検調査報告書で示されている内容は、完全に破綻していると言わざるを得ない。凡そ、刑事司法の中核として公訴権を独占してきた検察の調査結果とは思えないものである。
最高検報告書は、田代検事が石川知裕氏の取調べ状況について作成した捜査報告書(以下、「田代報告書」)において実際の取調べの状況とは異なる内容が記載されていることついて、虚偽有印公文書作成罪で告発されていた件について、
(1) 田代報告書は、取調べにおける石川氏の供述と実質的に相反しない内容となっている
(2) 実際にはなかったやり取りが記載されている点については、その記載内容と同様のやり取りがあったものと思い違いをしていた可能性を否定することができない事情が複数認められる。
というような理由で、田代検事が虚偽文書を作成する故意があったとは認められないから嫌疑不十分で不起訴、という結論を導いている。
しかし、これらは、いずれも、田代氏の虚偽文書作成の故意を否定する根拠には到底なり得ないものである。
まず、(1)に関して、最高検報告書は「検討すべき記載」を列挙しているが、それらは、田代報告書の中から、「実質的に相反しない」と無理やり言えなくもない箇所だけを抜き出しているに過ぎない。虚偽であることを否定できず、しかも、記憶の混同では説明できない箇所は、見事に除外されている。また、田代報告書に記載された取調べ状況が、全体として実際の取調べ状況と全く異なったものであることも明らかである。それが典型的に表れているのが、田代報告書の冒頭の被告人の取調べへの同意に関する記述である。
田代報告書冒頭の記載は完全な「捏造」
同報告書の本文は、「取調べの冒頭,本職が『貴方は,既に政治資金規正法違反の事実で公判請求されており,被告人の立場にあるので,取調べに応じる義務はないということは理解していますか。』と質問したところ,石川は,『その点については,弁護士からも説明を受け,良く理解しています。弁護人から,今回の事件については既に被告人となっているので,無理に取調べに応じる必要はないという説明を受けましたが,小沢先生に対する不起訴処分について,検察審査会が起訴相当の議決をしたのを受けての再捜査でしょうし,私自身も深く関与した事実についてのことですので,本曰は,任意に取調べを受けることにして出頭しました。』旨述べ,取調べを受けることに同意した。」から始まっている。
しかし、石川氏が密かに録音していたレコーダーの反訳書によると、実際の取調べでは、そのような被告人の取調べに関する発言は全くなく、取調べは、「石川さんさ、録音機持ってない」という田代検事の質問から始まり、「大丈夫です」と答える石川氏に対して、なおもしつこく「大丈夫?下着の中とか入ってない?」などと、録音機を持っていないかどうかを尋ねている。その後の取調べのやり取りの中でも、「被告人の立場にあるから取調べに応じる義務はない」という話は全く出ていない。報告書の冒頭の記載は全くの「捏造」である。
被告人の取調べというのは、刑事訴訟法的には極めて異例だ。捜査は起訴までの捜査段階においてなされるべきであり、起訴されたことで被告人となった者は、検察官とは対立する当事者になったのであるから、原則として取調べを行うことはできない。質問したければ、公判廷で裁判官、弁護人立ち合いの下で行うのが原則だ。石川氏は2002年2月に政治資金規正法違反で起訴され、被告人の立場だった。通常なら取調べを行うことはあり得ないが、検察審査会が小沢氏の事件について起訴相当議決を出したため検察官が再捜査することになり、石川氏の取調べを行うことになった。
この場合、検察官は取調べの冒頭で、「被告人の立場にあるので、取調べに応じる義務がない」ということを告知するのが当然であり、それを行うことによって、あくまで例外である被告人の取調べが許されるのである。
実際には、その点の告知を全く行っていないのに、田代報告書では、あたかも、型通りに告知し、しかも、それに対して、石川氏の側が、「弁護人からも説明を受け、良く理解しています」などと言ったように記載されているが、全く架空のやり取りを捏造しているのである。
田代報告書と取調べ状況とが「実質的に相反しない」?
