- 2019年11月08日 09:58
アキバ中央通りの18禁ゲーム看板はなぜ問題なのかを真面目に考える
2/2「性的モノ化と性の倫理学」と題されたこの論文からヌスバウムの箇所を引用してみよう。
以上のようなカントの議論とラディカルフェミニストのモノ化批判の間には密接な関係があ る。マーサ・ヌスバウムは“Objectification”(「モノ化」)という非常に優れた論文で、カント とラディカルフェミニストの両者の洞察に由来する説得的な議論を提示している(Nussbaum, 2002)。これは非常に興味深い議論なので若干細かく見てみたい。 典型的にはひと(person)のように、モノではないものをモノとして扱うのが「モノ化」である。ヌスバウムによれば、性的モノ化という概念は曖昧なだけでなく、実は根本的に集合的 な概念であり、これがポルノや買春を扱ったフェミニストの議論に混乱を引きおこしている。 彼女によれば、モノでないものをモノとしてとりあつかう(treating as an object)には少なく とも七つの意味がある。
- 道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
- 自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持 つことを否定する。
- 不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
- 代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
- 毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundary-integrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
- 所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
- 主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。
すべての「モノ」が上の特徴のすべてをそなえているわけではない。たとえば、たしかにたいていのモノは自律的でなく、また、その主観的経験を(道徳的に)配慮する必要はないかも しれない。また、すべてのモノをなんらかの道具として使うことができるかどうかは明確では ない。また、美術品(たとえばモネの絵画作品)のように、モノであっても、かけがえないの ないモノであり代替不可能で、毀損すべきでないモノもある。コンピュータのように、モノで はあるが、一定の意味では自発的活動性を有すると認められるモノもある。また、モノは誰か によって所有されることが多いが、富士山や月のように、通常の意味では所有されえないモノ もある。つまり、この七つの意味はそれぞれ論理的には独立の概念内容であると考えられる。 したがって、このさまざまな意味のどれが「モノ化」が倫理的に問題を含んでいると言われる 意味なのかを分析する必要がある。
この7つ項目に従って、トレーダー3号店のみるくふぁくとりー広告を見てみよう。
- 道具性
「おっぱいハーレムをゲット」という物をコレクションするかのようなコピーに道具性が現れている。
2 .自律性の否定
「孕ませ」というある種の強制性が自律性や自己決定能力を否定していると言える
3 .不活性
やはり「孕ませ」や「ゲット」といったワードに能動性の否定が見える。
4 .代替可能性
幾人もの似たような体型の人物が描かれており、またこれらをコレクション的に取り扱う文言があるため、代替可能性を示していると言える。
5 .毀損許容性
こちらも「孕ませ」というワードから毀損許容性を示していると言える。
6 .所有可能性
これもコレクション的に取り扱う文言があるため、所有可能性を示していると言える。
7 .主観の否定
顔を塗りつぶされてるというわけでもないので、こちらは該当しないと思われる。
このように見ていくと、かの広告は絵が性的だとかそういうことではなく、広告に載せられたコピーや作品タイトルに「性的モノ化」が潜んでいることがわかる。このあたりが多くの人々に非倫理性を感じさせる要因なのであろう。
もちろん性的モノ化されたポルノが存在することが悪いわけではない。だが広告としてどうか、というのは別の話である。
さらにいえば「性的モノ化」が悪いことなのか、という問題がある。
エブリン・ベンチコヴァ(1993〜)による「この人を見よ」。スロバキアの写真家。多数の人間の集合体を顔を写さずに捉えることによって、共感や理解の入り込む隙を排除し、奇妙な生物のように見せています。 pic.twitter.com/9LRqjB7GAc
— ◆デザインwithアート最前線◆ (@rejykikafav) October 28, 2019
たとえば上記のようなアートはどうか。人間をモノ化し能動性や自律性を否定してはいないか。代替可能性を示してはいないか。そのような表象を広告に使ってはいけないのか。
もちろんそんなことはないのである。論文「性的モノ化と性の倫理学」ではヌスバウムも「チャタレイ夫人の恋人」を挙げ、「すばらしい性的モノ化」と評してることが記述されている。
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では非倫理的な「性的モノ化」とはなにか。同論文では雑誌「プレイボーイ」を例にあげている。
ヌスバウムが典型的な『プレイボーイ』的女性描写と見るのは次のようなものである。
女優のニコレット・シェルダンがテニスをしている写真。スカートがまくれあがり、黒いパンティが見えている。「オレたちがテニスが好きな理由」というキャプション。
『プレイボーイ』の視点は、女性をその人格・出自・内面性から切りはなし、快楽のための 手段としてのみ扱っており、道徳的に問題のある「モノ化」の典型である。このような写真や キャプションは、「この女がどんな女で、なにをしていようとも、性的な快楽の対象なのだ」 というメッセージを伝えているという。
こうした道徳的問題を抱える「性的モノ化」とそうではない「性的モノ化」をどのように峻別したらよいのであろうか。
ヘイトスピーチの議論を思い出そう。「明白かつ現在の危険」があるなら表現の自由は限定的に制約され得る。もし女性が街を歩くのに男性保護者が必要なほどいつもいつも危険にさらされているなら、それは「明白かつ現在の危険」になり得るということだ。そこにある種の「性的モノ化」がヘイトスピーチのような加害煽動として機能する可能性は十分にあるだろう。
アメリカの強制性交は日本の強制わいせつの10倍もの発生率がある。これは定義を広げてるせいもあるが、旧定義でも7倍程度はある。暗数調査でも日本は比較的申告率も低くないので、認知されてない事案が多いということもないはずだ。
さてこの状況を「明白かつ現在の危険」と言えるだろうか。そしてあなたが問題視してる表現は「加害煽動」になり得るだろうか。アメリカではどうだろうか。日本ではどうだろうか。
どうせ議論するなら有益な方がいい。不快さだけが理由ならトライポフォビアのために草間彌生のアートや水玉模様を禁止してみたらいい。禁止すべき広告があるなら、禁止すべき理由をきちんと説明できなければダメなのである。
我々は自由主義国家の市民なのだ。自由であることに誇りを持とう。
*1:個人的には軽犯罪法を少し拡張するだけで十分対応できたのではないかとは考えているが、悪質な扇動者を長期勾留するには足りないらしい。



