- 2019年11月11日 07:23
首里城復元に使うべき木材はスギだ。琉球の歴史をひもとけば見えてくる木材事情
1/210月31日未明に起きた大規模な火災で焼失した首里城(那覇市)は、早期の復元を望む声が湧き上がっている。すでに寄付金集めが全国で行われているという。
ただ再びの復元には莫大な金が必要なほか、十分な職人や木材や漆など用意できるのか難問続きだ。とくに問題となっているのは、「正殿」に必要な木材だろう。無垢で大径長大木が必要とされるからだ。
実は、私は前回の復元(1992年)ではタイワンヒノキが使われたという報道を聞き、ちょっと疑った。なぜなら、その頃はすでにタイワンヒノキは伐採禁止であり、日本への輸出はできないはずだったからだ。
ただ調べてみると、86年には復元計画に先立って木材の調達を始めていた。当時も制限はかかっていたが台湾も特例で認めてくれ、木材業者も協力してくれたという。
なるほど、完全に伐採禁止になる前から集めていたのか。とはいえ、かなり無理をしたはずだ。台湾側には「これが最後」という声もあったという。おそらく山から伐り出すだけでなく、以前に伐られてストックされていた在庫などもかき集めたのだろう。「正殿」には樹齢300~500年生で直径1メートル級のタイワンヒノキを約100本使ったという。
世界中の大径木が枯渇している
現在、大径木材は世界的に枯渇している。それなのに日本では寺社や宮殿、城郭とくに天守閣の復元が盛んで、大径木材集めに狂奔している。奈良の平城宮・大極殿(2010年)にはかろうじて国産のヒノキ材を使えたが、薬師寺の伽藍再建(西塔が1981年)にはタイワンヒノキを使った。そして昨年再建された興福寺の中金堂は、カメルーン産のアフリカケヤキ(アパ)を使用した。
しかし、今回はさすがに難しい。タイワンヒノキも調達できないだろう。国産ヒノキも、そうしたクラスの大径木はほとんど底を付いている。そこで米国のヒノキか国産のスギを使えないかという案が政府内で出ているそうだ。
ここで情報が錯綜している上に、賛成・反対を含めて意見がかまびすしいので、少し整理しておきたい。
まずタイワンヒノキは日本のヒノキとは同じ木ではない。正確には台灣扁柏と台湾紅檜である。もちろんアメリカのヒノキも別物だ。現地ではローソンサイプレスなどと呼ぶ。日本でベイヒ(米檜)と名付けたのは木材業者の都合である。
首里城に使われた木材を林政書より推測する
では、過去の首里城は何の木でつくられていたのか。これが難問だ。
首里城が最初に作られたのは14世紀末頃と推定されている。ただ史書に記録されているだけでも4度にわたり焼失している。一度目の焼失は、1453年。王の崩御後に発生した王位争いの際による。2度目の焼失は、1660年。失火によるとされ、再建には11年もの歳月を要した。
3度目の焼失は、1709年に起きた火災が原因。1715年に再建されて、明治維新(琉球王国から沖縄県へ)を経て1925年に特別保護建造物、1929年には国宝に指定されている。しかし1945年の沖縄戦で破壊された。
この4代目の首里城を復元の原形として建てられたのが、今回消失した首里城だ。つまり5代目となる。しかし正確な姿はわからなかったので、推測と想像で建てられた部分が多い。
さて、これらの首里城は何の木で建てられたか。
琉球の林政書の一つ『杣山法式仕次』(1747年成立)によると、首里城の正殿はこれまでカシを用いて普請していた」とある。しかし「腐りやすいので20年あまりで改築することになっている」ため、巨額の国費を費やした。そこで今後は腐りにくい「イヌマキと定める」とあった。そして「イヌマキを第一とし、次にモッコク、イジュシイを用いる」。そのためこれらの木の植林を奨励している。
ただし、これらの木々も、琉球では枯渇しつつあった。とくに大径木材はほとんどない。そこでさまざまな木を輸入している。樹名にキリやヒノキ、ツガ、クスなどが上げられているが、杉と●(木偏に久しい)の文字も見える。この場合、どちらも読み方はスギだが、杉は広葉杉、中国産のコウヨウザンを指すと思われる。一方で●は日本産のスギだろう。とくに、この日本産のスギは重要な樹木と位置づけ、植林も進めたようだ。林政書『樹木播植方法』(1747年成立)にはスギの挿し木や種子の植樹方法が図入りで示されている。そして御用木とした。
『山奉行所公事帳』(1751年成立)には「スギはイヌマキと並んで首里城の正殿の改築に使う、そうすれば数十百年も保持される」旨、記されている。
余談ながら、現在の沖縄にほとんどスギは植えられていない。当時はこれほど重要視していたのに、現在の沖縄でスギが求められていないのは不思議である。