ゴーンショック以降、ドタバタが続く日産自動車(以下日産)の再生に向けた新体制が、ようやく確定しました。社長兼CEOに53歳の内田誠専務執行役員が就任し、COOにはルノー出身で49歳のアシュワニ・グプタ氏を登用。
経営陣の一気の若返りと脱旧体制的な新鮮味を感じさせる新首脳人事となり、新生日産をイメージさせるという点からは一定の評価を与えられる布陣になったように思います。
日産の企業史上において今回の内田新体制が意味するもの、そしてこの体制で乗り越えるべき重要課題解決のポイント等について、少し考えてみたいと思います。
日産の新体制人事は「遅すぎる粛清」

昨年11月に発覚したカルロス・ゴーン元会長の組織私物化に端を発した問題は、ゴーン氏の後を受けた西川広人社長兼CEOまでもが不正報酬受領での辞任に至り、「不正の連鎖」という最悪の展開になりました。これは日産自動車自体の組織としてのガバナンス欠如以外のなにものでもありません。
すなわち、長期化したゴーン独裁政権による実権者の組織私物化が、「長いものに巻かれる」組織風土により、それを見過ごしかつ次なる不祥事を生むという負の連鎖を生んだ、と考えるのが至極常識的な理解であると思えるところです。
ゴーン氏の不祥事発覚の際にも申し上げましたが、経営者の不祥事を牽制すべき立場にありながらそれをできずにいた取締役には、職務遂行上重大な瑕疵があるわけです。従い、「ゴーンチルドレン」でもある西川氏がトップのイスに座り続けることには、個人的には大きな違和感をもって見ていました。
西川氏に関しては、自身の不祥事が恣意的なものであったか否かにかかわらず、ゴーン氏の不祥事に対して経営の一翼を担ってきた立場として責任を自覚し、即座に辞任すべきであったと改めて思うところです。すなわち今回の人事は、日産にとっては「遅すぎる粛清」であると言っていいと思うのです。
瀕死の日産を救ったゴーン氏体制の光と影
歴史を紐解けば、90年代までの日産には「赤信号みんなで渡れば」的な旧来のサラリーマン経営者的マネジメントがはびこり、それがゆえに90年代の日産に深刻な業績不振をもたらしました。
すなわち、下請けおよび部品メーカーの集まりである日翔会(54年設立の日産宝会と66年設立の晶宝会が統合されて94年に発足)という、時代錯誤的な縦型系列企業群のしがらみの温存です。総数約1400社とも言われたこの系列企業グループが足かせになって、日産はめぼしいリストラ策すら思うに任せず、瀕死の状態に陥っていったのです。
日産救済のミッションを背に99年資本提携先の仏ルノーから派遣されたゴーン氏は、その強腕によって同社は見事なV字回復を果たします。
歴代の日産経営者、すなわち縦型系列企業群のつながりを重視するプロパーの日本人経営者たちでは決して手をつけられなかった脱系列化に、何のしがらみもない外国人経営者のゴーン氏はいとも簡単に大ナタを振るったのでした。
具体的には、主力4社を除く全ての系列企業から資本の引き上げをおこない、「新たな株主は自力で探せ」と突き放すという系列破壊を実行したことで、下請け企業に多大な犠牲を強いながらも日産の窮地を救いました。
これが日産にとって、第二創業とも言える経営の大転換期であったと言っていいでしょう。しかしその結果として、第二創業の立役者であるゴーン氏はそれまでの穏健経営を大きく転換させ、カリスマトップとして強大な権力を握ることになります。
役員の報酬決定権、人事権を自身に集中させた独裁体制を築いたことで、今度はトップ追随型の新たな悪しき組織風土が醸成され、不祥事連鎖体質への道へと足を踏み入れていったわけなのです。