- 2019年12月01日 15:47
「コツコツ努力する」への違和感、あるいは反発
2/2 勉強し、成果を出し、出世できる人々、金儲けできる人々が社会の中心で活躍している。そういう人はストロングゼロのロング缶を飲んだりはしないのかもしれない。持ち前のコツコツ努力で、フィットネスジムに通って健康的な生活をしているような気がする。
そういうよくできた人々に及ばないまでも、そこそこ頑張って、まずまず安定した生活をして、苦楽のなかで生きている人も多い。
では、努力する才能に恵まれない人々、気力のない人々、コツコツやれない人々は、現代社会でいったいどうなるのか? 苦しかないのか? いや、苦しかないというのは極端としても、goldheadさんがしばしば述べるように、不運や不遇、低い自己評価といったものを仕方なく受け入れるしかないのか。
コツコツ努力できない人がおのずと低い自己評価を持たざるを得ない社会は、なぜ、そのような社会のままでも構わないとみなされているのだろうか?
現代社会は、メリトクラシー、能力主義によって給料や社会的地位が変わることになっている。能力主義が成立する前の、身分制度の世の中に比べればマシだというのは理解できる。ただ、その能力主義がすっかり隅々にまで浸透し、みんなの常識になった結果として、その競争ルールでは不利にならざるを得ない人々が不遇をかこつ状況までもが正当化されて構わないものなのか、その正しさが、私にはときどきわからなくなる。
能力のある人々が頭角を現すのは、別に構わない。けれども当代に期待される能力が乏しい人々が、単に収入や地位が得られないだけでなく、その内面において「自分はどうしようもない」と思わざるを得ないのは、行き過ぎているのではないだろうか。
ところがこの行き過ぎが社会の常識にまでなっているものだから、「能力も努力も足りなかったのだから仕方がない」の一言で片づけられてしまう。
もうちょっと物分かりの良い人なら、「だから福祉が何とかしなさい」といったことをいう。福祉! もちろん福祉はあったほうが良い。だけど福祉は、この能力主義のピラミッドゲームを緩和しているのだろうか?
福祉は、いまどきの能力主義に乗り切れない人々を能力主義の枠内へと再収納することによって、人々をしばしば救う。だが福祉は、いまどきの能力主義に乗り切れない人を能力主義の枠外のまま救うようにはできていないように、私にはみえる。
……うまく書けている気がしないな。
別の言い方を試みてみよう。
なぜ私たちはコツコツと努力するのがさも人々の義務みたいな顔つきをしているのか。コツコツと努力できない人々がよろしくないような顔つきをしているのか。そのあたりがわからないのだ。わからないといって語弊があるなら、この、努力とか上昇志向といったものが浸透した社会の常識を胡散臭く眺めたくなる、と言い換えるべきかもしれない。
社会は、何百年も前からコツコツと努力する人々で満ちていたわけではない。ましてや、コツコツと努力する人間をあるべきテンプレートとしてきたわけでもない。ところが今日では、それがテンプレートのようになって、私たちの罪悪感や劣等感や徳目とも結び付いている。
私は今、現代社会では当たり前になっているものについて書いているから、ほとんどどうしようもならないことについてウダウダ書いているも同然だ。少なくとも私はこの常識にかなり染まっている自覚があって、たとえば、ガチャの荒ぶるソーシャルゲームを遊んでいる時ですら、マネジメントとか効率性とか、資本主義の呪文を唱えながら努力してしまっている有様だ。遊戯の時ぐらい、私はもっと気ままに、もっと自由に遊んだっていいはずなのに。
コツコツ努力するという、現代社会を貫くイデオロギーに背を向けるのは高くつく。私のような人間は、コツコツ努力するというイデオロギーについてむやみに考えず、むやみに疑わず、もっとよく仕え、もっと賛美すべきなのかもしれない。だが、goldheadさんの文章を読むと、それでいいのかという気持ちになる。
* * *
私はまだ、脳内に渦巻いているものをうまく書けていない、と思う。「コツコツ努力する」は、私が言いたかったことの一部でしかない。goldheadさんが書いていたことのメインテーマ……でもなかったような気がする。ただし、「コツコツ努力する」をはじめとする現代社会の常識に、今の私が強い違和感をおぼえていることはよくわかった。私は「コツコツ努力する」が得意な部類に入って社会適応を助けられたが、すべての人にこれが求められるのは、何か違う、と思わずにはいられない。
- シロクマ(はてなid;p_shirokuma)
- オタク精神科医がメディアや社会についての分析を語る



