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哲学と世界を変えるには——石田英敬 × ユク・ホイ × 東浩紀 “Is a Post-European Philosophy of/in Technology Possible?” イベントレポート

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伊勢康平(ゲンロン編集部)@yisikp

東アジアの三人の哲学者が、通訳をまじえずに英語で議論をする。そんな日本ではかなり挑戦的と言えるイベントが、五反田のゲンロンカフェで開催された。二〇一九年八月二〇日、香港出身の哲学者であるユク・ホイ(許煜)を招き、石田英敬と東浩紀が彼を迎えるかたちで行なわれたトークショー “Is a Post-European Philosophy of/in Technology Possible?” である[★1]。

ぼくはゲンロン編集部に所属しており、中国近現代の思想や文学を研究するかたわら、ユク・ホイの『中国における技術への問い The Question Concerning Technology in China 』(二〇一六年)の全訳を仲山ひふみと進めている。また今回のイベントでは、ゲンロンのスタッフとしてユク・ホイとの連絡や一部広報などを担当した。本稿では、翻訳者でありゲンロンのスタッフでもあるぼくが、中国思想を学ぶ者の視点から見たイベントの模様をレポートしようと思う。

ゲンロンカフェには、これまでも海外の思想家や作家が登壇してきたが、通訳をまじえないイベントは初めてである。なので運営側としてもどれほどの反響があるかまったく読めない状況だった。企画当初は、五〇人くらいの聴衆が会場に集まればよいのでは、というくらいの気持ちだったのである。だが蓋を開けてみれば、会場にはじつに七〇人あまりの聴衆が足を運び、しかも九割以上は日本人であった。さらに言えば、外国人でも日本語が堪能なひとが多く、結果として英語話者で日本語のできないユク・ホイがかえって圧倒的なマイノリティとなり、なぜか肩身のせまい思いをするという不思議な雰囲気のなかイベントは始まったのである。これはお呼びした側としてはやや想定外であり、申し訳ないことではあった。

ユク・ホイはドイツに拠点を置く気鋭の哲学者である。著書『中国における技術への問い』の序論の翻訳が『ゲンロン』に掲載されたので、ご存じのかたも多いだろう[★2]。今回のイベントは、いま世界的に注目を集めるユク・ホイが新著『再帰性と偶然性 Recursivity and Contingency』(二〇一九年)の最後で提唱した「ポストヨーロッパ哲学」という概念をめぐって、『新記号論』の著者である石田・東両氏と討論するというものだ。『新記号論』のなかで、ふたりは二一世紀のメディア状況、とりわけ情報技術や認知科学の発展を視野に入れた新しい記号論の創造を試みており、今回もおのずと技術の哲学、また近代のテクノロジーと哲学の関係性にまつわる問いを中心に議論が展開されることとなった。

イベントはモデレーターを務めた東による趣旨説明および石田によるユク・ホイの紹介に始まり、ユク・ホイと石田がそれぞれプレゼンを行なったあとで、三人によるディスカッションで締めるという流れで進行した。ユク・ホイの発表は、ポストヨーロッパ哲学という新しい用語の意味や可能性を起点とし、中国の技術哲学を通じて、彼の一貫したテーマである技術の多様性を問題とするもので、石田のプレゼンはおもに、『新記号論』でも主題的に論じられたあらたな一般記号学の見地から、ライプニッツを介して中国古代のメディアや記号システムを再解釈しながら、「デジタル的転回」というキーワードによってその変遷を論じるものであった[★3 ]。ここではふたりの論点をまとめつつ、両者のアプローチの関係性や、京都学派と新儒家といったトピックについて検討したい。

【杭州でユク・ホイが開催したシンポジウムで出会ったという三人。石田と東は、東の学生時代以来およそ二〇年ぶりの再会であったという。】

ポストヨーロッパ哲学はなぜそう呼ばれるか

今回のイベントのタイトルの和訳は「テクノロジーの/におけるポストヨーロッパ哲学は可能なのか?」である。そもそも、ポストヨーロッパ哲学とはなんなのか。ユク・ホイはこの概念をハイデガーの議論から引き出している。

ハイデガーによれば、西洋の形而上学は、存在 Sein の本質を忘却させ、それを存在者 das Seiende の問いにすり変えてしまうという点で、科学やテクノロジーと本質的に共通している。近代のテクノロジーが西洋を超えて各文明へと拡大することは、すなわち西洋的な思考の形式が広がってゆくことと同義なのである。したがって、近代的なテクノロジーによって規定された均一的な世界文明が誕生するとき、世界は事実上、西洋の哲学によって支配されることになる。ハイデガーはこれを「哲学の終焉」と呼んだ。つまりここでハイデガーが言う終焉とは、死滅ではなく完成なのである。

