- 2019年12月09日 08:18
離婚後に子の監護をしたいと言ったらモラハラ? モラハラ被害の女性を保護せよと言ったら女性をバカにしている?
離婚により子の親権者はどちらかの親に指定され、その(単独)親権者が子の監護を行います。親権者ではない親が子との関わりは定期的な面会交流によって行います。
面会交流方法は両当事者が自由に決めることはできますが、合意ができなければ裁判所が決めます。いずれにせよルールに基づいて行われます。
監護親や子の生活もありますから、始終、面会できるわけでもないし、週1回あるいは1ヶ月に1回など限定されることは仕方ないことです。
ところで、離婚後の共同親権の導入を主張している人たちは、離婚後も親権者になるわけだから当然に監護もできる、つまり親権には監護権も含まれているという認識を披露しています。ツイッターの世界ではこうした主張が反乱しています。
これもその良い例です。
こんなのも見つけましたよ
— ここ (@caribdancer) November 27, 2019
怒鳴ったり小突いたりしたけど謝ったんだから子供を説得して会わせるようにしろとのことです pic.twitter.com/yLzSFEZJIi
決して特異な見解ではありません。
もともと面会交流が制限される事案というのは、あの家庭裁判所からみても制限すべきとされた事案なのですが、モラハラ系の夫から支配を受け続けた妻側からすれば、離婚後にその前夫と顔を合わせなければならないこと自体が非常に精神的負担の大きなものです。それだけでなく、子どもを面会させること自体にも大きな不安を抱いています。
裁判所は決まって離婚によって夫婦であるときとは関係が異なるのだから、従前と同じではないと力説します。確かに非監護親が子を返さないなどという行為はあからさまな犯罪行為です。だから一応、抑止されるだろうということです。
しかし、監護親側が持つ不安は犯罪になるからといってそれが抑止にはならないのではないかというものです。それまでの非監護親による支配的な態度からすれば、そうした不安を持つことは当たり前のことです。
家裁がそうした不安に寄り添うことはありません。前夫側の面会要求がさらに不安を増幅させる要因にすらなっています。
離婚を決意するときも同様です。離婚など切り出したらどうなるかわからない、何をされるかわからないという不安は常につきまとっています。だから我慢が強いられている妻も少なくないということです。自分、一人では離婚すらも実現できない状況なのです。援助が必要なのは、何も暴力を伴うDV事案だけではないのです。
道立女性相談援助センターはそうした女性の置かれた地位に鑑み、支援する目的で設立されたものです。体力的にも弱い女性が不当な支配下に置かれてきたことは歴史的にも実態からしても明らかなことです。
しかし、驚いたことに行政がこうした女性を支援すること自体が差別だとか、女性をバカにしているという人たちがいるのです。いずれも離婚後の共同親権を主張している古賀礼子弁護士と小倉京子弁護士です。
親権者ではないけれど、離婚後も子どもの養育に関わりたいと主張すると、モラハラ認定されてしまうのか。離婚後も単独親権で女性をモラハラ元夫から守らなければいけないなんて、女性をバカにしすぎじゃない? 私の所にくる女性の依頼者は、どんどん元気で強くなりますよ。 https://t.co/oaQEWeq2gA
— Kyoko Ogura (@22seashells) December 1, 2019
モラハラ支配に苦しめられる側の視点が全く欠如しています。私はこの二人の弁護士に人としての優しさを一欠片も感じることができません。
対等な関係ではないにも関わらず、「女性をバカにしている」などとよくも言えるものです。しかし、離婚後の共同親権の導入を正当化するためには、どうしても離婚した夫婦が対等の関係でなければならないわけです。それまでモラハラ支配を受けていた妻であろうと、「どんどん元気で強く」ならなければならないということになるのです。
そして、どんなモラハラ支配を受けていようとも、そうした女性を「どんどん元気で強く」するのは、「共同親権」という「魔法の杖」です。
こうした平等、対等の関係の元夫婦が共同親権者となり、子に対して離婚した夫婦が共同監護を行うという「理想郷」に到達するのです。
ここまで夫婦関係に問題があって離婚した夫婦が何故にそうした「理想郷」に到達できるのかが疑問なのは当然として、そうまで自分の「理想」をDV被害者に対してまで押しつけようとしている発想が尋常ではありません。
この小倉京子弁護士ですが過去には東京家裁の調停官をされていましたが、適格性を疑います。
これは、離婚した夫婦が対等であることを擬制しなければ成り立ち得ないのが離婚後の共同親権制度であることを示しています。
かつて民法が明治時代に制定されたとき、前提として士農工商を廃止した四民平等がありました。近代資本主義経済を作り上げるためには身分制度は邪魔になるからなのですが、建前としての平等でした。結果は対等という名の下での労働者からの搾取の自由り。
首切りも自由という中で、一応、労働法制によって修正を余儀なくなれましたが、しかし、資本家が労働者を支配する構造は何ら変わっていません。そういう中で、最近、ようやくパワハラ、セクハラが社会問題になってきたというのが実情です。それまで多くの労働者、女性が虐げられてきたし、未だにその是正、対策は発展途上です。
夫婦関係も同じです。男尊女卑思想が未だに強く残る日本社会において、夫婦が対等なんていうのは全くの幻想です。
もとより対等の夫婦であれば、独自に共同監護でも実践すればいいのですが(離婚後の共同親権がなくても立派に実践できるでしょう)、そういった前提がないにも関わらず、共同親権、共同監護を強制するのは、弱い側を虐げることを正当化するための根拠にしかならず、有害なのです。
共同親権、共同監護は、離婚が成立したという現実すらも無視するものであり、離婚後の一方配偶者による支配を正当化するものでしかなく、弊害しかありません。
離婚後の共同親権制度などその導入を絶対に許してはなりません。