この点も含め、田代報告書に書かれている取調べの全体的状況は、以下のとおりである。
まず、被告人の取調べであり、本来は応じる義務がないことを認識させた上で取調べを開始したところ、石川氏は、従前の供述調書の内容について一貫して全面的に認める一方で、小沢氏の供述を否定することを気にして供述調書への署名を渋っていた。そこで、田代検事が、石川氏に供述調書作成に至る経緯を思い出させたところ、田代検事に言われたことを自ら思いだし、納得して小沢氏への報告・了承を認める供述調書に署名した、というものである。田代検事は小沢氏の供述との関係ばかりを気にする石川氏に、従前と同様の供述調書に署名するよう「淡々と」説得しているだけで、全く問題のない「理想的な取調べ状況」が描かれている。供述調書作成・署名の経過が、この通りだとすれば、誰しも、石川氏の供述調書は信用できると判断するであろう。
ところが、実際の取調べ状況は全く異なる。
最高検報告書では、この時の田代検事の石川氏の取調べに関して「小沢氏の関与を認める勾留中の供述を覆すと、検察は起訴処分に転じ、従前の供述を維持すれば不起訴処分を維持することになる」、「従前の供述を覆すと、検察審査員も石川氏が小沢氏から指示されて供述を覆したものと考え、起訴議決に至る可能性がある」なとど言って、従前の供述を維持するように繰り返し推奨したこと、「検察が石川氏を再逮捕しようと組織として本気になったときは全くできない話ではない旨発言したこと」などを、「不適正な取調べ」として指摘している。
反訳書を見れば明らかなように、石川氏は、取調べの中で、何回も、小沢氏への報告・了承に関して、従前の供述調書の記載は事実と異なるとして、それを訂正するよう求めている。そのような石川氏の要求を諦めさせ、従前の供述を維持させるため、検察自身も「不適正」と認めざるを得ないあらゆる手段を弄しているのである。このような「不適正な取調べ」によって、ようやく従前の供述調書とほぼ同じ内容の供述調書に署名させたというのが実際の「取調べ状況」である。
一方、田代報告書に記載されているのは、石川氏が終始一貫して従前の供述調書の内容を全面的に認めている「理想的な取調べ状況」である。
田代報告書と反訳書とを読み比べてみれば、そこに記載されている取調べ状況が、誰がどう考えても「実質的に相反する」ことは明らかである。ところが、最高検報告書は、田代報告書の中から、録音記録中の同趣旨の発言と無理やりこじつけられなくもないような箇所だけを抽出し、「記憶の混同」で説明できない箇所は見事に除外して、両者が「実質的に相反しない」と強弁しているのである。
社会常識から逸脱した「捜査報告書に関する一般論」
しかし、さすがに、このような精一杯のこじつけをしても、「実質的に相反しない」との見解を一般人に理解してもらうことは困難だと考えたのか、最高検報告書は、田代報告書の内容が実際の取調べのやり取りとは異なっていることを正当化する理屈として「供述内容を報告することを目的とする報告書の記載に関する一般論」を持ち出している(4頁の[注])。「表情や身振り、手振り等のしぐさ、それ以前の取調べにおけるやり取りを含めたコミュニケーションの結果得られた供述の趣旨を取りまとめて記載する」ことが「一般的には許容され得る」というのだ。しかし、その理屈は、完全に社会常識から逸脱している。
捜査報告書は、供述調書とは異なり、供述者に供述内容の確認を求めることもなく、検察官が一方的に作成して上司に報告するものである。その報告内容について、表情や身振り、手振りなどを勝手に「供述」に置き換えて具体的な言葉で表現したり、過去の取調べで述べたことを、再度供述したようなに勝手に記載したりすることが許され、その報告を受けて、上司が、捜査や処分の方針を判断する、ということが検察庁の実務として当然のごとく行われるというのであれば、供述者の言いたいこととは全く異なった「供述内容」が上司に報告されることになりかねない。検察官の取調べを受ける際には、迂闊に表情を変えたり、手振り、身振りを交えたりすることはできないし、恐ろしくて取調べなど受けられないであろう。
取調べ検察官が、表情や身振り、手振りなどから、供述者の言いたいことを推測するのは勝手である、しかし、それは、実際に被疑者が言葉を発したというのとは違うのであるから、「表情等による推測」であることを報告書に明確に記載するのが当然である。
私も、過去に検察に勤務した経験から、そのような個々の検察官の裁量による「いい加減」な書面作成を許容する雰囲気が組織内にあったことは否定しない。しかし、それは、身内の中だけでしか許容されない「悪しき慣行」であり、世の中に向かって公然と正当化できるようなことではない。ましてや、近年、世の中のあらゆる組織がコンプライアンスとして組織内における適正な手続、報告などを求められている状況の中で、このような「開き直り」のような理屈を持ち出すことは、到底許されることではない。
「記憶の混同」を懸命に裏付けようとする検察
次に、前記(2)の、実際にはなかったと認めざるを得ないが、記載内容と同様のやり取りがあったものと思い違いをしていた可能性を否定することができない、としているのが、「小沢氏への報告等を認めた経緯に関する石川氏の供述」の部分である。