「哲学の終焉」とは西洋哲学の支配であり、ゆえにテクノロジーの支配である。この議論がもつ意義はじつに大きい。というのも、ユク・ホイが紹介したこのハイデガーの議論を受けて東が強調したように、これは西洋の文化的な支配が、本質的にテクノロジーによる統一的な支配でもあることを意味しているからだ。そうであるならば、西洋の文化的支配に抵抗するべくさまざまな地域がもつ文化の多様性に訴えかけることは、はなからまったく不十分だということになる。なぜなら、いくら文化が多様化したところで、技術による支配と均質化は依然として進行したままであるからだ。このようにして東は、技術的な思考を、果ては技術そのものを多様化すべきであるというユク・ホイの主張の重要性と必然性を説明する。

続けてユク・ホイは、この「哲学の終焉」を決定づけているのは、ノーバート・ウィーナーによって提唱されたサイバネティクスであるというハイデガーの議論に言及する。サイバネティクスとは、情報通信による制御という観点から、生物や機械を統一的に認識することを目指した理論であり、そこでは必然的に機械と生物の対立は曖昧にされる。これに対して東は、機械論(機械)と有機体論(生物)の対立とは、言い換えればシステムと自由意志の対立であり、この二項対立こそが近代的な思考を特徴づけていたと指摘する。つまりサイバネティクスはそうした近代的な二項対立を乗り越える可能性をもつのである。他方、ユク・ホイは、ここでサイバネティクスがあくまで機械の理論であることに注意しなければならないと主張する。なぜなら、機械が生物の動きを取り込むことによって二項対立を乗り越えるということは、まさに機械を生みだす技術的思考によってすべてが統御されるということにほかならないからだ。ハイデガーは、一九六六年の『シュピーゲル』誌での対談において、哲学のあとに来るものはサイバネティクスだと述べているのだが、それはこうしたサイバネティクスの性質に由来している[★4]。

近代的なテクノロジーの支配によって、西洋の哲学は終焉=完成する。そして「哲学の終焉」以後の時代を特徴づけるのは、機械と生物の対立を機械の側から乗り越えるサイバネティクスである。「ポストヨーロッパ哲学」をめぐるユク・ホイの議論はこの認識を前提としている。つまり彼は、ヨーロッパの哲学が終焉を迎えたあと・・ に、どのような哲学が可能であり、また思考されるべきなのかを問題にしているのだ。

とはいえ、そのような思考はいかにして可能となるのだろうか? 東は、哲学の終焉によって西洋の思考が世界を支配するのであれば、非ヨーロッパの思考が立脚する余地はあるのだろうかと問いかける。そこでユク・ホイが援用したのが、「思索 thinking」という語の可能性に注目するというハイデガーの議論である。ユク・ホイはハイデガーの「哲学の終焉と思索の課題」というテクストに着目し、ハイデガーが哲学という制度にとらわれない(があくまで西洋的な)ものと考えていた「思索」を、非ヨーロッパの思想も含めるものとして発展させなければならないと主張する。こうして「哲学の終焉」以後のあらたな思想が、つまりポストヨーロッパ哲学が可能となるのである。「哲学の終焉」が近代的なテクノロジーと密接に関連している以上、ポストヨーロッパ哲学への問いのなかでは、技術への問いが、とりわけ西洋哲学とは異なる起源をもつ技術の探求が、不可欠となるのである。

宇宙技芸と中国哲学

技術の起源として、西洋哲学とは異なる思考のありかたを探求する。ユク・ホイのねらいはひとまずこのように要約できる。そして、この探求において鍵となっているのが、技術が普遍性と特殊性を併せもつという事実である。彼はルロワ゠グーランの議論を参照しながら、つぎのように説明する。つまり、技術はたとえどんな文明や文化圏のものであっても、身体の機能(切る、支える、刻む、持つ……)や記憶を外部化したものであるといったような共通点ないしは傾向をもつのだが、同時にひとつの事実として、技術は各文化によって異なるかたちであらわれ、場合によっては、たとえ外来の技術を取り入れてもそれに取って代わられることなく保全されるのであると。ユク・ホイはこうした技術の特殊性の例として料理を挙げる。つまり、外国のレシピや調理法を取り入れても、もとの食文化が消滅することはないということだ[★5]。

技術の特殊性は、ユク・ホイの哲学を支える重要なポイントだと言ってよい。なぜなら、個々の技術が特殊であるという事実によって、それらの技術に関する思考もまた特殊かつ複数でありうるという洞察が導かれるからだ。彼の『中国における技術への問い』は、まさにこうした認識のもとで、上述の前提を念頭に、いわばハイデガーへのひとつの応答として中国の技術哲学を打ち立てようとした書物である。この本のなかでユク・ホイは、ダオチィ、それから宇宙技芸 cosmotechnics という概念を提示しており、それらは今回の議論でも焦点となった。

