- 2019年10月24日 10:43
海民と天皇
2/2■無縁の場・無縁の人
日本列島住民の海民性ということについて、ここまで書いてきた。海民と天皇の結びつきについては、まだ言葉が足りない。ここで「無縁」という補助線を引くことによって海民と天皇の間の繋がりを際立たせてみたいと思う。
古代中世以来、列島の各地に、「無縁の場」が存在した。無縁とは文字通り「縁が切れる」ことである。ここに駆け込めば、世俗の有縁(夫婦関係、主従関係、貸借関係、さまざま賦課など)を断ち切って、人は自由になることができた。それは飢える自由、行倒れになる自由と背中合わせではあったが、それでも自由であることに変わりはない。無縁の場とされたのは寺社、山林、市庭、道路、宿、とりわけ河原であった。
「『宿河原』とよく言われるように、『宿』はしばしば河原の近辺に所在している。これは、交通とも無関係ではなく、さきにふれた淀の河原のように、そこに市の立つ場合もあったのであるが、なにより、河原が死体・髑髏の集積地であり、葬地だったからにほかならない。(...)河原は、まさしく賽の河原であり、『墓所』、葬送の地として、無縁非人と不可分の『無縁』の地であった。それ故にここは、古くは濫僧、屠者、中世に入ってからは斃牛の処置をする『河原人』『餌取』『穢多童子』、さらには『ぼろぼろ』など、『無縁』の人々の活動する舞台となったのである。」(網野善彦、『無縁・公界・楽』、平凡社、1978年、30-31頁)同書、154-155頁)
無縁の人である聖上人たち宗教者の活躍が際立ったのもそこである。「橋を架け、道路をひらき、船津をつくり、泊を修造」するという仕事は行基・空也以来、
「必ずといってよいほど、聖の勧進によって行われた。」(同書、166頁)「『無縁』の勧進上人が修造する築造物は、やはり『無縁』の場でなくてはならなかった」からである(同書、168頁)。
「無縁」者には次のよう職種の人たちが含まれる。
「海民・山民、鍛冶・番匠・鋳物師等の各種手工業者、楽人・舞人から獅子舞・猿楽・遊女・白拍子にいたる狭義の芸能民、陰陽師・医師・歌人・能書・算道などの知識人、武士・随身などの武人、博奕打・囲碁打などの勝負師、巫女・勧進聖・説経師などの宗教人」(同書、187頁)。
彼らはそれぞれの職能を生業として広範囲を移動したわけだが、移動の自由のためには関渡津泊・山野河海・市・宿の自由通行の保証を得ていなければならないわけだが、彼らにその保証を与えていたのは天皇であった。<
「こうした『無縁』の場に対する支配権は、平安・鎌倉期には、天皇の手中に掌握される形をとっていた。多くの『職人』が供御人となっていった理由はそこにある。」(同書、188頁)海民たちには、古代から天皇・朝廷に海水産物を贄(にえ)として貢ぐ慣習があった。彼らは「無主」の地である山野河海を生業の場とする。中世にそれらの土地は天皇が直轄する「御厨」なった。その住民たちは天皇の直轄民となり、「供御人」と呼ばれるようになった。海民と天皇はここで「無縁」という空間を媒介として結びつくのである。
歴代天皇のうちで無縁の者たちとの繋がりが最も際立っていたのは後醍醐天皇である。後醍醐天皇は「無縁の者」たちをそのクーデタのために動員した。その結果、建武期の内裏には、天皇の直接支配を受けるかたちで、覆面をし、笠をかぶった聖俗いずれともつかぬ「異形の輩」「悪党」たちが闊歩していた。
だが、無縁の人とのかかわりが深かったにもかかわらず、後醍醐帝と海民の結びつきについては、熊野海賊が軍事的支援をしたという以外には特筆すべき事績が見当たらない。これは後醍醐が日本歴史上例外的な「中央集権的な天皇」であったことと無関係ではないだろう。
すでに見たように、中央政府のハードパワーが強く、海民たちがその完全な支配下にあった時期、例えば律令期や得宗独裁期や建武の天皇親政期、そして明治以後は、海民は政府に中枢的に統御されていた。活動が「官許」されていたわけであるから、海民たちはそれなりの存在感を示していた。だが、それは社会そのものの性格が海民的であることとは違う。日本社会の海民性が際立つのは、中央政府の支配力が衰え、中枢的な統制が弱まった時である。
■道と海民
政治的支配の強さと海民の活動がゼロサムの関係にあるという仮説の一つの傍証として五畿七道という古代の交通制度を見ておきたい。
律令時代に五畿七道という行政制度が整備された。七道(山陽道・山陰道・西海道・東海道・東山道・北陸道・南海道)の「道」というのは現在の北海道と同じく行政単位の名だが、古代では、それが道路に沿って展開していた。全長6300キロに及ぶこの道路は幅が6メートルから30メートルあり、
