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街場の教育論 韓国語版序文

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 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 このたび『街場の教育論』の韓国語版が出ることになりました。

 次々と僕の本を翻訳してくださっている朴東燮先生と、出版してくださっている韓国の出版社(今回はご縁の深いEdunietyからです)の皆さんに改めて感謝申し上げます。

 日韓関係はいま戦後最悪という状態にあります。外交関係は硬直したままですし、経済関係も冷却し、日本の観光産業を支えていた韓国からのツーリストも激減しました。一刻も早い日韓関係の修復と相互理解の進展を日韓両国とも多くの国民が願っているはずです。そういう状況下で、僕の本が翻訳、出版されることが日韓関係の改善にわずかでも寄与することができることを願っています。

 この本は「まえがき」「あとがき」に説明がありますように、2007年度(もうずいぶん昔のことです)の神戸女学院大学の授業を録音して、それをテープ起こししたものを添削した本です。

 その頃は教務部長という役職に就いていて、毎日のように会議に出て、業務に忙殺されていたので、本を書き下ろしている余裕がありませんでした。そこで窮余の一策、講義やゼミを録音して、それを文字起こししたものに加筆して「一丁上がり」という「一石二鳥システム」を採用することにしました。

 これがなかなかうまく行きまして、『街場の中国論』『街場のアメリカ論』『街場の文体論』『私家版・ユダヤ文化論』といった著作はどれも講義録を土台にしてできた本です。

 目の前にいる学生院生たちに話を聴いて、理解してもらわないという「待ったなし」の事情がありますので、こちらにも切迫感がある。聴いている学生たちが目をキラキラさせてくれれば「お、この話は受けているな」ということがわかるし、学生たちがばたばたと眠り出すと「このトピックは学生たちには切実なものではないんだ」ということがわかる。そういう双方向的なやりとりの中で作られた本ですから、書斎にこもって、ひとりでうんうん唸りながら書いている本よりも、だいぶ読みやすいものになっていたのではないかと思います。

 さいわい、この本は日本では好意的に迎えられ、いくつか書評にも取り上げられましたし、何より、多くの学校の先生たちに読んでもらいました。「読んで、ほっと安心しました」という感想を何人もの先生から頂きました。「学校でつらいことがあって、教師の仕事に迷いが出た時には、この本を取り出して、明日の活力を補給しました」という先生もおられました。そういう感想を頂いたことは僕にとってもたいへんうれしいことでした。

 いまの日本の教員たちと韓国の教員たちが置かれている環境がどれほど違うのか、僕にはよくわかりません。でも、僕の教育に関する書物が何冊も韓国語訳されていることから推して、「困っていること」については、いくつかの共通点があることは間違いないと思います。そして、おそらく両国の学校教育の最も重要な共通点は学校教育を市場原理に基づいて語る作法だと思います。

「学校教育を市場原理に基づいて語る」というのは、「マーケット」とか「ニーズ」とか「費用対効果」とか「組織マネジメント」とか「工程管理」とかいう工学的・マーケティング的な用語が教育について語るときに繰り返し口にされるということです。

 そういうのが流行りなんです。日本でも90年代からそういうふうになりました。21世紀に入って、さらにその傾向は強化されてきております。

「社会に出てすぐ役立つ知識や技術だけを教えろ」「人文科学的教養は実用的でないから教える必要がない」「学者ではなく、実務経験者を教員に登用して、社会の現実を学生たちに教えさせるべきだ」というような手荒な要求が財界や政治家たちからは次々と出されて来ますが、教育の現場それに対してなかなか有効な反論ができずにいます。

 でも、僕はそういう風潮を肯定的には評価できません。はっきり言って、「実用」とか「有用性」とか「生産性」というようなビジネス用語で教育を語って欲しくない。でも、まことに残念ながら、僕と意見をともにしてくれる人はいまの日本では少数派です。

「市場原理に基づいて」と上に書きましたけれど、もっと限定的に言うと、「工場での工業製品製造原理に基づいて」です。工場のラインで缶詰や自動車やコンピュータを製造することが産業の主要形態であったかなり昔のモデルに基づいて、いま学校教育は制度設計されています。

 正直言って、僕はその古さと非現実性にうんざりしているのです。

だって、もうそんな時代じゃないんですから。

 工場でものを作ることが産業の主要形態である時代はとうに過ぎてしまった。なのに、どうしていまだに「自称実務家」たちは「工場で缶詰を作る」ような気分で学校教育をしたがるのか、僕には理解できません。

 勘違いして欲しくないのですけれど、僕は「もうそんな時代じゃない」から、古典的な中枢的な工程管理を止めて、「いまふう」にしろと言っているわけじゃないんです。誤解しないで下さいね。学校教育もこれからはスタンドアロンのアクターたちが自由に離合集散してアドホックにプロジェクトを遂行するリゾーム的なネットワークにしろとか、そういう目がちかちかするような話をしているわけじゃないんです。そうじゃなくて、学校教育というのはもともと惰性の強いものなんだから、時代に合わせてころころ変えるとろくなことはないと申し上げているのです。

 社会のニーズなんかいいから、基本的なことだけをきちんとやればいい、と。なにしろ、学校の本質は人類史の黎明期からたぶんほとんど変わっていないはずだからです。

 学校の人類学的機能は要言すれば一つしかありません。

 それは「共同体の次世代の成員たちが生き延びてゆけるように、その成熟を支援すること」です。それに尽くされる。

 ですから、あらゆる教育事業は「これは子どもたちの生きる力を高めるのだろうか? 子どもたちの成熟を支援する役に立つのだろうか?」という問いを通じて、その適否を吟味する。それだけで十分です。それ以外のことは学校教育にとってはすべて副次的です。

 例えば、「子どもたちの相対的な優劣を競わせ、格付けを行うこと」は教育にとってとりわけ優先的な仕事ではないと僕は思います。子どもたち同士に優劣を競わせて、格付けを行ない、高いランクの子どもを厚遇し、低いランクの子どもを処罰するということが子どもたちの市民的成熟に資すると僕は思いません。僕の知る限り、「競争と格付け」が子どもたちを成熟させる、子どもたちの生きる力を高めるということを科学的に証明したエビデンスは存在しません。

 そんなエビデンスがあるわけない。科学的に実験しようと思ったら、子どもたち二つのグループに分けて、一方は「競争」を優先する環境に置き、一方は「成熟」を優先する環境において、20年くらい経年変化を見ないとわからないからです。でも、20年やってみて「あ、こちらのグループの教育は失敗したようです。みんな不幸になりました・・・」と言って済ませるわけにはゆかない。子どもは実験台にはできません。

 にもかかわらず、現在の学校では、限りある教育資源は「確実にリターンがあるところ」に傾斜配分すべきだという「選択と集中」理論があたかも科学的真理であるかのようにのさばっている。「すぐに金儲けにつながりそうな領域に金を投じ、なさそうなところには金を使わない。先行き役に立ちそうな子どもに手をかけて、できの悪いのは放っておく」というルールが教育現場を支配している。

 ここには「未来の共同体を担う次世代の若者たちの成熟を支援する」という配慮はかけらほどもありません。ゼロです。当然ながら、子どもたちを競争させ、厳密に格付けしても、それによって彼らが「賢い、まともな大人」になるということはありません。むしろ、競争的環境は彼らの成熟を阻むと僕は考えています。

 その理屈をちょっと噛み砕いてご説明します。

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