スライドを用いて語るユク・ホイ。プレゼンのあいだも、石田や東が繰り返し質問をする場面がみられた。

道と器の概念やその関係性は、中国思想においてきわめて重要なものである。中国において両者の関係性そのものが「道器論」として主題的かつ積極的に論じられるのは、だいたい宋代や明清以後なのだが、道と器というカテゴリー自体は『易経』など古代のテクストからひろく用いられている。

ユク・ホイの定義によれば、「道」とは万物の至高の原理(たとえば儒家の言う天=宇宙の秩序と人間の道徳性の統一という境地)であり、ゆえに無限とされる[★6]。他方「器」は一種の有限性をもつ道具や器具、あるいはひろく技術的対象のことを指しているという。しかしじつのところ、中国哲学において道と器はあまりに多様な意味をもっており、端的に定義するのはとても難しいというのがぼくの実感である。たとえばユク・ホイもイベント中に引用していたのだが、『易経』の「繋辞上伝」には「形而上であるものを道と言い、形而下であるものを器と言う(形而上者謂之道、形而下者謂之器)」と書かれており[★7]、器が技術的対象にかぎらずきわめて広範な意味をもちうるのがわかる。じっさい、『文心雕龍』の「原道篇」では、人間が「有心の器」だと述べられているのである[★8]。とはいえ、中国の技術哲学を構築しようとする近年の試みの多く(絶対数はきわめて少ないが)は「道器論」の伝統を継承するかたちで行なわれているため、ユク・ホイの定義や用語法は、中国哲学の専門的な見地からもおおむね理にかなったものだと言えるだろう[★9]。

道と器の概念は一見対立する概念のようにも思える。しかし、そうではないとユク・ホイは言う 。しばしば言われるように、中国思想は天=宇宙と人間の相関的な思考に高い価値を置くという特徴をもっているのだが、そこではたとえば祭祀の道具のように、器が宇宙と人間の関係性を媒介するものとして考えられているのであるのだという。また道はそもそも諸存在者の至高の秩序を表すため、器もまた道に適合していなければならない。したがって、道と器は究極的には統一すべきものであると考えられる。これがユク・ホイの強調する 「道器合一」である。このあたりの詳細は『中国における技術への問い』で論じられているので、ぜひとも読んでいただきたい[★10]。

宇宙技芸 cosmotechnics とは、こうした道と器の関係性から導かれた概念である。この語からは宇宙技・・ space technology 、つまりロケットを遠くに飛ばすような技術を想起するかもしれなが、それとは別物である(だが厳密に言うと、ロケットも数ある宇宙技芸のひとつにはなるだろう)。宇宙技芸とは、端的に言えば宇宙論と密接に結びついた技術のことである。ユク・ホイは中国の宇宙技芸のひとつの例として漢方を挙げている。漢方はじっさいにひとつの技術として開発されただけでなく、その仕組みが陰陽や五行説といった、中国の伝統的な宇宙論に関する多くの理論によって形成されているからだそうだ。

とはいえ、そもそもなぜ宇宙なのだろうか? プレゼンのなかで、ユク・ホイは宇宙論は特殊な技術だと述べている。つまりそれぞれの文化がもつ宇宙論の差異を明らかにすること自体が、技術の多様性を示すひとつの有効な手段であるということだが、彼のねらいはさらに先にある。『中国における技術への問い』の序論でユク・ホイは、ルロワ゠グーランによる技術の普遍性と特殊性(技術的傾向と技術的事実)の対比モデルが、結果的に技術の特殊性を環境的要因のみに還元してしまったことを批判しつつ、宇宙論的かつ形而上学的な観点からの問題設定の必要性を強調している。つまり宇宙論とは、単に技術の特殊性の産物であるだけでなく、ひとつひとつの特殊な技術を背後で支える形而上学的な基盤でもあるということだ。その意味で、彼にとって本質的には「技術はつねに宇宙技芸である」[★11]。

哲学を変える/世界を変える

こうしたユク・ホイの議論を受けて、石田英敬は、中国の宇宙技芸として占いと文字に言及した。よく知られるように、中国の文字のはじまりは、文字と占卜が結びついた甲骨文字にある。シャーマンによる占いの道具=器であり文字のメディアでもあったこの甲骨には亀の腹甲などが使用されたわけだが、石田によれば、甲骨はそれ単体で理解されるべきではなく、むしろ亀という動物全体の一部と見なされなければならないのだという。なぜなら、亀そのものが、宇宙を観測する器としての性質を付与されていたからだ。