「都と地方を結ぶ全国的な道路網であり、その路線計画にあたっては、直進性が強く志向されている」と近江俊秀は書いている。(『古代道路の謎』、祥伝社新書、2013年、25頁)
今、数字を書き連ねてみたが、6300キロというのは現在の高速道路網の総延長(北海道を除く)に匹敵する。私たちの家の前の一般道路は一車線せいぜい3メートルである。30メートル幅の道路というのがどれほどの規模のものかはそこから知れるだろう。
江戸時代に幕府が造営した五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)は幅3・6メートルで、地形にあわせて屈曲する道路であった。今の生活道路と変わらない。
しかし、古代に造営された七道は現在の高速道路と同じく、地形とも地域住民の生活ともかかわりなく、ただ都から地方の要衝までをまっすぐ定規で線を引いて作られたのである。そこが湿地であろうと掘削しないと通せないところであろうと地盤が弱く保全が困難な地形であろうと、駅路は直線的に造られた。
都から地方への軍略物資の輸送、地方から都への貢納品の輸送というのが、交通網としての実用目的だったと推察されるが、それでも理解しがたい点は残る。何よりもまず道路が直線であれば人は早く移動できるというものではないからだ。 生身の人間にとって歩きたい道というのは直線とは限らない。川沿いや木陰や谷合や峠の、歩いて気分がよく、休憩したり、飲食したり、一夜を明かすのに適した場所を縫って生活道路は形成される。土地と人間の「対話」をベースにして作れば道路は必ず屈曲する。だが、古代道路はそうではない。ということは、古代道路は机上の計画だけに基づいて設計されたということであり、あえて言えば人間的な、生理的な基準を無視して設計されたということである。
古代道路を最も頻繁に用いたのは納税のために都に上る庶民だったが、彼らはいつ故郷を発ち、都まで一日何キロ歩くかまでが法で定められていた。納税を終えて故郷に帰る人々が帰路、餓死する事例が多発したと『続日本紀』には記載がある。(同書、97頁)七道はそれほどに非人間的な道路だったということである。それゆえ、近江は
「古代駅路には『国家権力を人々に見せつけるための象徴』という意味があったことがわかるのである」(同書、27-28頁)としている。
ここには言及されていないが、もう一つ腑に落ちないのは、七道には水上交通が含まれていないことである。大量の物資を短時間に運ぶという点でいえば、すでに十分な発達を遂げていた河川湖沼の水上交通を無視するというのは政策として不合理である。でも、七道が国権の誇示のための装置であったとするならばそれも理解できる。律令国家の支配者たちは水上交通を司っていた海民たちに向かって「お前たち抜きでも国家のロジスティックスは成り立つ」ということを告知し、かつ軍事物資や貢納品を決して海民の手に委ねないことによって、国家は海民たちを決して信用しないという強い意志を伝えたと考えれば、それも理解できる。
古代道路のもう一つの特徴は、これほど巨大なプロジェクトの成果であるにもかかわらず、短期間で廃用されたことである。国が総力をあげて造営した交通網が100年ほど後には草生し、崩れ、人気のない無住の地になった。古代道路の遺構は今でもしばしば田畑や山林から発掘されるが、それはそれ以後それを道路として使った人間がいなかったということを意味している。
そして、
「それまでの計画的な大道が荒廃しはじめる過程」が始まると同時に、大量の物資を輸送するルートとしての海、川の交通路の役割が再び表に現われ」るのである。(網野、前掲書、135頁)
古代道路に荒廃から、私たちは国威発揚や権力誇示といった観念的な目的のために人間という「ものさし」を無視して行われた巨大事業の末路を知ることができる。そして、そのようなタイプの政治と海民文化がゼロサムの関係にあることも知れるのである。
■おわりに:テムズ川についての二つのエピソード
『四つの署名』でシャーロック・ホームズは犯人を追ってロンドン市内を走り、最後にテムズ河岸に至る。犯人はそこから船で逃亡したのだ。だが、一艘の汽艇をテムズ流域から探し出すのは不可能に近い。船の外見もわからず、両岸のどこの桟橋に停泊したかもわからず、
「橋から下は何マイルというもの、そこらじゅう桟橋だらけで、まるで手がつけられやしない」とホームズを嘆かせる。(サー・アーサー・コナン・ドイル、『四つの署名』、延原謙訳、新潮文庫、1953年)
