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非モテ中年は幸福になれるか 〜ミシェル・ウェルベック『セロトニン』書評 〜

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・幸福の約束? ウェルベックの悲観的な「幸福論」

ウェルベックが『セロトニン』で問うのは、自由と幸福とがもはや一致しなくなった現代社会における「幸福」の諸相だ。エムリックとのエピソードも、単にフィクションというわけではなく、社会学的調査をもとに記述され、平均2日に1人が自殺し、今後十数年で半分に減るだろうと言われるフランス農業の絶望的な現実を反映している。

世界保健機関によれば、世界のうつ病患者は推計3億2,200万人に上ると言われている。フロランもエムリックも、現代社会に適応できなかったことで精神障害を発症してしまった中年男性として描かれているが、精神の病が蔓延する今日の世界に生きるわれわれにとって、他人ごとではないリアリティがある。

ウェルベックは、そのような鬱々とした社会から抜け出すための希望となる視座を『セロトニン』において一切提示していない。むしろ逆に、彼は現代社会が「解決策」のような体でわれわれに提示する「幸福への約束」を徹底的に否定しているように思われる。

現代社会の兆候を「幸福論的転回」として分析した文化理論家のサラ・アフメドは、セラピー治療やポジティヴ心理学の流行と、その知見が商品化され消費される過程を「幸福産業」と呼んだ。現代において「幸福」は、ますます市場を通じて取引される商品の様相を呈しているが、『セロトニン』に登場する「キャプトリクス」は、そのような即物化されたまやかしの「幸福」を象徴しているのではないだろうか。

〔キャプトリクスは〕どんな形の幸福も心の安らぎももたらさない、その作用は別の所にある、それは生を型にはめて、生を騙すことを可能にしてくれる。ゆえに人が生きるのを助ける、少なくともある一定の間は死なない手助けをする。
(ミシェル・ウェルベック『セロトニン』、関口涼子訳、河出書房新社、2018年、P.287。訳は筆者が一部変更した)

「キャプトリクス」は、生を騙しながら生きることを可能にしてくれるものの、幸せをもたらすものではない。むしろ副作用によって不能になったフロランは、彼にとって唯一の「幸福の約束」であるエロティシズムの可能性をも失ってしまった。抗うつ剤によって苦痛を軽減しながら静かに死を待つ『セロトニン』の結末からは、もはや「幸福」などというものは幻想にすぎず、苦痛を軽減してくれる薬の唯物的な作用のみが現実だという諦めさえも感じられる。

「もし人生が苦痛であるとすれば、最良の行動は、静かに片隅に引きこもり、すべてを終わらせる老いと死を待つことだ」と喝破したショーペンハウアーの哲学の影響下にあるウェルベックの幸福論は、幸福とは苦痛の軽減にすぎないと考える悲観的な「反-幸福論」だといえるのではないだろうか。

以上のようなウェルベックの悲観主義は、「幸福」の商品化が蔓延し、その即物化が加速する現代社会を相対化する視座をもたらすだろう。そもそも人間には「幸福になる能力が備わっていたのだろうか」と漏らすフロランの問いかけは、市場こそが「幸福」を供給すると嘯く「幸福産業」を吹き飛ばす爆薬として機能する。というのも、この問いかけのうちに、「幸福産業」が期待する「幸福」など初めから実在しないという声を聞き取るのは容易だからだ。即物化した「幸福」は、フロランにとってはせいぜい苦痛の軽減としてしか意味を持ち得ない。この意味で、「キャプトリクス」が象徴しているのは積極的な意味での「幸福」の不在なのだ。

批評家のマーク・フィッシャーが正確に指摘しているように、今日のメンタルヘルスの問題は資本主義と密接に関係している。彼は『資本主義リアリズム』のなかで、精神障害を個人の科学的・生物化学的問題とみなすことで利点を得る資本主義を批判しつつ、以下のように述べている。

精神障害を個人の科学的・生物化学的問題とみなすことで、資本主義は莫大な利点を得るのだ。第一にそれは、個人を孤立化させようとする資本の傾向を強化させる(あなたが病気なのはあなたの脳内にある化学物質のせいです)。第二にそれは、大手の多国籍製薬企業が薬剤を売りさばくことのできる、極めて利益性の高い市場を提供する(私たちの抗うつ薬SSRIはあなたを治療することができます)。

全ての神経障害が神経学的な仕組みによって発生することは論を俟たないが、だからといってこのことはその原因について解明するものではない。例えば、うつ病はセロトニンの濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されねばならない。そのためには社会的・政治的な説明が求められるのである。
マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀之内出版、P.98。

精神障害の原因を個人の生物・化学的問題に還元するともに、その解決策は「抗うつ剤」や「セラピー治療」という形で市場が提供すると嘯く「幸福産業」のレトリックが、ここで批判されている。現代社会が強いる苦痛は「幸福」をもたらす商品の提供によって補償されるという「幸福産業」の自負は、苦痛の本来的な原因からひとびとの目を背けさせることに寄与する。

マーク・フィッシャーが指摘しているように、うつ病の問題において本質的に求められるべきなのは、なぜ「特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのか」についての社会的・政治的な説明であり、ひとびとに「幸福」を約束する「商品」がそれにとって代わることは出来ないだろう。

ウェルベックが『セロトニン』で描いた世界は、自由主義によって孤独と失業を押し付けられた中年男性の鬱々とした世界だ。そこではもはや「幸福」は幻想に過ぎず、抗うつ剤がもたらす苦痛の軽減のみが現実となっている。自由は格差を押し付けるに過ぎず、幸福は現実的に存在する格差から目を背けさせるまやかしであると喝破するかのようなウェルベックの世界観は、「自由と幸福の一致」を現代まで素朴に信仰してきてしまったわれわれの常識に、大きな揺さぶりをかけるのではないだろうか。

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