宇宙技芸としての亀について語る石田。一見ユーモラスでありながら、そこには記号の原始的な形態や宇宙技芸といった多くの重要な論点との接点が仕込まれていた

石田の解説によれば、ここでは亀の背側が天を象徴し、腹側が地を示している。そして天と地の境界面インターフェイスに、人間が関与し、文字が刻まれる甲骨というメディアが展開されているのだという。これは地に立つ人間が、シャーマンを介して天からのメッセージを受け取り、記録するというプロセスを具現化しており、まさに当時の中国人の世界認識の道具であると言えるのだ。そのため石田は「亀は中国人が手にした最古のスマホ」であったと述べた。半ば冗談とはいえ、手で触れながら文字を刻み込む、世界認識のためのインターフェイスであるということで、きわめて興味深い表現である。

とはいえ、石田にとってより重要なのは、殷代の甲骨ではなくむしろ周代の筮竹ぜいちくであろう。筮竹とは易の占いに使用された棒のことである。石田は二進法と易の八卦との関連を述べたライプニッツの議論を参照し、アナログな骨の割れ目や文字記録に規定された甲骨の占いから、陰と陽の二進法的な記号の法則によって行なわれる筮竹での占いへの転換のことを、「デジタル的転回」と呼ぶ[★12]。

陰と陽のふたつの記号の組み合わせによって占いを行ない、また宇宙や世界を記述しようと試みた『易経』は、中国思想でも最重要文献のひとつだが、ライプニッツが自身の編みだした二進法の高度な表現をそこに見出したように、石田もまた、『易経』の八卦がもつバイナリ性に着目する。また、『易経』によって表現された宇宙論を軸として、いわゆる十三経[★13]をはじめとする重要なテクストが形成されたことから、『易経』を中心とする百科事典的な想像力を見て取ることができると述べた(とはいえ『易経』も五経ないし十三経のひとつではあるが)。

『新記号論』のなかでも漢字を生みだしたという蒼頡の故事を引用するなど、ユク・ホイと同様に自身の技術哲学に中国的な要素を取り入れている石田だが、東は、ふたりのアプローチが大きく異なると指摘する。具体的には、ユク・ホイがいわば哲学における地政学的な転換のなかで中国に言及するのに対して、石田は具体的かつローカルな問題にあまり言及しないのだという。イベント内ではこの相違についてあまり掘り下げられなかったが、ここで簡単に検討してみよう。

単純なところでは、やはり両者の目的のちがいがアプローチの対照性を生みだしていると言えるだろう。『新記号論』のもとになった石田のゲンロンカフェでの連続講義が「一般文字学は可能か」というタイトルであったことからも明らかなように、石田の理論的な関心は一般性に集中している。それゆえ、石田が中国の技術に言及するのは、それが彼の構想するあらたな哲学の一般理論にとって有益であるかぎりにおいてなのである。他方、ユク・ホイにとって重要なのは技術の特殊性だ。すでに確認したように、ユク・ホイが技術への問いにこだわるのは、それがテクノロジーと西洋哲学の統一的な支配という世界(史)的な状況、つまり「哲学の終焉」の時代に抵抗するもっともラディカルな方法のひとつだからである。あえて端的に言えば、哲学が終焉を迎えた世界のなかで、哲学によって哲学を生まれ変わらせようとしているのが石田英敬であり、哲学の外側から世界を変えようとしているのがユク・ホイなのだ。

またこのちがいは、中国の技術を論じるときに、石田がライプニッツに触れ、ユク・ホイがジョセフ・ニーダムに言及するという相違のなかにも象徴的に表れていると言えるだろう。ライプニッツによる中国へのまなざしはじつに興味深く、発展的に継承されるべきものだが(それをきわめて刺激的なかたちで継承したのが「新ライプニッツ派記号論のために」や『新記号論』だった)、しかしジャック・デリダがライプニッツの解釈を「無知というよりは無視」にもとづく「ヨーロッパの幻想」であると批判したように、それは必ずしも中国の文脈から見て正確なものだとは言えない[★14]。むろん、デリダの批判が的確であっても、ライプニッツの哲学の重要性はいささかも損なわれないのだが。一方でユク・ホイは、偉大な中国学者のひとりであるジョセフ・ニーダムにしばしば言及している。ニーダムは「なぜ中国では近代的なテクノロジーが生まれなかったのか?」という有名な「ニーダムの問い」を立てたことで知られている。そして、歴史的大著『中国の科学と文明』をはじめとする多くの著作を通して、中国における技術と文明の特質を、つまりは中国の技術の特殊性を明らかにしていったのだが、こうしたニーダムとライプニッツの相違は、たしかにユク・ホイと石田のアプローチの対照性を彷彿とさせる。

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