それに河岸で水上交通に携わる人々は部外者が入り込むことを嫌った。河岸の出来事について何か知りたがっていると気取られると「あの手合いは牡蠣のように口をつぐんでしまう」のだ。ロンドン警察も、ホームズ子飼いのベイカー街の少年探偵たちも河岸に入り込んで情報をとることができない。結局はホームズが老海員の変装で河岸を探偵して、インサイダーのふりをすることでようやく汽艇についての情報をつかむ。
それからスコットランドヤードと盗賊たちの汽艇の競走が始まる。ロンドン塔の下から海に向かって追跡は始まり、アイル・オブ・ドッグズの鼻先を回り、ウーリッジのあたりで追いつくけれど、盗賊たちは右岸へ接岸して逃れようとする。「そのあたりの河岸は一面に荒涼たる沼地で、人気はなく、よどんだ汚水と腐れかかった汚物のうえに、こうこうたる月が照りわたっていた。」
グーグルマップで見ると、今もそのあたりには汚れた遊水地と埋め立て地に広がる野原以外には目立った建物もない(刑務所があるくらいだ)。ホームズの時代にはどれほど荒涼とした場所だったのだろう。ロンドンを出た犯人たちが向かうのはテムズ下流のグレイブズエンドあたりだろうとホームズは推理していたが、Gravesend とはまさに「墓場の果て」の意である。
19世紀のテムズ川は生活排水、生ごみ、糞尿、工業用排水、動物の死骸まであらゆる汚物が流れ込んだ「世界一汚い川」であった。その下流の湿地帯どこかに逃げ込んでしまえば、もう警察の捜査の及ぶところではなかったのである。
『四つの署名』の水上追跡場面がシャーロック・ホームズの数ある活劇シーンの中で屈指のものであるのは、テムズ川を波しぶきを上げて疾走する一隻の汽艇とその黄色い探照灯が届く範囲だけがかろうじて文明と理性の及ぶ圏域であり、その外側には暗闇と悪臭と汚泥と犯罪の「無縁の地」が広がっているという構図の鮮やかさのせいである。
今の皇太子である徳仁親王はオックスフォードに留学したときにテムズ川の水上交通を研究テーマに選んだ。なぜそのような特殊な研究主題を選んだのかについて親王はエッセイの中でこう書かれている。
「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる『道』についてたいへん興味があった。」(徳仁親王、『テムズとともに』、学習院教養新書、1993年、149頁)高校時代まで皇太子の関心は近世の街道と宿駅に向けられていたが、大学史学科に籍を置いてからは、「律令制のもとで整えられた古代の駅制と幕藩体制下で整備された近世の宿駅制との間にあって、まだ十分に研究の及んでいない中世の交通制度に関心が移ってきた」のである(同書、150頁)。
律令期の七道と近世の五街道の間の中世の交通制度について「まだ十分に研究が及んでいない」ことを奇貨として中世の道と宿駅の歴史的意義を問い直したのは網野善彦である。そして、徳仁親王が「道」の研究のために学習院史学科に進んだ1978年は、まさに網野の『無縁・公界・楽』が刊行された年であった。徳仁親王の研究関心が網野の本と無関係であったと考えることはむずかしい。
徳仁親王が就いたオックスフォードの指導教官マサイアス教授は、最初にこれまでの研究成果として、日本の交通史を概観するレポートの提出を言い渡した。親王が古代から江戸時代までの交通制度について書き上げた概論を一読した教授から
「自分の意見をもう少し書くようにと言われ、なぜ日本では馬車が発達しなかったのかを少し考えるように指摘をされ」た親王は「早くもこれから先が大変だなと思わざるをえなかった」(同書、153頁)と慨嘆した。
なぜ日本では馬車が発達しなかったのか、これはある意味で研究動機の核心を衝いた問いであった。答えはもちろん「水上交通が発達していたから」である。ではなぜ日本列島では水上交通が発達していたのか。それは海民と天皇の間に深い結びつきがあったからである。けれども、親王は当事者としては「自分の意見」を自制せざるを得ない。天皇と海民のかかわりには触れずに、日本の水上交通の特異性をイギリスの歴史学者に説明する作業を思いやって、親王はおそらく慨嘆したのである。
徳仁親王の研究内容について触れる紙数はないので、親王がテムズの語源について書かれた印象的な一節を引いてこのとりとめのない論考を終わらせたいと思う。
「なお、テムズ(Thames)の語源について、マリ・プリチャード、ハンフリー・カーペンター共著'A Thames Companion'では、『暗い』を意味するTemeをあげている。ケルト人は河川に対する信仰をもとに、沼沢地も多く近づきにくい未開発のこの河川を『暗い』、『神秘的』であると受け止め、この印象がその後の諸民族にも引き継がれて、『テムズ川』と呼ばれたのであろうと推定している。まことに興味深い説である。」(同書、156-157頁)