「検事から,『貴方は11万人以上の選挙民に支持されて国会議員になったんでしよ。そのほとんどは,貴方が小沢一郎の秘書だったという理由で投票したのではなく,石川知裕という候補者個人に期待して国政に送り出したはずですよ。それなのに,ヤクザの手下が親分を守るために嘘をつくのと同じようなことをしていたら,貴方を支持した選挙民を裏切ることになりますよ。』って言われちゃったんですよね。これは結構効いたんですよ。それで堪えきれなくなって,小沢先生に報告しました,了承も得ました,定期預金担保貸付もちゃんと説明して了承を得ましたって話したんですよね。」との記載は、検察の再捜査の結果を受けた検察審査会の議決書の中でも「石川は再捜査において、小沢への報告・相談等を認める供述をした理由を聞かれて、石川自身が有権者から選ばれた衆議院議員であることなどをその理由を合理的に説明し、小沢への報告・相談等を認めた供述を維持していることなどから、前記石川の供述には信用性が認められる」とされるなど、小沢氏を起訴すべきとする議決にも影響を与えた記載である。
昨年12月の小沢氏の公判における証人尋問で、田代検事は、この部分が事実とは異なる記載であることを認めたが、「勾留中のやり取りと記憶が混同した」などと弁解していた。
そもそも、直近の取調べでのやり取りを、4か月も前の勾留中の取調べでのやり取りと混同する、などということがあり得ないことは常識で考えても明らかであり、もし、一般人の被疑者が、このような見え透いた弁解をしたら、多くの検察官が、「ふざけるな」と一喝するはずだ。
ところが、最高検報告書は、田代検事の弁解の裏付けとなるものを懸命に探し出して補強しようとしている。
「石川氏の著作物の平成22年1月25日の欄の記載」(佐藤優・魚住昭「誰が日本を支配するのか」所収の石川氏の「獄中日記」)の「十勝の有権者は小沢ではなく、石川に期待して投票したと言われるのがつらい。検事も痛いところをついてくるものだ」という記述があることを指摘して、上記のようなやり取りが、石川氏の勾留中の取調べの中で実際にあったと認定し、田代検事の「記憶の混同」の弁解を裏付けようとしている。
また、反訳書の中に、「なんか、ヤクザの事件、検事も言ってたけどね。石川さん。ヤクザの事件と同じなんだよね」との石川氏の発言の記載を見つけだし、これを、田代報告書の前記記載のやり取りがあったように勘違いした根拠としている。
「石川氏の著作物」に関して、田代検事は、昨年12月の小沢氏の公判での証人尋問で弁護人から追及を受けた際には、「保釈後に石川さんが著書中で言っていることなどについて記憶があって」などと証言し、5月17日の取調べの時点で、石川氏の「獄中日記」の存在を認識していたことが「記憶の混同」につながったと説明していた。しかし、その後、該当する著作物の発刊の時期が、取調べの3か月も後であることを指摘されたためか、最高検に対する田代検事の弁解内容からは、「取調べ時に石川氏の著作物のことが記憶にあった」という部分は消えてなくなっている。そして、「獄中日記」の記載のことは、最高検報告書では、「やり取りが石川氏の勾留中の取調べの中にあったことを最高検が認定した根拠」にすり替わっている。
そこで、田代検事が「石川氏の著書」について、なぜ客観的事実に反する証言をしたのかが当然問題になるが、最高検報告書では、田代検事についての偽証罪の成否の判断の箇所で、「著作物の発刊日という事後的に容易に判明する事項に関わる事柄について、偽証の制裁を認識しつつあえて記憶に反する証言をすることは考え難い」と述べているだけで、事実に反する証言をした理由は全く明らかにされていない。
「検察官がすぐバレるようなウソを意図的につくわけがない」というのは一般的にはその通りである。しかし、いずれにしても「すぐバレるような事実に反する証言」をしたことが証言の信用性を減殺する重要な事実であることは否定できない。
小沢公判で証人として喚問され、報告書の虚偽記載について追及されることが予想される状況の中で、田代検事が何らかの形で「著書での石川氏の発言」について情報を与えられ、「記憶の混同」の苦しい言い訳をする際に頭の中が混乱したか、或いは、言い間違えをしたのかどちらかであろう。記憶していることをそのまま証言していれば事実に反する証言をすることにはならないのであり、小沢公判での証拠却下決定で裁判所が述べた「にわかに信用することができない」という田代証言の信用性の判断は、「石川氏の著書」に関する証言の虚偽が判明したことで、一層厳しいものになったと言わざるを得ないであろう。
石川氏の「ヤクザの事件」という言葉に至っては、5時間にわたる録音記録の中から、雑談的に交わされたこのような言葉を見つけ出してくる集中力には、ただただ敬服するばかりだ。しかし、既に述べたように、田代報告書に記載されている石川氏との問答殆どが凡そ「でっち上げ」に近いものであり、この「ヤクザの事件」という言葉を石川氏が一回発していることぐらいで「勘違い」が裏付けられるものではないことは、常識で考えても明らかであろう。
一般の被疑者であれば、一顧だにされないような弁解を、可能な限りの材料を集めて最大限に補強し、最後には、その弁解が覆せないから、嫌疑が十分ではないとして不起訴にしたというのが、今回、「身内の犯罪」に対して、検察がとった姿勢である。このような「温情あふれる対応」が、あらゆる刑事事件の被疑者に対してとられるとすれば、日本は、犯罪者にとってパラダイスになってしまうであろう。



